以前は「美学(ナルシズム)」を使って「闇を以て闇を制す」ことについて主に書きました。こちらに「闇を以て闇を制す」の基本的な考えも書いているので、まずこちらから読んで頂けると幸いです。

http://junashikari.com/emotion/fight-one-darkness-with-narcissism/

ここでは、「依存」によって「闇を以て闇を制す」ことについて書いていきます。ただ、これは結構危険なアプローチなのでちゃんと理解することが大事です。

「依存」は「何かにすがる気持ち」です。「依存」は自分一人で立っていられない、何かにすがらないと生きていけない人間を作るので、本質的には恐ろしい「闇(病み)」です。しかし、一瞬の「依存」は有効に働くことがあります。何故ならば、「依存」は誰かに自分が助けられることを促すからです。

例えば、ものすごく強い失恋をした時、人は深い「絶望」に堕ちます。そういう時に、誰かの助けがあるとその「絶望」をごまかすことが可能になることもあります。「依存」はそういった形で、何らかの強い「闇」をかわす上で有効なことがあります。

ただ、「依存」を使う場合は本当に注意が必要です。「依存」に意図せず堕ちてしまった時も、「依存」を意識的に使う時も共通して重要なことですが、もし「依存」を使う場合は、助けを求める相手を間違えないことです。では、助けを求めるべき相手とは誰かというと、自分を助けたいと思ってくれる人です。つまり、「愛」がある人です。

「愛」が弱い人からすると、誰かに助けを求められることは「ウザイ」ことです。何故ならば、そういう人達は「めんどくさい」と思うからです。だからこそ、助けを求める相手を間違えると、その相手から嫌われることに繋がりますし、頼られた方もただ「嫌悪」に堕ちるだけです。ですから、「依存」に堕ちた時はいつも絶対に、「愛」の弱い人には頼らないことです。

では、「愛」が強い人に頼れば問題ないかというと、できるだけ「賢さ」がある人の方が好ましいです。何故ならば、「賢さ」を持った人の方が、相手を助ける上で好ましい方法が何なのか見出しやすいからです。「愛」があっても「賢さ」がない人だと、ただ相手を慢性的に「依存」に堕とすことをよくします。これは誰かの「光(愛)」が「闇(依存)」を助長するケースです(だからこそ、「愚かさ」はダメです)。逆に言うと、頼られた方の人は相手を慢性的に「依存」に堕とさないように注意することが大事です。

もし「依存」によって誰かに頼る際は、ものすごく短期的にのみ頼るようにして下さい。そうでないと、「依存」に取り憑かれるからです。最初に書いたように「依存」は本質的に人間をダメにするものです。だからこそ、「依存」を使う場合はできるだけ早く「依存」から抜け出ることが大事です。

例えば、失恋して深い「絶望」に堕ちてしまった時、短期的に誰かに頼ることはそのまま「絶望」にはまり続けることよりはマシだったりします。何故ならば、深い「絶望」に入り続けることは自殺や事故に繋がる程にかなり危険なことだからです。ただ、そういう時も「絶望」が弱まってきたら、自分一人でなんとかする努力をした方がいいです。

「依存」が「闇を以て闇を制す」ことに繋がるケースは、自分が堕ちている「闇」が使おうとしている「依存」という「闇」よりも大きい時のみです。自分が堕ちている「闇」が使おうとしている「依存」よりも小さい時は絶対に「依存」は使うべきではありません。そういう「依存」の使い方をしていると、ちょっとしたことで何かに「依存」しないと生きていけない人格となってしまうからです。整理すると、

       闇(依存)を以って闇(絶望など)を制す
       小        大      →         有効(深い闇に堕ちることを回避)
       大        小      →         逆効果(依存に人格が取り憑かれる) 

「誰かに頼る」という行為を促すのは「依存」だけではありません。「愛」でも「欲望」でも人は「誰かに頼る」ということはします。例えば、誰かが素晴らしい音楽を作ろうとしている時に、あるドラマーにドラムを叩くことをお願いすることは「依存」しているわけではありません。もし音楽を作るための動機が「他人のため」であれば「頼る」ことも「愛」が動機ですし、音楽を作る動機が「自分のため」であれば「頼る」ことも「欲望」です。

ただ、我々が深い「闇」に堕ちている時、「愛」や「欲望」で「誰かに頼る」ことは難しく、大体の人は「依存」で「誰かに頼る」ことを行ないます。何故ならば、「辛さを抜け出したい」という動機が「依存(誰かにすがる気持ち)」に繋がるからです。だからこそ、「依存」を使わざるを得ない時にどのように「依存」を使うべきかは知っておいた方がいいです。

頼る相手が人間でなければ相手に嫌われるリスクも、相手を不愉快にさせるリスクもありません。しかし、相手が人間でないと常に頼ることがしやすくなるので、それはリスクです。例えば、現実を見たくないから非現実の世界に「依存」していく人はよくいます。漫画やアニメといったものは自分が求める時に常に見れるからこそ、いつでも「依存」しやすいものです。「依存」を動機に漫画やアニメのオタクになる人達はそういった構造を持っています。ですから、人間でないものに「依存」する場合は特に、自分が慢性的にそれに「依存」することを警戒して下さい。

理想的には「依存」は一切使うべきではありません。ですので、「依存」を「闇を以て闇を制す」ために使うのは最悪の手段に考えて頂ければ、と思います。どんな深い「闇」に堕ちてしまっても、心の「強さ」があれば、自分自身の力で「闇」から抜けられます。

逆に言うと、そういう時に人は「強さ」を獲得できます。ですから、失恋による「絶望」といった強い「闇」はいい試練(修行)でもあります。ただ、そのまま「闇」に取り憑かれれば、もはや試練(修行)でもなくなるので注意です。例えば、失恋した時にそのまま男性不信・女性不信になるケースなどは「絶望」が故に「疑い」や「不安」に取り憑かれるケースであって、この場合の失恋は、もはや試練(修行)ではなく、ただの「闇」を促すきっかけです。

自分自身の力でなんとかすることが最も大事ですが、人はそんなに強くないです。なので、自分自身でどうこうしようとするよりも、誰かの力を借りた方がいい時もあります。そういう時に誰かに頼ろうとすると、自ずと「依存」に堕ちるので、その時の「依存」の使い方や注意すべきことは、一応知っておいて頂けると幸いです。

あと、最後に一点大事なことを書いておくと、我々人間は眠ることができますし、寝れば結構「気分」は変わります。ですから、心が深い「闇」に堕ちた時、睡眠に頼ることはかなり有効です。

そのことから逆に言えることは、眠れなくなった時こそ注意が必要だということです。全てはケースバイケースなので、眠れなくなった時に必ず「依存」を使った方がいいとは言えませんが、眠れる時よりも眠れない時の方が「依存」を使ってでも「闇を以て闇を制す」方法を使った方がいいということは言えるかもしれません。
 

※補足説明

「愛」が小さな人は、誰かに頼られることを「ウザイ(嫌悪)」と感じるということを書きましたが、この構造から明らかなことは「愛」に欠けた社会では、誰かの「依存」は「嫌悪」という「闇」を助長するだけになるということです。ですから、社会全体の「愛」が失われていけばいくほど、「依存」を通して「闇を以て闇を制す」方法は使えなくなります。今の日本社会は一歩一歩そういう方向へ向かっている危機的な状況なので、それを止める必要があります。

では、それを止める具体的な方法として何があるかというと、「愛」と「賢さ」がある人が喫茶店を始めることなどが大事です。そういう人が喫茶店のカウンターに常に立つことなどは、「依存」を通して「闇を以て闇を制す」ことを促すためのスイッチになり得るからです。いい人が喫茶店を始めることなどには、このような大きな意味があることも、この文章を通して理解して頂けると幸いです。

少数派ではあっても、日本社会に「愛」と「賢さ」がある人はいます。そういう人が頑張ることは全体にとって大きな意味があります。