「疑い」と「問い」について
2015.11.14 言葉について
「疑い」と「問い」、現代人はこの両者を同じように考えます。しかし、この二つは全く異なる感情です。結論から言うと、「疑い」とは闇の感情であり、「問い」とは光の感情です。
なぜ「疑い」が闇であり、「問い」が光であるかと言えば、この二つの感情は使っている気(エネルギー)が違うからです。
全ての感情や思考というものは気によって成立しています。ですから、そこでどういった気を使って、その感情を抱いているのかを見極めるということがとても大事です。
「疑い」とは闇のエネルギーを使って抱く感情です。ですから、そもそも否定的な姿勢があります。それに対して「問い」とは光のエネルギーを使って抱く感情です。とても中立的な姿勢の中で行なうものになります。
何かを疑問視する時に注意しなければいけないことは、その時の自分の心を見て、その自分の心に闇が多いか光が多いか、ということを観察することです。「自分の心を見る」とは「自分の意識を客観的に観察する」ということを意味しています。
何かに疑問を持つ時、その時は「疑い」でなく「問い」でなければいけません。これはとても大事なことですから、どうかよく覚えておいてほしく思います。
そして、この「疑い」と「問い」の問題だけでなく、大事なことは常に自分の心を見る事、たったそれだけです。それができなくなったのが現代の人間です。
我々はどれほどいつも自分の心を見ているでしょうか?忙しくしたり、快楽に溺れたり、他人を責めたりするばかりで、ほとんど自分の心を見ていないのではないでしょうか?
この宇宙は魂の修行のためにあります。より清い魂にしていくために我々は生きています。それなのに、自分の心を見ないで日々を過ごしているとしたらそれはあまりにも間違っています。だから、今の人間は間違ったことを毎日山のように起こしてしまっています。
自分の心を見ること、それに間違いなどあるわけがありません。私が訴えていることなど、そんな基本的なことばかりです。そんなことに間違いがあるわけがありません。
どうか、朝起きて夜寝るまで、ずっと自分の心を見ながら、つまり自分の意識を客観的に観察しながら、果たして自分は清いのかどうか自問自答をする癖を付けてほしく思っています。自分を疑うのではなく、自分を問うて下さい。
我々は修行者です。私ももちろん修行者です。教祖でも何でもなく、修行の仲間です。
どうか自分の心を見るようにして下さい。それを行って初めて、魂の修行が始まります。