「傷付き」について
2016.01.21 心の成り立ち(基礎:気持ちの種類)
「傷付く」という心の動きはどのような現象かということをここで書きます。人間は自分が傷付いたり、相手を傷付けたりしがちな種です。
その根本的な原因は、人間が簡単に「傷付き」やすいことにあります。そして、どうして我々がこれ程までに「傷付き」やすいかというと、「傷付く」という現象のことをよく理解していないからです。ですから、どうかここで「傷付き」の構造について理解してほしく思っています。
例えば、どんなに酷いことを言われようともそのことを言われた本人が「傷付く」ことが無い限り、酷いことを言った方が「傷付けた」ことにはなりません。「傷付く」という現象に関して、その本人を「傷付ける」人や事柄が発生することは「傷付け」の成立の必要条件に過ぎず、本人が「傷付き」を受け入れることが「傷付け」の成立の十分条件となっています。
どこかで人間は自分が「傷付き」を受け入れています。だからこそ、これほどまでに「傷付け」が多いのです。我々が真に「強い」のであれば、「傷付け」はこれほどまでに発生しません。我々はあまりに「弱い」のです。
では、どのような心の動きによって、人は「傷付け」を受け入れるかというと、「相手を咎めること」によって「傷付け」を受け入れています。「傷付く人間」とはどこかでいつも「相手を咎める」ということを心の中で行なっているのです。そして、「他者を咎める心」とは闇の第15感情ですから、「傷付く人」とは闇を選んでいることを意味します。
他者を咎める心について
http://junashikari.com/emotion/咎める(とがめる)心について/
人間は「傷付き」が発生したその時点で、「傷付けた人」ばかりに目を向け、「傷付けた人」を「咎め」始めます。しかし、実際は「傷付けられた人」が「傷付き」を受け入れなければ、「傷付けた人」は「咎められる」こともないのです。
実際に言動として「咎める」ことを行なわなくとも、「傷付いた人」は「傷付けた人」に対して、「咎める」という攻撃を心の中で行なっているのです。そして、人を心の中で「咎める」とその人に対して「闇の気」を送ることになりますから、本当に攻撃していることを意味しています。それは「恨み」も同様です。
小さな子供達のことを例にすると「傷付け」は非常に分かりやすく感じます。あるA君がB君を殴った時にB君が「A君が殴った〜」とお母さんに訴えに行く場面を思い浮かべて下さい。B君はA君に殴られた時点で、A君と喧嘩を始めることもできるし、我慢することもできますが、「傷付き」を自らの意思で選んでいます。つまり、ここでB君はA君のことを「咎めて」います。だからこそ、お母さんに伝えに行っているのです。
これは今の大人の日本人においても全く同様です。「彼氏にこんな酷いことをされた」と女友達に話す女性の姿は現代社会においてよく見ると思いますが、これはB君がお母さんに「A君が殴った~」と訴えに行くことと同じです。それは女性だけに限らず、男性においてもこのような「愚痴」の会話は本当によくあるものです。
では、どうして「愚痴」というこのような他者との共有を行なうかというと、どこかで自分がその他者を「咎める」ことを肯定したいからです。他人に「本当その人は酷い人だね」というようなことを言わせることで、自分が他者を「咎める」ことを肯定したいのです。これは「愚痴」一般に言える構造です。
何をされてもただ「許す」のが光の立場です。それに対して「咎める」のは闇の立場です。社会が闇に満ちていけばいくほど、人は「傷付き」やすくなっていきます。また、「傷付く人間」の中には「愚痴」を行なう人もかなりいますから、「愚痴」も増えていきます。
先程は「弱さ」が原因で人は「傷付き」を受け入れていると書きましたが、そのことよりも大きな原因について書きます。どうしてこのような「傷付き」という「他人を咎める」ことを行なうのかというと、その根底には「自分は大事」という発想、言い換えると「自分は他人よりも大事」という発想があります。
「こんなに大事な自分をあの人は傷付けた」と「傷付く」魂達はどこかで思っているのです。もし、他人が自分と同じくらい大事、もしくは他人が自分よりも大事であるならば、このような発想は簡単には出てきません。なぜならば、もしその相手が真に大事であるならば、相手を「許そう」とするからです。
光の立場の魂は、自分が不愉快な思いをしたからといって、その他者を「咎める」ことを行なってはならない、と思います。なぜならば、相手が大事だからです。つまり「愛」があるからです。
「傷付き」の多発の根底には、「愛」の欠如があります。他の魂に対する「愛」が足りないことが我々に簡単に「傷付き」を受け入れさせています。
ちなみに、「傷付き」と「傷心」は異なります。例えば、愛する人に別れを告げられた時、当然人は「悲しく」なります。「傷心」とは「悲しみ」です。それに対して、「傷付き」は「悲しみ」とは異なります。我々人間はこれらの違いをよく分かっていないが故に、「傷付き」「傷心」「悲しみ」という言葉をはっきりと使い分けることができていません。
「傷付き」の根本的な原因は「愛」の欠如です。だからといって、「傷付きにくい」からといって、「愛」が足りているとも思ってはなりません。「強さ」がある人とは、たとえ「愛」が無くても、「傷付く」ことはありません。つまり、「愛」が足りず、「弱さ」を抱えている人が「傷付く」ことをいつも行なっています。
「傷付く」ことをどうか止めて下さい。もしあなたが「傷付き」やすいのでしたら、あなたはどこかで「他人を咎める」ということを行なっています。その原因は「愛」が足りず、心が「弱い」ことです。
より強い「愛」をあなたが抱くことができるのであれば、あなたはもはや「傷付く」ことはなく、そして「強さ」も持つことになるでしょう。人は自分のために生きて「強さ」を手に入れられるようなものではありません。他の魂のために生きて、つまり「愛」を抱いて初めて「強さ」を持つことになります。
だからこそ、全ての原因は「愛」の欠如にあります。
どうか、皆様が他の魂のために生きることを願って止みません。