日本の現代社会は本当に「愚痴」が多いです。飲食店など、どこに行っても「愚痴」を聞かないことはほとんどないです。これは本当に深刻な問題なので、我々が「愚痴」を言うことがどれだけ我々自身の首を絞めているのかについて理解を深めて頂ければ、と思います。


【「愚痴」を言うことについて】

「愚痴」とは「嫌悪」から生まれる心の動きであって、「嫌悪(不満)」が「欲望(発散)」に転じている形になります。それぞれの「闇の気持ち」は他の「闇の気持ち」に転じることで「ストレス発散」を目指しますが、「愚痴」は「嫌悪(不満)」から「欲望(発散)」に転じている最も典型的な「ストレス発散」になります。「ストレス発散」の構造についてはここに書いています。

http://junashikari.com/word/「ストレス発散」について/

人は常に「愛」と「嫌悪」の間を揺れています。誰か相手がいて、その人が自分に何らかの「不利益」を与えた時、我々人間はその人に対する「嫌悪」に堕ちやすくなります。しかし、そういった「嫌悪」に負けない程の「愛」を守ることができたのであれば、その人に対する「嫌悪」に堕ちることはありません。我々はこのような心の闘いを行い、「闇(嫌悪)」に堕ちず「光(愛)」を選ぶために生きています。

現代人の多くは、自分に「不利益」を与えた人がいたら、その人に対して「嫌悪」を感じて当然だという考え方を「愚痴」を通して広げています。もし、「愚痴」を言う人が日本に一人もいなかったら、誰かに対して「嫌悪」を抱いている自分のことを普通ではないと考えますが、皆が「愚痴」を言っている社会であれば、誰かに対して「嫌悪」を持つことは当然だと考えるようになるからです。

このように、「愚痴」を聞いたり言ったりすることは我々の潜在意識に大きな影響を与えます。「愚痴」を聞いたり言ったりすることは、自分に「不利益」を与えた相手に対して「嫌悪」して当然だということを潜在意識に刻みます。

※潜在意識=自覚されることなく、行動や考え方に影響を与える意識

そして、悪魔は潜在意識に対するこういった関与を起こすために、人間に「愚痴」を言わせている形になります。どうして悪魔はこのようなことをしたいと思うかというと、多くの人が「嫌悪」に堕ちるのであれば、多くの人間をその悪魔が「コントロール」できるようになるからです。

※ここはいつも書いていることなので、分かっている方は読み飛ばして下さい。「気」が「感情」と「思考」の原因です。何故ならば、「気持ち」「気分」という言葉が示しているように、我々は「気」を「持つ」、「気」を「分つ」ことによって、「気持ち・気分」を持っているからです。そして、「気付き」という言葉が示すように、我々に「アイデア」が浮かぶのは、神々や悪魔からの「気」が我々に「付く」からです。「気」には「情報」=「アイデア」を乗せられるからこそ、神々や悪魔の「情報」=「アイデア」の乗った「気」を受け取ると、我々の心にふいに様々な「アイデア=発想」「インスピレーション」が浮かんできます。そして、「思考」とは「発想」の連続なので、神々も悪魔も「気」を与えることでかなり人間の「思考」に関与しています。言葉の成立の時はその言葉の構造に当時の人々の意図がありますが、昔の人は「気」のことをよく分かっていたからこそ、「気分・気持ち」「気付き」という言葉を創っています。そして、我々人間は「愛」といった「光の気持ち」を抱くのであれば、神々からの「光の気」を受け入れ、「欲望」「嫌悪」といった「闇の気持ち」を抱くのであれば悪魔からの「闇の気」を受け入れます。だからこそ、深い「絶望」に堕ちたりすると悪い「発想」しか浮かばなくなってきます。これは「絶望」という「闇の気持ち」に堕ちているからこそ、悪い「アイデア」=「発想」が乗った「闇の気」を悪魔から受け取り続けるからこそ起こる現象です。

だからこそ、相手に対する「嫌悪」を持った時点で悪魔による「コントロール」が始まります。そして、悪魔は人々を「コントロール」したいと思うからこそ、人々を「闇」に陥れやすいように人々に関与します。そういった悪魔の意図によって、日本人の多くの人々が「愚痴」を言っている現状があります。

悪魔はこのようなことを人間にさせるために、「愚痴」を言っている人間の心に何らかの「快楽」を与えます。「愚痴」を言ったことがある人は多いと思いますが、「愚痴」を言っている時には「快楽」があります。もし、心に「光」があるのであれば、そんな「愚痴」を言っている自分に「嫌悪」の気持ちが生まれることもあるので、「愚痴」を言うこと自体に「嫌悪」する気持ちが生まれますが、心に「光」を失っていけばいく程、「愚痴」を言うことで自分に対する「嫌悪」を感じることは無くなり、「愚痴」は自分に「快楽」をもたらす道具になっていきます。

また、「愚痴」を言うことは他者にその「愚痴」に共感をしてもらうことで「私は間違っていない」「私のように考えて当然」といった形で自分を正当化することにも繋がります。これも悪魔が我々に「愚痴」を言わせることで与える「快楽」=「餌」です。
 

【「愚痴」を聞くことについて】

悪魔は「愚痴」を広めたい立場なので、「愚痴」を聞く人の心にも関与しています。「何か面白そうな話だな」といった「知識欲」や、「自分が賢いと思ってもらうために、この愚痴に対して的確なアドバイスを言いたい」という「優越感」「欲望」や、「本当はこの話聞くのめんどくさいけど、嫌われたくないから、ちゃんと聞いているフリしないと」といった「嫌悪」「欲望」などです。

逆に言うと、「愚痴」を言っている人に対して、「そんな愚痴やめた方がいいよ」と言う人は本当に少ないです。何故ならば、多くの人が自分を守ろうとしているからです。「愚痴」を言っている人に対して、その「愚痴」を止めさせたりするのであれば、その相手に自分が「嫌悪」されることに繋がりやすいです。だからこそ、多くの聞き手は「自分のため」にこのようなことは言いません。ですから、「愚痴」を聞いているだけで、多くの人が「闇」に堕ちていきます。悪魔としては、「愚痴」を聞くことによって、人々が「闇」に堕ちていくことも狙って「愚痴」を広げています。

「愚痴」を言う人を止められない1つの理由が、我々に「水の気持ち」=「向上心・問題解決の心」や「火の気持ち(闘いの心)」=「闇と闘う心」に欠けていることです。その相手が「愚痴」を言うことは、その相手を「嫌悪」や「欲望」といった気持ちに長く留めることに繋がり、結果的にその相手の「闇」を強めます。すると、その相手はますます「光」から遠ざかり、「幸せ」になれなくなってきます。そういったことを回避するために、「愚痴」を言っているその相手のために、その人の「愚痴」を止める必要があり、それを行なうことができる気持ちは「水の気持ち」=「問題解決」や「火の気持ち(闘いの心)」=「闇と闘う気持ち」です。

また、「風の気持ち」=「優しさ」を持った人などは「相手のため」にその「愚痴」を聞こうとします。「風の人」は相手のことを理解しようと努力するからです。しかし、これは「闇」のための「光」であって、「闇」を増やすために「優しさ」を乱用していることを意味します。つまり、「優しさ」が故に愚痴を聞いてしまう人は、その相手を「闇」に陥れるために「光」を実践している形になります。「愚痴」の構造とは何なのかといった知識があるとそういった「優しさ」の実践をすることは無くなるので、「気」のことを知ることはとても大事になります。

「愚痴」を止めるために現代社会で一番有効な方法は話を変えて、相手を笑わせることです。これは「火の気持ち(笑い)」=「愛」の実践のために相手を笑わせようとする気持ちです。ただ、「軽さの闇」に堕ちることは注意して下さい。「火の気持ち(笑い)」と「軽さの闇」の違いについてはここに書いています。

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余談であって、お勧めはしませんが、知っておいた方がいいので書いておくと、「愚痴」に関して、「闇」を持って「闇」を制すという方法も無くはありません。「そんな愚痴言って、お前ちっちぇーよ。もっとかっこよくいこうぜ」といった言葉を言ってあげれば、「ナルシズム」=「比較の闇」で「愚痴」=「嫌悪」を防止できるかもしれません。ただ、これはその相手に「ナルシズム」を植え付けるので、好ましい方法ではりませんが、やむを得ない場合は使うことができる方法です。

「闇」の世界の1つの基準は「かっこよさ」=「比較の闇」です。例えば、小さなことでいちいち他の悪魔に不満を言っている悪魔は他の悪魔からは「だせえ奴だ」と間違いなく思われます。それに対して「かっこよさ」を持った悪魔は自分が受ける小さな「不利益」など気にもとめません。経験を経てきた悪魔は自分が「不利益」を受けることなど慣れているからです。

このことから地球を荒らしている悪魔が人間に、その悪魔がダサイと思っていることをやらされているということは知って頂ければ、と思います。悪魔は人間にダサイことをさせること自体も面白がっています。性格の悪い魂にとってダサイ魂を見ることは面白いからです。つまり、地球を荒らしている悪魔は「愚痴」がダサイと思っているからこそ、人間に「愚痴」を言わせている形になります。このような背景を知ることも「愚痴」を止めるきっかけになると思ったので、書いておきました。
 

【最後に】

人が「愚痴」を言うのは、何らかの「不利益」を自分に与えた相手に対する「嫌悪」に堕ち、その相手に対して直接「嫌悪」をぶつけることができず、その「嫌悪(不満)」を「欲望(発散)」に転じさせているからです。これが人が「愚痴」を言う構造になります。

相手に「不利益」を与える人とは、ほとんどの場合悪魔にそれをやらされています。ですから、悪魔は「愚痴」のきっかけを作り、そのことで「愚痴」を人間に言わせている形になります。「愚痴」の構造とは、このような形で悪魔に人間が踊らされている構造です。そのようなことに付き合っていても、皆が「幸せ」から遠ざかっていくだけです。

そうではなく、最初の時点で相手に対する「嫌悪」に堕ちず「愛」を貫ければ、このような「愚痴」の流れさえも発生しません。そして、もしそこで自分に「不利益」を与えた相手に対して、「嫌悪」をぶつけるのではなく、その「相手のため」=「愛」のために何かアドバイスができれば最善の形となります。そういった相手は他の人にも同じように「不利益」を与えるケースはあるので、他人に嫌われる可能性が高い人です。だからこそ、その人が他人から嫌われないようにするために、その人を変える必要があります。そのために、適切なアドバイスを「愛」で行なうことが大事になります。

我々が目指すべき姿はこの姿になります。このように皆が振る舞うのであれば、「愚痴」を聞く場面など無くなりますし、「愚痴」のきっかけとなっている「不利益」を与える人自体も少なくなるからです。

一人の人間が誰かに対する「嫌悪」に堕ち、その「嫌悪」を「愚痴」で発散するのであれば、その度に世界の「闇」は少し強くなります。そして、一人の人間が誰かに対する「嫌悪」に堕ちずに「愛」を貫き、「愛」を実践できたのならば、その度に世界の「光」は少し強くなります。

我々が生きている世界がどれだけ「光」と「闇」を抱えているのかといったことは、こういった一人一人のその時その時の闘いの結果としてあります。皆さんの日常がこの世界にとってどれだけ大事であるのかを知って頂けると幸いです。そして、「愚痴」は「愚痴」を言っている人も聞いている人も「不幸」にしていくので、言わないようにして頂ければと思います。