「愛」と「信念」
2021.01.16 心の成り立ち(入門)
「善」を行なう動機は主に二種類で「愛」または「信念」です。この両者の精神性の違いを理解することは非常に大事です。
「愛」は「他者を大事に思う心」であり「他者を大事に思う」からこそ「他者のため」に何かをしたいと思う方向性です。それに対して、「信念」は「正しいことを行おうとする心」であり、「正しいこと」を実践しようとする方向性です。
「信念」という言葉自体は「自分のため」の「信念」と「誰かのため」の「信念」の両方のケースがありますが、「善の信念」とは、「誰かのため」や「世の中のため」に「正しいことを行おうとする心」です。この文章では、そういった「善の信念」について書いていきます。
【「愛」と「信念」の違い】
「信念」よりも「愛」を「動機」に人は「善」を実践すべきです。というのも、「信念」は冷たい感じになりやすく、冷たいからこそ「愛」よりも「偽善」に通じやすいからです。
ただ、「信念」は「愛」よりも冷たいからこそ実践できる「善」があることも事実です。つまり、「愛」が故に実践することが困難は「善」はあり、そういった「善」を実践する際は「信念」を使った方が有効であることはあります。
しかし、この「善」の実践は一歩間違えると大変危険な「悪」にもなり得ます。特に、「賢さ」に欠ける人は「間違ったこと」を「正しいこと」と思いやすく、そういった場合の「信念」で動くことは大変危険です。
例えば、「いじめは他人を強くする力があるから、いじめは正しい」という「信念」を抱いた高校生がいたとしたら、その高校生は「他者のため」に何かをしているつもりでも、結果的には他者にトラウマを植え付け続けるだけかもしれません。
いじめられたことによって結果的に「強さ」を養う子供はいますが、全員が全員そういうわけでもなく、いじめられたことによって心に「闇」を抱えて生きていく人も多くいます。だからこそ、「いじめは他人を強くする力があるから、いじめは正しい」という「信念」は間違っています。
つまり、正しい「信念」を抱くためには、「物事の本質を見定める力」=「賢さ」が非常に大事です。そうでないと、「間違ったこと」を「正しいこと」と信じ、「善」を行なっているつもりが「悪」を実践することに繋がってしまいやすいです。
「信念」をベースにすることは常にこういった危険性がありますから、人は「信念」よりも「愛」をベースにすべきです。ただ、必要に応じて「信念」も使えた方がよく、両者の長所を活かすために、「愛」と「信念」の長所と短所を知っておくことは大事です。
「愛」の方向性は極めて「感情的」なものであって、「正しい」かどうかをベースにするものではありません。それに対して、「信念」の方向性は極めて「感情的」ではなく、「正しい」かどうかをベースにするものです。
つまり、「愛」の方向性は「(他者のために)〜したい」という方向性であるのに対して、「信念」の方向性は「(他者のために)〜すべき」という方向性です。
【「愛」と「信念」を組み合わせることの価値】
理想的には「〜したい」という「愛」を「〜すべき」という「信念」によって補強することが「善」を実践する上で好ましい構造です。こういった構造を持つことによって、迷うことなくブレることなく「善」を実践しやすくなるからです。
逆に言うと、「〜したい」という「愛」だけだと、本当にそれが「相手のため」になっているのかを「不安」に思いやすいですし、酷いケースだとその「愛」の実践を止めてしまいます。
このことを言い換えると、「〜したい」という「愛」だけだと「深み」が足りないのに対して、「したい」と思っているその「善」について、何故それを「すべき」なのかという考え(信念)を持つことで、「深み」が足されていくとも言えます。
「愛」を抱く者は、自分自身が行なっている「善」が果たして本当に「他者のため」になっているのかを自ずと「問う」ようになります。そのような「問い」の先に正しい「答え」を見つけられるとしたら、その「答え」が「信念」となり、その「善」を良い形で支えるようになります。
「他者のため」に何かをしようとしている人は、このような形で「愛」と「信念」を組み合わせることを目指して頂けると、より良い「善」の実践をしていくことができます。
※この文章は『「善」と「偽善」』についての文章と組み合わせて理解することにより、より深い理解を得られます。