怒りっぽい人と全然怒ることがない人とはいます。同じ人間でもこのような違いがあるのは、人によってどのくらい怒りの気を持っているかが違うからです。「怒り」の気を多く持っている人とは怒りっぽく、「怒り」の気が全く無い人は全然怒りません。

「怒り」とは何なのかというと「その人に攻撃したい気持ち」のことです。人は怒るとその人に怒鳴ったり殴ったりします。怒鳴ることも殴ることもこれは「攻撃」です。「怒り」という感情はそういった「攻撃」を求める気持ちに他なりません。それは言い換えると「攻撃」を「欲望」する気持ちになります。ですから、「怒り」とはその性質上「欲望」を内に含んでいます。そういう意味で、「怒り」の気とは二つの闇の気によって成立している気であり、強い闇の気です。

ある人に対して闇の感情を持つ時、その気持ちは基本的に「嫌悪」か「怒り」のどちらかです。「嫌悪」の延長線上に「嫉妬」「他者を咎める心」などもありますが、基本ベースはこの「嫌悪」と「怒り」になります。そして、この「嫌悪」と「怒り」とは立場が異なります。

「嫌悪」と対立の感情は「愛」です。ですから、「愛」する人に「嫌悪」するということは不可能です。しかし、我々は「愛」する人に対して時に「怒り」の感情を抱くことはできます。「怒り」とは「愛」がそこにあるかどうかと関係無く、ただ単純に「相手に対する攻撃を欲望する気持ち」だからです。「愛」があるからこそ、「怒り」の感情を抱く人だっています。

こういった、それぞれの気の特徴をよく理解して下さい。もっと正確に言うと、様々な観点についてのそれぞれの気が持つ包含関係をよく理解して下さい。そういったことを通して我々は様々なことを誤解せず、正しく問題を認識し、魂を向上させていくことができます。

例えば、奥さんに向かって「怒り」の感情をぶつけてしまった男性がいるとします。彼は「愛が足りないから自分は妻に対して怒ってしまったのだろうか」と自分を責め始めます。それはある意味正しいですが、彼が彼女に怒ってしまった根本的な理由は「愛が足りなかったから」ではなくて、「彼が(少し)怒りっぽい人間であるから」です。言い換えると、「彼の中に『怒り』の気が入っているから」です。

正確な気についての知識が無ければ、この男性のように間違った形で自分を責め始めたりし始めます。そして、自分を責め始めるあまりにこういったケースで酷い場合は離婚まで発展することだってあります。「俺はいつもあなたに怒っている。だから自分はあなたを本当には愛していないのだと思う」というような間違った結論に彼が至る可能性があるからです。

これは「愛」という観点についての「嫌悪」と「怒り」の違いの話ですが、こういった形で様々な観点からそれぞれの感情(気)は分析し、理解するべきです。そして、こういったことを真に理解するためには、ただこういった説明を知識として鵜呑みにするのではなくて、あなたの日常生活の中で自分の心を見つめることによって「気付き」にしていかなければなりません。

これは度々書いていますが、「知識」と「気付き」は異なるものです。何が違うかというと、「知識」と「気付き」では「実感」の大きさが異なります。我々は「知識」を付けていくために生きているのではなくて、この「実感」の大きさを大きくしていくために我々は生きています。つまり、真の「気付き」を得ていくために生きています。我々が「気付き」を得るべき事柄は決して少なくはなく、そしてこの「気付き」はあなた自身が作っているものですから、前もって準備されているものではありません。

しかしながら、この「愛」や「嫌悪」や「怒り」といった感情について「気付き」を行なっていくことは我々が生きていく上で非常に基本的な「気付き」です。ですから、これは我々生きる命の基本として、皆が共通して実現していくべき「気付き」であり、元々用意されています。

このような基本的な「気付き」さえも行なえていない今の人間は非常に未熟な魂の集団と言えます。それは今までこういった形で文章にしていった人間がほとんどいないことも一つの原因ですが、その大きな原因は我々人間が自分の心を見なくなったことです。このような知識は文字になっていなくとも、清い人とは自然と「感じられる」ものです。しかしながら、我々がこのような基本的な知識を知らないのは、我々が自分の心を感じて生きていないからに他なりません。

どうか素直に、なによりも心を見つめながら、自分の清い心に従って、御自身の人生の一瞬一瞬を生きてほしく思います。たったそれだけのことで、我々は我々自身の力によって、本当に多くを学ぶことができます。

私が書いている内容とは、心を見つめるための様々な観点に他なりません。「気付き」を行なうのはあなた自身であって、あなた以外の何者によっても行なえるものではありません。そしてあなたはそういった「気付き」を得るために生きています。言い換えると、魂の修行のために生きています。あなたの魂の修行はあなたによってしか行なうことはできません。

「教え」を得るだけで「救い」を得られるような世界であったならば、そんな世界など存在する必要がありません。真にあなた自身の力で「気付き」を得ることによって「幸福」になることができる世界だからこそ、この世界は存在する価値があります。なぜならば、それはあなた自身が真に実現しているからです。