「屋久島とは何なのか?」という「問い」は突き詰めると「屋久島の神々とはどんな神々なのか?」という「問い」に繋がっていきます。というのも、屋久島の精神性とは屋久島の神々が屋久島に満たしている「気」のことだからです。

そして、「屋久島の神々とはどんな神々なのか?」という「問い」は「屋久島の神々は他の神々と比べてどう違うのか?」という「問い」になります。何故ならば、我々人間がそうであるように、神々も神々同士の比較(「分ける」こと)によって「分かる」ことができるからです。

この大きな「問い」を抱えて屋久島と向き合ってきましたが、今日一つの答えかもしれない考え方を気付かされました。それは「屋久島の神々は他の神々よりも『深さ』を重要視する神々の集団だろう」という考え方です。この考え方を踏まえて様々な事柄を考える時、非常にしっくり来る感覚を得ます。

我々人間がそうであるように、神々も「価値観」が異なります。「価値観」とは、何を重要視するのかという優先順位のことですが、例えば、「強さ」を最重要視する神様もいれば、「美しさ」を最重要視する神様もいます。

そういう観点で考えた時、屋久島の神々は「深さ」を最重要視する立場の神々の集団のように思えます。太陽系が太陽神様を中心とした星の神々の集団であるように、屋久島もまた、屋久島の長の神様を中心とした神々の集団ですが、やはり何らかの共通意識がなければ共に働くことをそれぞれの神々は決めません。

太陽系の星の神々の場合、彼らはできるだけ「違う」必要があります。何故ならば、「違う」側面が大きければ大きい程、地球に生きる命は様々な精神的選択肢を持つことができるからです。つまり、地球の中での多様性を生むためには、星の神々は共通しない方向性を持つべきであって、だからこそ、星の神々の「価値観」は大きく異なります。

それに対して、屋久島の神々の場合、彼らはある程度「同じ」である必要があります。何故ならば、彼らが「同じ」側面が大きければ大きい程、それが屋久島が向かう大きな方向性を作るからです。つまり、地球の中での多様性を生むためには、屋久島は一つの共通した方向性を持つべきであって、それが「深さ」の方向性です。

ただ、屋久島の神々が共通して「深さ」を重要視するとは言っても、それぞれの神々の重要視する「深さ」は少しずつ異なります。だからこそ、屋久島は様々な「深さ」を学ぶことが可能な島になり得ます。

逆に言うと、屋久島の神々は「浅さ」を嫌う傾向が強い神々です。神々によっては、「愛」を抱いていれば「浅はか」でも構わない、「幸せ」であれば「浅はか」でも構わないと思いやすい神様もいて、その代表格が太陽神様です。太陽神様の使いとして描かれている『ドラゴンボール』の孫悟空は、まさにそういった太陽神様のスタンスを象徴しています。

ですから、「深さ」⇔「浅さ」の観点で考えた時、そんな太陽神様と真逆の立場にある屋久島が雨の多い島であることは非常に自然なことだと思います。

太陽が我々に与える「元気」は「幸せ」の感覚を与えやすいものですが、それは同時に「浅さ」にも繋がりやすいものです。「火の気持ち」の「元気」は「浅さ」と近いからです。それに対して、曇りや雨の日の方が「元気」は出づらく、そのことが一つの試練となり、人は「深さ」を獲得しやすいです。

こういった形で、屋久島の天候のことは屋久島の神々の性質を考える上で一つ重要なヒントになるのですが、結局のところ、屋久島の持つ空気感が最大の根拠となります。この島は、所謂南の島などが与える「平和」な空気感などは少なく、また、日本中の様々な山と比べても、山の空気感はとりわけ「神秘的」です。

「神秘」という言葉は「深さ」と密接な関係にあります。何故ならば、「神秘」とは人智では計り知れない事柄を指す言葉であって、神々でしか理解できない事柄を意味する言葉だからです。そして、神々でしか理解できない事柄とは、我々人間からすると非常に「深さ」のあることだからです。

我々人間は神々が直接見えるわけでもないので、理解しようとする神々がどういう神々であるのかを明らかにすることは簡単なことではありません。しかし、彼らの「気」や彼らが用意している自然環境を参考にしていけば明らかにしていくことができます。

そして、その場所を統括する神々の性質を明らかにしてこそ、その神々と真に良い協力作業は生まれます。何故ならば、そういったことで、その神々と真に同じ方向を向くことがしやすくなるからです。

それに対して、現状の我々日本人は屋久島の可能性を全然活かすことができていません。だからこそ、こういったことを明らかにすることが大事ですし、こういったことが分かってくると、屋久島にアーティストや哲学者が住むことが如何に有効かが分かってきます。

アーティストや哲学者といった人間は「深さ」という要素が非常に重要な立場の人間です。そして、屋久島は様々な「深さ」を我々に教えてくれる島であって、そういったことを神秘主義的(神々を自分の内面で直接体験しようとする姿勢)に経験を通して修行していく中で、アーティストや哲学者はその力を伸ばしていくことができます。

友人から聞いた話だと、かなり頻繁に屋久島に来る数学者がいるらしく、その数学者は屋久島の森を歩いていると数式が降ってくるのだという話を聞きました。おそらく、その数式についてその数学者がどのような印象を抱くのかということについて、屋久島の神々はかなり「気」で関与しているはずです。

この数学者のように屋久島と共に働くことが一つの理想であって、そういったことがもっと生まれていくことを促すためにも、自分としては屋久島の持っている意味を言葉や表現を通して伝えていかなければならないと思っています。

また、このような考え方が正しいのであれば、自分の人生がこれだけ屋久島と関わっていることに納得がいきます。自分は誰よりも「深さ」を獲得していかなければならない人生を生きているからです。

「他の神々と比べて屋久島の神々が『深さ』を最重要視する集団である」という「命題」がはっきりと「真」と言えるかどうかはまだ分かりませんが、この「命題」は今後もずっと向き合っていくべきものとして自分の中に抱え続けていきたいと思っています。

※余談

我々が生きていることには複数の理由がありますが、その一つの理由が「学ぶ」ために生きているという点です。そして、「深み」のない「学び」などは本当の意味での「学び」ではなく、そういう意味で「深さ」は大事だと思います。つまり、「深さ」を重要視する一つの背景には、「生」というものの最も大きな価値が「学ぶ」ことにあると考える姿勢があるはずです。

(2020/12/2のFacebook投稿より)