ここでは、このホームページでも度々取り上げてきたSalyuの『VALON-1』について解説を書きます。この歌は現代を生きる我々にとって、とてつもなく重要な歌であって、だからこそ、この歌の意味を理解する事もとても大事になります。

それぞれ別で詳しく書きますが、Salyuは金星神と共に歌を歌っている歌手であり、この曲の作詞作曲を行なった小林武史も神々と共に働く音楽家です。そして、この曲は神々が二人に強く関与したことによって生まれた歌です。だからこそ、この歌には神々からのメッセージに満ちています。そして、そのメッセージの内容が現代を生きる我々人間にとって、非常に重要なものだからこそ、この歌は非常に重要です。

この歌はSalyuのデビューシングルです。Salyuは金星神と共に歌を歌う、日本にとって非常に重要な歌手であって、神々は重要な歌手のデビューシングルをかなり重要視しているので、だからこそ神々は全力を尽くし、この『VALON-1』が生まれたという経緯もあります。以下、解説を書いていきます。まず最初にPVを御覧になって頂きながら曲を聴いて頂ければ、と思います。
 


「体の どこかに 流れる あなたとの似たもの」
「それが何か 感じられたら」

「世界は 疑いの海から 抜けだせていないと」
「思わないで はじめから 歌いだせたら」
「その深さを 測る旋律 (メロディー)」

「きっと 月の光と 夜の闇と 宙を舞う夜光虫へと」
「銀の光る雫(しずく)の 先をつたい 渡っていこう」

「小さな願いのはじまり 灯る火を両手で」
「風の強い日には 消えそうになってるけど」
「守るように大きくなるように」

「きっと 壊れた街と それを見てる」
「取り残された瞳の」
「銀の光る涙の 先をつたい 泳いでいこう」

「波をかいて 沈まないように」
「泳いで行ければいい 遠くない 夜明けに」

「きっと 月の光と 夜の闇と 宙を舞う夜光虫へと」
「銀の光る雫(しずく)の 先をつたい」

「きっと 壊れた街と それを見てる」
「取り残された瞳の」
「銀の光る涙の 先をつたい 泳いでいこう」

「きっと…」
 

楽曲ダウンロードURL:https://itunes.apple.com/jp/album/valon-1/id526670254?i=526670269

※この曲をダウンロードして頂き、リピート再生して頂きながら解説を読んで頂けると幸いです。そのことによって、この歌の持っている意味を言語的な理解だけではなく、感覚的にも理解できるからです。


【「光」と「闇」、「水の気持ち」について】

この歌の意味を真に理解するためには、「光」と「闇」の関係性や「水の気持ち」についての基本的な理解をする必要があるので、その部分を最初に書かせて下さい。

「valon」とはフィンランド語で「光の中へ」という意味を持っています。そういう意味でこの歌は「光」へ向かう気持ちを歌っています。また、「光」へ向かうということは、今いる場所が「闇」であることも暗に示しています。今の地球は非常に「闇」が強い時代です。そういった「闇」の時代から「光」の時代へシフトすることをこの歌は歌っています。

この世界は「光」と「闇」が対の関係性を持っています。これは物体的にも精神的にもそのような意味を持っています。例えば、「昼」は「光」であり「夜」は「闇」です。「昼」は、我々の心は随分太陽の「光」に支えられていて、だからこそ太陽を浴びると我々は「元気」になっていきます。それとは逆に「夜」は、太陽の「光」が無いので日中に抱くような「元気」は抱きにくいです。夜型生活を送っていると、心身共に病んでいく傾向はどうしてもありますが、その原因は太陽からの「光」を受け取らないからになります。

では、太陽の「光」は地球に何をもたらしているのかというと、「火の気」です。そもそも、「元気」という言葉は「元の気」のことであり「火の気」のことを意味しています。太陽とは太陽系において中心の存在であって、最も大きな星であるが故に、地球に最も多くの「気」を送っています。それが「火の気」だからこそ、日本人は「火の気」のことを「元の気」=「元気」と呼んできました。

つまり、太陽の「光」は我々を精神的にも物質的にも支えています。我々人間はどこかで精神と物体を分けて考えるようになってしまいましたが、実際は精神と物体は「気」というものを媒介に強く繋がっています。「気持ち・気分」という言葉が「気を持つ」「気を分つ」と書くように、我々はどのような「気」を受け取るかによってどういった「気持ち・気分」を抱くかを変化させています。そして、「気」は大きく分けて二種類であり、「光の気」と「闇の気」です。

「光」の立場とは「愛」の立場であり、「闇」の立場とは「欲望」の立場です。「愛」とは「相手のため」という気持ちであり、「欲望」は「自分のため」という気持ちです。「光の気」とは「愛」=「相手のため」の「気持ち・気分」の原因の「気」であって、「闇の気」とは「欲望」=「自分のため」の「気持ち・気分」の原因の「気」です。

だからこそ、太陽を浴びながら日々自然に触れるような中で健康的に生きていると「愛」は抱きやすくなり「欲望」を抱きにくくなるのに対して、夜型生活を通して太陽の光を全然浴びずに都会生活を送っていると「愛」は抱きにくくなり「欲望」を抱きやすくなります。自然豊かな田舎に住む人の方が「愛」が強く、東京に生きる人の方が「欲望」が強いという傾向はどうしてもありますが、そのことの背景には摂取する「気」が強く影響しています。自分がいる場所に「光の気」と「闇の気」のどちらが多いかということは、我々の精神に強く影響するのですが、物体と精神を分けて考えてしまうとこのような構造に気付きづらくなります。

この世界は常に「光」と「闇」の対立の中に、つまり「愛」と「欲望」の対立の中に成立しています。そして、「愛」も「欲望」もその実践の気持ちが複数あります。つまり、「光の気」も「闇の気」もそれぞれ一種類ではなく複数あります。例えば、「依存」も「怠惰」も「欲望」の一種であり、「依存の気」と「怠惰の気」は異なる「闇の気」です。

『VALON-1』のことを真に理解するためには、「光の気」の違いを少しだけ理解する必要があるので、そのことを説明します。太陽は我々に「火の気」をもたらすが故に、我々を「元気」にしていきますが、「水の気」を我々が受け取ると「向上心・問題解決の心」を抱きます。

「向上心・問題解決の心」とは「愛」の実践のために「問題」を解決しようとする気持ちのことです。自分の抱える問題を解決することを目指す気持ちが「向上心」であり、自分以外の問題を解決することを目指す気持ちが「問題解決の心」です。例えば、自分の心の「闇」と向き合い、そういった「闇」を減らすことができるように努力する気持ちは「向上心」であり、「愛」を抱く誰かが心に「闇」を抱えていて、その人の「闇」を解決するために色々な問題解決の行動をしようとする気持ちが「問題解決の心」です。

この『VALON-1』という歌はそういった「水の気持ち」の歌であって、「向上心・問題解決の心」の気持ちを歌った歌です。この歌に「水」に関連する歌詞が非常に多いのは、この歌が「水の気持ち」を歌っていることを示すために神々が行なった導きになります。

「愛」の実践方法は基本的には4つあり、「水の気持ち」とは「愛」の実践の気持ちの一つです。以下に一覧で書きます。

水の気持ち(向上心・問題解決の心):「愛」の実践のために問題を解決しようとする気持ち
火の気持ち(元気・笑い):「愛」の実践のために相手に「笑い」をもたらそうとする気持ち
火の気持ち(闘いの心):「愛」の実践のために「闇」と闘おうとする気持ち
風の気持ち(優しさ):「愛」の実践のために相手に「優しさ」を実践しようとする気持ち

大事な相手のために、その相手の抱える問題を解決しようとすることも、その相手を笑わせようとすることも、その相手を傷つける何かと闘おうとすることも、その相手に優しさを実践することも、全て「愛」の実践だと言える事は理解して頂けると思います。逆に言うと、この4つのケース以外に「愛」の実践方法を見つけることは難しいです。

そして、それぞれの気持ちは異なる「愛」の実践を促す気持ちです。ある人は「愛」の実践のために相手を笑わせたくなり、ある人は「愛」の実践のために相手が抱える「問題解決」を行いたいと思いますが、そういった違いは、その時に自分が同調している「気」の違いによって生まれます。そういう意味で、「水の気」を我々人間が受け取り、「水の気持ち」を持つのであれば、「愛」の実践のために「問題解決」をしようと思います。

そして「水の気」を受け取るために必要なことは、「愛」のために「問題解決」を行ないたいと思う気持ちに「同意」をすることです。我々の魂は自分がどういった「気」を受け取るかということに関して、いつも「同意」というプロセスを行なっています。

日常的に我々の心には様々な「気持ち・気分」が起こりますが、そういった自分の中に起こる「気持ち・気分」は全て自分自身が起こしていると思ってしまったからこそ、日本人は「気」のことを忘れてしまっています。しかし、実際は様々な「気」が我々の身体に入ることによって、そういった様々な「気持ち・気分」を経験しています。そして、自分がその「気持ち・気分」になることに「同意」をした「気」については、我々はその「気持ち」を長い時間抱くことになります。

例えば、誰かと話していて相手に対する「嫌悪感」が出てきたとします。もし、その「嫌悪感」に同調するのであれば、相手に対する「嫌悪」を抱く時間は長くなります。何故ならば、「嫌悪」に「同意」をしているからです。それに対して、相手に対する「嫌悪感」が起こった時に「ダメだダメだ、嫌悪なんて抱いてはいけない」と思うと、そのしばらく後にはその「嫌悪感」は無くなりやすくなります。このような形で、我々が「気」に「同意」をするかどうかということは、我々がその「気持ち」をどれだけ長い時間感じるかということに繋がっていきます。

歌というものは我々にこの「同意」のプロセスを強く促します。何故ならば、歌を聴いて心を動かすならばその歌の「気持ち」を我々は経験するからです。「同意」のプロセスがない限り、「水の気」が我々に宿ることはできないのですが、Salyuの『VALON-1』などを聴いていると我々が「水の気持ち」に「同意」をすることを強く促すので、「水の気」が入りやすい状態になります。そうすると、「水の気」が我々にどんどん入り、その「水の気」と共に「水の気持ち」を抱き、「愛」のために「問題解決」を行なうことができるようになります。

現代人にとって、歌は消費されるものとして思われがちで、歌が我々の心にどのように影響を及ぼすかということが分からなくなっています。しかし、実際は歌は人間が「気」を受け取ることを強く促すものであり、我々が何かを行なうための「気持ち」を強く作るものです。

このことを分かりやすく言うと、歌を聴くことは車にガソリンを入れるようなものです。「光の歌」は我々人間に「光の気」をもたらし、「光の気」は「光」を実践する気持ちを作ってくれます。そういう意味で、『Valon-1』は我々に「水の気」をもたらすものであり、我々が「愛」のために「問題解決」をすることを強く促す歌です。

神々と共に歌を歌う歌手は少なくはありませんが、それぞれの歌手の歌は「光の気持ち」のどの部分を強く歌っているのかは傾向分けを行なうことができます。例えば、UAは「水の気持ち」を歌い、桑田佳祐は「火の気持ち(元気・笑い)」を歌い、降谷健志は「火の気持ち(闘いの心)」を歌い、松任谷由実は「風の気持ち(優しさ)」を歌っています。そのことと同様に、Salyuは「水の気持ち」をよく歌っています。

Salyuは「水の気持ち」を強く抱きながら生きている人間です。これはどういうことを意味するかというと、Salyuの魂は「水の気」がとても多いということを意味します。我々の魂は「気」でできています。そして、どういった「気」をどの程度持つかによって、その人が抱きやすい「気持ち」が決定されます。例えば、魂に「欲望の気」が強い人は「欲望」の強い人になります。

Salyuはそういう意味で「水の人」であり、なおかつ神々が非常に重要視している日本人歌手であるからこそ、デビュー曲である『VALON-1』は「水の気持ち」が強く歌われています。この歌はSalyuが歌うために神々によって創られた歌です。この歌に限らず、Salyuの歌の中には「水」を象徴する歌詞が多くありますが、そのことの背景にはSalyuが「水の気持ち」を歌っていることがあります。

「水の気持ち」が「問題解決」であることは、物体的にもよく示されています。物体の「水」は全てを洗い流す「浄化」を行ないます。「浄化」とは言い換えると「問題解決」のことを意味します。様々な不要なものを洗い流すことは「問題解決」と言えるからです。これは「昼」と「夜」の関係性が「光」と「闇」の関係性を表すように、「水」という物体には「水の気持ち」の性質がよく表れるデザインが施されています。

今の世界は山積みの問題を抱えています。それはこの世界が強い「闇」を抱えているからです。「闇」の基本スタンスは「欲望」であって、「自分のため」という気持ちです。そして、「欲望」を実践すると人は相手のことを考えなくなってくるので、他者に対する配慮に欠け、そのことが原因で様々な問題を作っていきます。

例えば、原子力発電に人間が手をつけた一つの理由は、コストが安く、より大きな利益を生む事ができるからです。もし「相手のため」を考えるのであれば、原子力発電のリスクを考えて、絶対に原子力発電を使いません。しかしながら、「自分のため」に動いていると自分たちが受け取る利益のために他者のことを考えず、原子力発電を行ないたくなります。そういった「闇」の弊害として、福島第一原発の問題もあります。

そのような大きなことでなくても、例えば現代の恋人同士はお互いを束縛し合います。どうして恋人達がお互いを束縛するかというと、「自分のため」に相手を「支配」しようとするからです。もし、「相手のため」を考えるのであれば絶対に「支配」はしません。しかし、「相手のため」よりも「自分のため」を選ぶのであれば、相手を束縛するという結果に結びつきます。そして、「支配」の感覚は「嫌悪」という「闇の気持ち」に繋がりやすく、「嫌悪(嫌い)」と「愛(好き)」という気持ちは真逆です。だからこそ、恋人達がお互いを束縛する度に相手に対する「嫌悪」が強くなり「愛」は失われていきます。このような形で、恋人達はお互いのお互いに対する関与によって、お互いの「愛」を弱めている傾向があります。恋人達がお互いを束縛するという構造は我々の日常においてよくある風景ですが、このようなことから我々人間の魂は「光」を弱め、「闇」を強めています。

こういった形で、社会規模の大きな単位でも、個人規模の小さな単位でも、様々な問題を今の世界は抱えています。では、一体何がこのような問題を解決するかというと、「愛」のために問題を解決しようとする気持ちであって、その気持ちが「水の気持ち」になります。全ての人間の行動はその人間が抱く「気持ち」から生まれます。だからこそ、この世界にとって最も大事なことは一体どういった「気持ち」を人間が抱くかということです。そして、それは言い換えると、一体どの「気」が大事なのかということです。

問題が多ければ多い程「水の気」は大事になってきます。「愛」のために相手に「笑い(火の気)」を実践することも大事です。「愛」のために相手に「優しさ(風の気)」を実践することも大事です。しかしながら、相手をどんなに笑わせても、相手にどんなに優しさを実践しても、今実際にある問題は基本的には解決されません。だからこそ、問題がある時代に最も大事にすべき「光の気」は「水の気」です。

イメージとしてはマイナスからゼロのベクトル(浄化)が「水の気」と「火の気(闘いの心)」であり、「火の気(元気・笑い)」や「風の気(優しさ)」はゼロからプラスのベクトルだと思って頂けると幸いです。「愛」の実践方法にはそれぞれ違いがありますが、マイナスからゼロ、ゼロからプラスという観点は一つの大事な見方です。

説明が長くなりましたが、そういう意味で、深い「闇」の時代を乗り越え「光」の中へ向かう上で、何よりも最初に大事にすべき「気持ち」は「水の気持ち」になります。『Valon-1』はこのような背景の中で神々が創った歌であり、だからこそ、「光」の時代へ向かっていく上で、日本人が最も大事にすべき歌の一つです。


【歌詞解説】

以下、一つ一つの歌詞について解説をしていきます。
 

「体の どこかに 流れる あなたとの似たもの」
「それが何か 感じられたら」

この歌詞は「気」の説明を行なっています。「あなた」とは神々のことであって、神々が司る「気」が自分の体の中に流れているということを意味します。そして、それを感じたいということが「それが何か 感じられたら」という歌詞に表現されています。

この歌詞は「気」に対する「同意」のプロセスを目指す気持ちであり、その「気」を受け取るということでもあります。何故ならば、「気」を感じることとは、その「気」を受け取り、その「気持ち」を抱くことだからです。

この歌を通して神々は「水の気」を人間にもたらしたいと思っているからこそ、この歌の持っている感情に「同意」をしてほしいと思っています。その「同意」のために必要なことは、この歌の持っている感情をよく感じることであって、そのことを「体の どこかに 流れる あなたとの似たもの それが何か 感じられたら」という歌詞で表現しています。

先程も少し説明しましたが、我々人間は自分の魂に様々な「気」を宿すという事を行なっています。そして、どういった「気」を自分の魂に宿すのかということを、どういった「気持ち・気分」を抱くかということによって選んでいます。いつも我々はそのことによって自分の性格を変えていっています。

例えば、「風の気持ち(優しさ)」を抱くのであれば、その気持ちを抱いている時間の間、我々の魂に「風の気」が入り、その人の性格は「優しさ」が少し強くなります。そして、その人は自分がそこで獲得した「優しさ」をその後に使えるようになります。魂に「気」が入れば、その「気」を使って人間はその「気持ち」を抱く事ができるということは一つの原則になります。

では、神々はどうかというと、彼らも我々人間と同じ一つの魂であって、この原則は同じです。しかし、彼らは我々人間よりもはるかに長い年月を生きている魂ですから、魂に含まれている「気」も我々人間よりも圧倒的に多いです。そして、彼らは「気」を自分の魂から作り、自分自身でその「気」を操ることができます。この点は人間とは異なります。そして、自分から生まれたその「気」を人間といった地球上に生きる命に与えることによって、それぞれの命を支えています。

そういう意味で、我々の身体には神々からの「気」は流れていますし、その「気」は神々がその神々自身の魂に抱えている「気」と似たものです。

「体の どこかに 流れる あなたとの似たもの」という歌詞にはそのような意味があります。神々も人間も同じ魂なのですが、神々は「気」のレベルに生き、物質的な存在ではなく、人間は物質に宿っている立場の魂です。そして、物質には「気」が宿る事ができるという性質があります。「体のどこかに流れる」という歌詞には、我々が宿っている身体という物質には「気」が宿っているということが歌われている形になります。このようなことを踏まえて、この冒頭の歌詞を意味内容だけを明らかにするために書き直すと以下のような形になります。

「私(人間)の身体に宿り流れている、あなた(神々)の魂と似ているあなた(神々)の気を感じたい」

神々としてはこのことによって「水の気」を受け取ってほしいという「願い」をこの冒頭の歌詞に込めています。また、ここで言われている「あなた」とは神々の内の一人である金星神です。何故ならば、Salyuは金星神と共にこの歌を歌い、金星神がこの歌を創っているからです。金星神と共に歌を歌うSalyuが「あなた」という形で金星神のことを呼んでいるからこそ、この歌詞は非常に大きな意味があります。
 

「世界は 疑いの海から 抜けだせていないと」
「思わないで はじめから 歌いだせたら」
「その深さを 測る旋律 (メロディー)」

「疑い」とは「闇の気持ち」の一つです。ですから、「世界は 疑いの海から 抜けだせていないと 思わないで 」という歌詞は「世界は闇から抜け出せていないと思わないで」ということを意味します。どうしてこの歌詞で「疑い」という言葉が置かれているかというと、「疑い」と「水の気持ち」は非常に密接な関係にあるからです。「水の気持ち」は「向上心・問題解決の気持ち」であって、「問い」の気持ちを作ります。それに対して、「疑い」は「嫌悪」から生まれる気持ちであって、だからこそ「闇の気持ち」です。

「問い」は真実を探そうとする立場であり、非常に中立的でバランスが取れていて、心の動きとしては「肯定」も「否定」もできるものです。それに対して、「疑い」は根本に「嫌悪」があるので、「肯定」を非常にしづらい感情です。だからこそ、「疑い」で世界を見つめるのであれば「真実」は見えなくなり、「水の気持ち」で世界を見つめると「真実」は見えてきます。詳しい説明はこちらに書いています。

http://junashikari.com/emotion/「信じる」「疑う」「問い」の関係性について/

ですから、「世界は 疑いの海から 抜けだせていない」と思うということは、世界が「真実」を理解できないと思うことを意味します。世界は「真実」を理解する必要がありますが、「疑い」に堕ちてしまっては「真実」は見えてきません。そのような意味で、「世界は 疑いの海から 抜けだせていない」と思うことは、「光」を実践する人間にとって「希望」を見出せず、「諦め」に堕ちることを意味します。

「光」を実践する立場にとって、「諦め」という気持ちは抱いてはならない気持ちです。何故ならば、「諦め」に同調するならば「光」を実践する意欲を失うからです。この歌詞はそういった「諦め」に陥ることなく、「光」を保ってほしいという神々の「願い」が込められています。

「希望」と「絶望」は対の関係性を持っています。そして、そのことと「信じる」「信じない」という心の動きは密接な関係にあります。この先世界が「光」へ向かうことが信じられないのであれば、つまり「諦め」の発想を持ってしまうのであれば、「希望」を持つことはできず、時に「絶望」にさえ繋がります。それに対して、まだ世界は「光」へ向かうことができるということを信じられるのであれば、「希望」を持つことができます。そして、「希望」は「愛」の実践の気持ちを支えます。

世界は一から全てを見つめ直していく必要があります。何故ならば、「気」の観点を持たずに生きてきたからこそ、誤った考え方を多く抱えているからです。そういう意味を込めて「はじめから 歌いだせたら」という歌詞があります。この「はじめから 歌いだせたら」という歌詞の意味については、PVの解説を読んで頂けると意味がよく分かって頂けると思います。

「その深さを 測る旋律 (メロディー)」とは、この歌の「メロディー」が強い「水の気持ち」を表すということを歌っている歌詞です。歌はその気持ちの深さを表すことができる本当に素晴らしい道具です。どんなに多くの言葉を文章として書いても、歌程に自分の気持ちを他者に伝えることはできません。しかし、歌はたった数分間の中で自分の気持ちを表現することができてしまいます。

だからこそ、神々は歌を重要視しています。歌程に我々が「気持ち」のことを学ぶ上で好ましい媒体は他にはないからです。この歌詞は歌のそういった機能そのものを示しています。
 

「きっと 月の光と 夜の闇と 宙を舞う夜光虫へと」
「銀の光る雫(しずく)の 先をつたい 渡っていこう」

「銀の光る雫(しずく)」という歌詞の意味を正確に理解するためには、色の意味を理解する必要があります。「気」には色があり、我々が生きている物理世界の様々な色は「気」の色がよく伝わるようにできています。どうしてこのように言えるかというと、神々はわざわざ「気」の色と物体の色が違うようにはしないからです。

例えば、「光」の基本色は虹に象徴されるように七色ですが、これは「光の気」の基本三種=「水・火・風の気」の色を示します。

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水の気:青、紫
火の気:赤、オレンジ、黄
風の気:緑

という形で対応します。だからこそ、夕日や朝日は黄・オレンジ・赤ですし、海は青ですし、植物は緑色の葉を付けます。「風の気」は別名「木の気」とも言われますが、それは植物が最も受け取っている「気」が「風の気」=「木の気」だからこそ生まれた名前です。また、「土の気」と「金の気」については、そのままの色の対応を持っています。

土の気:土色
金の気:金色

どういった色を持つかによって、どういう「気」を受け取りやすいのかが変化しますが、植物の葉の変色を理解すると「気」の色の意味について理解しやすいです。植物の葉は基本的には「風の気」を摂取するために緑です。しかし、寒い冬が来る前には「火の気」=「熱量」を獲得するために赤、オレンジ、黄に変色します。そして、葉が落ちてからは「土の気」を摂取しやすくするために土色になります。我々が日々見ている植物の葉の変色にはこのような「気」の意味があります。

では、この歌詞にある銀色とはどういった色かというと、「水の気」の「愛」の色です。どうして、銀という色が「水の気」の色であるのかというと、水に光が当たる時、水は銀色に輝くからです。

「水の気持ち」とは「愛」が故に「問題解決」を行なおうとする気持ちですが、細かく見ると「愛」の部分と「問題解決」の部分は別です。銀という色は「水の気持ち」の「愛」の色を示す色です。

この対応関係は「火の気」と「金の気」の対応関係にもよく表れています。「火の気」とは「愛」が故に「笑い/闘い」を行なおうとする気持ちですが、「金の気」とは「火の気」の「愛」の部分だけでできています。だからこそ、夕日は時に金色に見えます。これは「火の気」と「金の気」が本質的に近い関係にあることを示すために神々によって創られたデザインです。

説明が長くなってしまいましたが、このような意味で「銀の光る雫(しずく)の 先をつたい 渡っていこう」という歌詞の「銀の光る雫」とは「水の気」のことを意味します。逆に言うと、この「銀の光る雫」という歌詞は「銀」という色が「水の気」の持つ色でもあることを説明しています。「雫」という言葉はそのまま「水」を意味します。

「水の気」を人間に用意するのは神々です。そして、我々人間は自分がどういう「気持ち・気分」を抱くかということを選ぶことによって、自分が使う「気」を選ぶ立場の存在になります。我々の外界には様々な「気」がありますが、我々はいつも自分がどの「気」と同調するのかということを「気持ち・気分」を抱くことによって選んでいます。つまり、「光の気持ち」と「闇の気持ち」のどちらを選ぶのかということをいつも我々は自分の意志で選んでいます。これが「光」を選ぶか「闇」を選ぶかという選択です。

そういう意味で、「銀の光る雫(しずく)の 先をつたい 渡っていこう」という歌詞は神々の「水の気」という「光の気」を受け取り、そのことによって「水の気持ち」を抱きながら生きていくということを意味します。ここで「渡る」という歌詞がありますが、「川渡り」という言うように「渡る」という言葉は「水の上を進む」ということを意味する言葉です。

そして、「きっと 月の光と 夜の闇と 宙を舞う夜光虫へと」という歌詞についてですが、これらの歌詞は「闇の中の光」を意味する言葉です。「月の光」は太陽の光と異なり、夜にある「光」です。そして、「夜の闇」はそのまま「闇」を示します。そして、「夜光虫」とは海洋性のプランクトンのことであり、夜に海を光らせる存在です。

夜の「闇」の間、水の中で「光」を実践するのが「夜光虫」です。そして、この歌詞においては「宙を舞う夜光虫」という歌詞が置かれているので、実際の夜光虫ではなく、金星神は別の意味を持たせています。

「虫」という言葉があることから神々ではないことは分かります。神々は虫や人間のように物体に魂が宿っている存在ではないからです。ですから、ここで「夜光虫」と言われている存在とは物体的な存在であり、「水の気持ち」を実践する人間のことを意味します。

「宙を舞う夜光虫」という言葉は「神々や天使となっていく水を実践する人間」という意味を持っています。我々は輪廻転生していますが、ある程度魂が「光」を強くすると天使や神々となっていきます。この「宙を舞う」という歌詞は「いずれ飛ぶことができるようになる」という意味を持った言葉です。

「出発する電車に乗らないといけない」という言葉の使い方からよく分かるように「出発する電車」という言葉は必ずしも「出発中の電車」である必要はなく「出発する予定の電車」という意味を持つこともできます。そのような言葉の使われ方と同様の使われ方で「宙を舞う夜光虫」=「宙を舞う予定の夜光虫」という言葉がある形になります。

我々人間にとって、神々の姿は見えません。そして、我々を現実的に引っ張って行くのはいつも人間です。この「宙を舞う夜光虫」という言葉は、夜光虫が水中において「闇」の中で「光」を実践することから明らかなように、強い「水の気持ち」を抱いた人間のことです。これからの時代において必要なのは、本当に強い「水の気持ち」で生きる人間であって、そういった人々が皆を引っ張っていくことになります。

この説明の上で

「きっと 月の光と 夜の闇と 宙を舞う夜光虫へと」
「銀の光る雫(しずく)の 先をつたい 渡っていこう」

という歌詞を見ると、意味が捉えやすくなります。そして、この歌詞の骨格は「AとBとCへと(水の気と共に)渡っていこう」というものです。だからこそ、「Aへと渡ること」「Bへと渡ること」「Cへと渡ること」の意味を理解する必要があります。

A:「月の光へと渡っていこう」は「闇の中の光へと渡っていこう」ということを意味します。何故ならば、月は「闇」の中で輝くものだからです。

B:「夜の闇へと渡っていこう」は「自分の抱える『闇』と向き合おう」ということを意味します。これはPVの内容とも重なります。PVの中でSalyuは自分が抱える「闇」を探しに行くからです。我々が「水の気持ち」で自分が抱える問題を解決するためには、自分が抱える「闇」をまず最初に見つめる必要があります。多くの人にとって自分の抱える「闇」と向き合うことは苦しいことですが、向き合うこと無しに自分の「闇」を乗り越えることは不可能です。そういったことを行なうためには強い「水の気持ち」が必要となるからこそ、この歌詞は「夜の闇へと水の気の先をつたい渡っていこう」という構造があります。「夜の闇へと渡っていこう」という意味だけだと、「闇を目指そう」という意味にも見えるのですが、「『水の気』の先をつたい」という歌詞があることから、「闇を目指そう」という意味ではないことが分かります。

ただ、「水の気」と共にわざと「闇」に堕ちるということは時に魂の「光」を強めます。強い「闇」に打ち勝ってこそ、強い「光」は生まれるからです。神々は時に魂の「水の気」を強めるために、わざと人間を「闇」に堕とすということもごく稀ですが行ないます。この歌詞の次の歌詞は「小さな願いのはじまり 灯る火を両手で 風の強い日には 消えそうになってるけど 守るように大きくなるように」という歌詞ですが、この歌詞はそのことを歌っています。この歌詞の内容は神々が人間の魂の「光」を強くするために行なう試練のことを意味します。

C:これは既に説明しましたが、「宙を舞う夜光虫へと渡っていこう」とは「強い水の気持ちを実践する人間に付いていく」ということを意味します。「付いていく」と書くとただ従っているように見えますが、そうではなくて、その強い「水の気持ち」を実践する人のように、強い「水の気持ち」を実践できる人間になっていこうという意味を込めて「渡っていこう」という言葉が置かれています。


「小さな願いのはじまり 灯る火を両手で」
「風の強い日には 消えそうになってるけど」
「守るように大きくなるように」

「風」は神々が司るものです。「風」は急に起こったりするものであって、科学的な観点だけでは風のメカニズムは解明できません。「風」は「風」を操作している魂がいるからこそ、不規則にも発生します。その魂が神々です。

そして、「火」は視覚的にも「光」を作るものです。ですから、ここで歌われている「灯る火」とは「光」を作る存在のことを意味します。そして、そういった「火」に向かって神々が司る「風」が吹いているということがここで歌われています。「消えそうになってる」という歌詞から神々が「火」の「光」を弱めているということも分かります。神々がこのような形で試練を課す相手は人間なので、ここで歌われている「灯る火」とは人間のことを意味することが分かります。

神々が人間に試練を課す場合、神々はその人間に「闇」を経験させ、わざとその人間の「光」を弱めるように関与するのですが、そのことに対してその人間は自分の「光」が消えてしまわないように努力するので、その過程において、その魂の「光」の強さは養われます。「守るように大きくなるように」という歌詞は、神々がその魂の「光」を強くするために、試練を課していることを説明しています。

 

「きっと 壊れた街と それを見てる」
「取り残された瞳の」
「銀の光る涙の 先をつたい 泳いでいこう」

「壊れた街」とは我々が生きている街のことを意味します。例えば、東京を例に挙げると、東京とは本当に「欲望」に満ちた場所であって、そういう意味で「壊れた街」です。「光」の基本姿勢は「愛」であるのに対して、「闇」の基本感情は「欲望」です。ですから、「欲望」に満ちた場所とは「闇」に満ちた場所であって、神々は強い「光」の立場なので、神々からすると東京は「壊れた街」です。

ここで「それを見てる 取り残された瞳」と歌われている内容は神々の目線を意味します。人間が「闇」を選ぶことは、神々からすると「取り残された」感覚です。神々は人間を「光」に導きたいにも関わらず、人間は離れていってしまったからです。神々は我々人間を「幸せ」にしたいが故に、我々を「光」に導きたいにも関わらず、人間が付いてきてくれないのはとても悲しいことです。

そして、そういった問題を解決しようとする神々の気持ちが「銀の光る涙」という言葉が示しています。これは神々の「水の気」のことと、神々の悲しみ=「涙」の両方が意味されています。そして、そういった「水の気」と共に生きてほしいという神々の願いが「先をつたい 泳いでいこう」という言葉に託されています。

 

「波をかいて 沈まないように」
「泳いで行ければいい 遠くない 夜明けに」

「波をかいて 沈まないように 泳いで行ければいい」という歌詞も「水」に関連する歌詞が多いことから明らかなように「水の気持ち」を維持することが歌われています。

「闇」に満ちたこの世界で「光」を実践していくことは簡単なことではなく、必ず「苦悩」を経験します。そして、そういった「苦悩」に心が負けてしまったら「光」を実践する意志を失い、「闇」に堕ちていってしまいます。「誰かのため」に「光」を実践していたのにも関わらず、そのことを通して「苦悩」を経験するが故に「光」を実践することを止める人は多くいます。

そのような形で「闇」に堕ちないようにする上で重要なことが「水の気持ち」を抱き続けることです。我々が「闇」に堕ちてしまうのは、どこかで「闇の気持ち」に感情が堕ちるからです。どんな「苦悩」を経験しようとも、「誰かのために、ここで自分の心が負けてはいけない」という「水の気持ち」=「向上心・問題解決の心」を維持していれば、絶対に「闇」に堕ちることはありません。逆に、気持ちが「苦悩」や「絶望」に堕ちると「光」を止めようという発想を持ち始めます。

「遠くない 夜明けに」という歌詞の解説は最後に書きます。

 

「きっと 月の光と 夜の闇と 宙を舞う夜光虫へと」
「銀の光る雫(しずく)の 先をつたい」

「きっと 壊れた街と それを見てる」
「取り残された瞳の」
「銀の光る涙の 先をつたい 泳いでいこう」

「きっと…」

この歌はこの歌詞が再び歌われ、歌が終わります。「水」に関連する歌詞が再び歌われていることから、この歌が「水の気持ち」について強く歌っている歌であることはよく分かります。

最後の「きっと」という歌詞には、神々の人間を信じている気持ちが表れています。神々は「気」で関与することでしか人間を支えられません。だからこそ重要なのは一人一人の人間の「意志」であって、神々が人間のそういった「意志」を信じているという希望が「きっと…」という歌詞の意味です。

 

【PVについて】

この楽曲のPVにも神々は強く関与しているので、PVについても解説します。この歌はPVの持っている意味を理解することにより、この歌の持っている意味がより分かるようになっています。

例えば、冒頭の歌詞「体の どこかに 流れる あなたとの似たもの それが何か 感じられたら」という歌詞のところでは、Salyuが銀色の道具を目に当てていますが、これは「光る銀の雫」「光る銀の涙」と重ねるために用意された構造です。つまり、この映像から「体の どこかに 流れる あなたとの似たもの」=「光る銀の雫」=「光る銀の涙」=神々の「水の気」ということが分かります。

このPVを御覧になって頂く上で重要な観点は、このPVの中でSalyuは「水の気持ち」を実践しているということを意識することです。このPVの中でSalyuは「問題解決」を実践していますが、これはこの歌が「水の気持ち」で歌っていることや、Salyuが「水の気」と共に歌を歌っていることや、Salyuが「水の気」と共に生きていることを視覚的に表現するためになります。

そして、そのことと合わせて大事な観点は、このPVで描かれているのは身体と精神の繋がりのことであるということです。「気」というものを媒介として、身体と精神は繋がっています。しかし、西洋医学は「気」のことを全く考えないが故に、身体と精神を分けて考えてしまい、そのことを原因として現代の人間は身体と精神がどのように繋がっているのかが分からなくなってしまっています。

このPVでは、身体の中で小さなSalyuとサイが描かれますが、このSalyuが「水の気」であり、サイが「闇の気」です。そのように御覧になって頂けると、「気」のことがよく分かるようになっています。そういう意味で、人間に「気」のことを伝えるために用意した教科書のようなものです。以下、内容について書いていきます。

冒頭に昔の西洋医学に関する映像が流され、その後にSalyuがお医者さんに診察をお願いする様子が描かれます。

しかし、お医者さん達は基本的に気味悪く描かれます。これは神々の目線で西洋医学の医者を見た時にどのように見えているのかということを視覚的に表現した形になります。

「気」の観点が無いと、自然治癒力はどのように生まれるのかということがよく分かりません。医学的にも笑うことで癌のキラー細胞が生まれることは明らかにされていますが、「気」の観点が無ければ何故人が笑うことでキラー細胞が増えるのかということを理解することは不可能です。しかし、それを無理矢理理解しようとすると、誤った人体の見方をするようになります。そういった誤った考え方があまりにも西洋医学には多く、そのことを通して神々の存在を余計に分からなくしているので、神々は西洋医学に対して否定的な見解を持っています。もちろん、西洋医学の全てに対して神々は否定的なわけではないです。

自然治癒力は体温と密接な関係があります。このPVの中でも温度計や体温計という形で、温度に関することが描かれていますが、これは自然治癒力が体温と密接な関係にあることを示すためです。では、体温とは何によって成り立っているかというと「火の気」です。「火の気」とは熱の原因の「気」であり、だからこそ、体温の原因は「火の気」です。強く笑うと身体が熱くなりますが、これは「笑い」というものを通して「火の気」がその人に入るからこそ起こる現象です。「笑い」という「気持ち」の原因は「火の気」です。だからこそ、笑うと「火の気」が入り、その「火の気」を通して自然治癒力が高まります。笑うとキラー細胞が増えるということもこのようなことが背景にあります。

風邪を引くと熱が出ますが、これは「火の気」によって身体に宿っている「闇の気」を出すためです。必要だからこそ、熱が出ます。しかし、西洋医学の観点だと熱が出るということの意味が分からないので、熱が出ることは悪いことだと考え、熱を下げるための薬を服用したりします。神々としては人間を助けるために熱を出しているにも関わらず、その熱を下げようとするのは、本当に本末転倒なことです。

また、西洋医学は「気持ち」は「気」によって成り立っていることを知らないからこそ、精神を病んだ人達は大量の精神薬を飲み、その薬が故に心を失っている人も多くいます。また、「病気」はその言葉の通り「病の気」=「闇の気」によって生まれているものであって、西洋医学はそのことを知らないので、多くの人が「闇の気」を摂取し続け、そのことが原因で病を抱えています。もし、人が病の原因が「闇の気」であることをもっと理解するのであれば、これほどまでに「闇」を人は選ばないはずです。

今の西洋医学はそういった誤った考え方が積み重なったものであって、そういった誤った見方を失くすためには、一度前提から全てを白紙に戻して人体を見つめ直す必要があります。この歌の「はじめから 歌いだせたら」という歌詞にはそのような意味も込められています。

このPVの中で、お医者さんはブルドックから指示をもらっています。これは西洋医学の医者の多くが悪魔に動かされていることを視覚的に描いています。

「気」は「アイデア」の原因でもあります。そのことをよく表すのが「気付き」という言葉の構造です。「気」には「アイデア」を乗せることができ、「アイデア」の乗った「気」が我々に「付く」ことによって「気付き」という現象は発生しています。このような背景によって「気付き」=「気」+「付き」という構造があります。

だからこそ、神々からの「光の気」を抱えて生きると神々から様々な「アイデア」を与えられながら生きることになり、悪魔からの「闇の気」を抱えて生きると悪魔から様々な「アイデア」を与えられながら生きることになります。

例えば、心が「闇」に堕ちると、つまり、身体が「闇の気」だらけになると、電車を待っている時に「電車に飛び込んでしまおうか」という「アイデア」が自分の中に起こったりしますが、これは悪魔がそういった「アイデア」を「闇の気」を通して我々にもたらしているからです。それに対して、心が「光」に満ちると、つまり、身体が「光の気」に満ちると、相手のいいところにどんどん「気付く」ことができるようになります。これは、神々がそういった「アイデア」を「光の気」を通して我々にもたらしているからです。

現代社会において、お医者さんは非常に社会的地位の高い存在であり、高給取りです。そして、医者になる多くの人はそういった社会的地位やお金のために医者になります。そういった気持ちは「優越感」「欲望」の気持ちなので、そのような生き方をしていると身体が「闇の気」だらけになり、自分でも気付かない内に悪魔の道具になってしまいます。この映像の中で医者達が気味悪く描かれているのは、医者の多くが悪魔によって呪われていることを示すためです。もちろん、医者であっても、「自分のため」ではなく「誰かのため」に医学を実践するのであれば神々と共に生きることになるのですが、そういった動機で動いている医者が少ない現状があります。

この映像の中でも、医者は悪魔から何かを教えてもらって、そのことを伝言するような形でSalyuに「実に危険な状態です」という言葉を発しています。これは医者が悪魔から「アイデア」をもたらされていることを視覚的に描くためです。医者は自分自身の判断によって患者が危険かどうかを決めますが、医者の心に「闇の気」を通して悪魔は働きかけることで、その判断に悪魔は関わっています。

このPVの中でも医者は悪魔から何かを聞いて、それを伝言するように「実に危険な状態です」と言います。しかし、この言葉は相手側の「恐怖」をかき立てる言葉であって、「恐怖」によって人を「支配」しようとする悪魔の狙いがあります。

医学のプロフェッショナルの人にこのようなことを言われると、人はそれを信じやすいものです。そして、それを信じたら医者に頼るということを始めようと思います。これは「恐怖」→「依存」の心の流れです。この両方が「闇の気持ち」であって、悪魔は人間を「闇」に陥れるために、医者にこのような発言をよくさせます。医者はそのような構造には気付くことはできず、本当に「危険な状態である」ということを悪魔に信じ込まされている形になります。

それに対して、Salyuは「どこが悪いんですか?」という形で問題を知ろうとします。これは「水の気持ち」=「向上心・問題解決の心」の立場を意味します。問題を解決するために、まず最初に問題を知ることを目指すからです。

そして、Salyuは自分の身体の中にいるサイを探しに行きます。このサイが「闇の気」のことです。それぞれのサイは異なる「闇」を抱え、Salyuはそのサイ達に働きかけることで「問題解決」を行なっています。そして、サイ達は自分の「闇」をSalyuの「愛」によって乗り越えていきます。これはSalyuが「水の気持ち」=「向上心・問題解決の心」を歌っていることを視覚的に表すものです。

我々が病気を抱えるのは、我々が「闇の気」を身体に抱えるからです。では、何故我々が身体に「闇の気」を抱え込むのかというと、どこかで我々の魂が「闇」と同調するからです。我々の魂が「闇の気持ち」を抱かずに「闇の気」が身体に溜まることは不可能です。「闇の気」を抱える人は魂のどこかで「闇」と同調しながら生きています。そういった問題をSalyuは解決していきます。これは自分自身が持つ「闇」と向き合い、それを解決していく過程でもあります。

最初はサイ達がお互いを咎め合っている様子が描かれます。これは「咎める心」という「闇の気持ち」のことを意味します。それに対してSalyuは「話すのをやめて見つめ合えばいいの」というアドバイスを行い、サイ達は「咎める心」を止めます。「咎める心」を選ぶのはどこかで相手の立場のことを踏まえずに、自分が被った「不利益」ばかりに目が行くからです。見つめ合うという行為は相手のことを理解しようという気持ちに繋がる行為なので、見つめ合っていると相手の立場になって考えることができ、自分の得た「不利益」を見ることを止めます。

つまり、Salyu自身が「闇」を解決するための「アイデア」をサイにもたらしています。だからこそ言えるのは、この身体の中に入るシーンにおいて、Salyu自身が「水の気」のことを表すということです。「気」は「アイデア」の原因であるからこそ、問題を解決するための「アイデア」を「水の気」はもたらします。そのことを視覚的に描いています。この映像の中でヤギやウサギも描かれていますが、彼らも「光の気」として描かれています。

二番目には荷物を大量に抱えるサイに対して、「少し捨てた方がいいわ」とアドバイスを行い、実際に捨てます。これは「欲望」や「執着」という「闇」を解決することを視覚的に表している形になります。

三番目は空腹を抱えて動けなくなったサイにパンを与える描写がありますが、これは「水の気」が行動の原因となる「気持ち」の部分を支えていること、「与える」という行為が「光」の行為であることを視覚的に描いています。

我々が何かをするのは、そういったことをしたいという気持ちが起こるからであって、「水の気持ち」は「問題解決」をしたいという「気持ち」を起こします。Salyuのパンは「水の気」のことを意味し、そういった「気持ち」をもたらすことを視覚的に描いています。

また、「光」は「愛」の立場であり「相手のため」に「与える」ということを行なうのに対して、「闇」は「欲望」の立場であり「自分のため」に「奪う」ということを行ないます。ここでSalyuが「与える」ことを行なっているのは、「与える」という行為が「光」の行為であることを示すためです。

最後は、「夢を落っことしてしまったんだ」と言うサイに対して、「一緒に探してあげる」という形でサイを外に出します。これは「光の気」と共に生きるのであれば、我々が「夢」を見つけるということを視覚的に表現している形になります。この情報が最も重要だからこそ、最後に置かれています。

「気」は「気持ち・気分」「気付き」という言葉が表すように、我々の「気持ち・気分」と「気付き」の原因です。そして、我々の様々な行動は「気持ち・気分」「気付き」によって支えられています。だからこそ、もし神々の「光の気」と共に生きるのであれば、神々によって我々は自分自身が持つ人生の役割=「夢」を知ることになります。

例えば、バイオリン奏者という人生の役割を持つ人が「光の気」と共に生きている場合、たまたま見かけたバイオリンコンサートのちらしに目が止まり、「行ってみようかな」という「気持ち・気分」を神々が起こしたりします。そして、実際に行ってみるとバイオリンの音色に惚れ込み、実際に「自分もバイオリンを始めてみたい」と思ったりします。そのことを通して、バイオリン奏者という「夢」を実現していきます。このような形で、神々は我々が持つ人生の役割=「夢」に辿り着かせるように「光の気」で支えています。

逆に言うと、悪魔は我々に人生の役割=「夢」を気付かせないように「闇の気」で関与し続けるので、「闇の気」と共に生きていると、このサイのように夢を落っことしてしまいます。現代人の多くが「夢」を失っている背景には「光の気」と共に生きず、「闇の気」と共に生きていることがあります。

この世界の「光」が弱まり、「闇」が強くなったのは、多くの人が「夢」を見失ったからです。「夢」とはその人の人生全体に影響を与えるとても力のあるものです。だからこそ、多くの人が「夢」を抱き生きるのであれば世界の「光」は強まり、多くの人が「夢」を見失ったのであれば「闇」が強まるという傾向が生まれます。

現代において最も重要なのは「夢」を持つことです。そして、「光の気」と共に生きるのであれば、我々は自分の「夢」に気付くことになります。だからこそ、「光の気」と共に生きることは大事ですし、このPVの最後にも描かれている形になります。


【「遠くない 夜明けに」の意味について】

この歌においては、「遠くない 夜明けに」という歌詞がありますが、この歌詞の意味を理解するために金星からの「金の気」についての理解を深める必要があります。

Salyuが非常に重要な歌手である理由は金星神と共に歌を歌っている点にあります。そして、今の時代は金星からの「金の気」が降り注ぎ始めた時代であって、その時代にSalyuは金星神と共に歌っているからこそ、とても重要です。

太陽系は「水・火・風・土・金の気」を地球に降り注ぐためのシステムです。太陽と火星は「火の気」を、水星は「水の気」を、金星は「金の気」を、木星は「風の気」を、土星は「土の気」を地球に送っています。

そして、地球は「光」の時代と「闇」の時代が交互に繰り返されるように元々デザインされています。それは具体性の無い話ではなくて、具体的に「気」の関係性が変化することによって生じる現象です。我々人間の様々な行動は我々の「気持ち」から生まれます。そして、「気持ち」の原因は「気」なので、地球に降り注ぐ「気」の関係性が変化すると、我々人間の抱きやすい「気持ち」が変化し、人間のどういう行動を起こすのかということにも変化が生まれます。

金星は「金の星」と書かれているように、「金の気」が大量に宿っている星です。そして、金星は「金の気」を地球に送る時期と送らない時期があります。このことが、その時代が「光」の時代なのか「闇」の時代なのかを決定します。

「金の気」とは「愛」の原因の「気」であって、「光」の立場の最も前提となる重要な「光の気」になります。「金の気」を我々が受け取ることができるのであれば、「愛」を抱きやすくなります。そして、「愛」とは「相手のことを大事だと想う気持ち」そのものであって、その気持ちが「水の気持ち」といった様々な「愛」の実践の気持ちに繋がっていきます。

そういう意味で、金星が「金の気」を地球に降り注いでいる時代は皆が「愛」を抱きやすくなり、逆に金星からの「金の気」が無い時代は皆が「愛」を抱きにくくなります。だからこそ、金星からの「金の気」が地球に降り注ぐ時代を「光」の時代、金星からの「金の気」が地球に降り注いでいない時代を「闇」の時代と呼びます。

そして、金星からの「金の気」は、2012年12月まで2000年以上の間、降り注いでいませんでした。だからこそ、多くの戦争がこの2000年の間に起こり、「闇」の時代の末期である20世紀は第一次世界大戦や第二次世界大戦といった大きな戦争が起こっています。このように、この地球で起こる様々な出来事は、一体どういった「気」がその時代に多いのかということにかなり影響されます。

金星からの「金の気」の有無によって「光」の時代と「闇」の時代が交互に繰り返されるということをよく理解していたのがマヤ文明でした。マヤ文明の人々が非常に優れた天文学を持っていたことは、彼らが残した遺跡からよく分かります。

マヤ人達は「歴史は繰り返す」という考え方を持ち、そのことが星から地球に送られている「気」の違いによって成立することが分かっていました。つまり、マヤ人達は「気」のことや、星の神々のことをよく理解していた形になります。彼らの知識はほとんど燃やされてしまいましたが、彼らの持っていた重要な知識の一つである暦の考え方は今でも残っています。

2012年12月とはマヤ文明で使われていた長期暦が終わった時でした。ですから、人類滅亡論などが流行った時でもありました。しかし、実際は地球は滅びず、地球は今でもあります。しかし、変わったことが1つあり、それが金星からの「金の気」が降り注ぎ始めたということです。

マヤ文明においては、地球は5125年周期であり、その周期の中で「光」の時代と「闇」の時代が成立していることをマヤ人達は知っていました。だからこそ、紀元前3114年8月12日とはマヤ人にとって「金星が誕生した日」と呼んでいます。これは金星が物理的に誕生したということを意味するのではなく、金星からの「金の気」が降り注ぎ始めたということを意味します。ですから、整理すると以下のような形で地球の歴史は流れています。

紀元前3114年8月12日〜紀元前3世紀頃:「光」の時代(金星からの「金の気」が降り注いでいる)
紀元前3世紀頃〜2012年12月22日頃:「闇」の時代(金星からの「金の気」が降り注いでいない)
2012年12月23日頃〜現在:「光」の時代(金星からの「金の気」が降り注いでいる)

マヤ長期歴の5125年周期で考えると、紀元前3114年8月12日と2012年12月23日は同じ意味を持っています。そして、マヤ人達が紀元前3114年8月12日を「金星が誕生した日」と呼んだことから、2012年12月23日も「金星が誕生した日」と言う事ができます。つまり、紀元前3114年8月12日と2012年12月23日は「金星からの金の気が降り注ぎ始めた日」です。

この『VALON-1』は2004年の曲であって、2012年以前に生まれた曲です。だからこそ、「遠くない 夜明けに」という形で、「光」の時代に入ることが近い未来の話であることとして歌われています。

また、Salyuがソロデビューする前にLily Chou-Chouのボーカルとしてデビューした曲の『グライド』では、金星神が金星からの「金の気」を降り注ぎたいと思っていることが「グライド(降下飛行)」という形で描かれています。『グライド』の歌詞の内容から金星はまだ「金の気」を降り注いではいなかったことが分かります。

また、2010年12月に発表されたLily Chou-Chouの『エーテル』は「逃げ出せないまま 追いつめられていた 現実のひび割れで 眠っていた心が 触れられたらそのエーテル よみがえる」という形で、もう少しで金星からの「金の気」=「エーテル」が降り注ぎ始めることが歌われています。

『グライド』のカップリング曲の『飽和』においては、「南回帰線で戻ってきたなら あなたのくちびるに近づいてしまった」という形で、地球が金星に近づく時には地球の北回帰線ではなく南回帰線が金星に近いことが歌われています。

これらのことについては、『Salyuについて』に詳しく書いています。

http://junashikari.com/singer/salyuについて/

 

【『VALON』について】
 


『VALON-1』は元々はラッパーのILMARIとのデュオの形で歌われていた『VALON』から生まれています。ilmariとのデュオのバージョンにおいては、Salyuが「水の気持ち」を歌うのに対して、ILMARIは「風の気持ち」=「優しさ」を歌っています。冒頭にILMARIが「風のように舞う」という歌詞を歌いますが、これはILMARIが「風の気持ち」で歌っていることを示すために神々が用意した構造になります。

ジャケット写真も「水」が表現されています。

 

【最後に】

この歌は本当に人間にとって重要な歌です。何故ならば、Salyuは「金の気」を最近降り注ぎ始めた金星神と共に歌を歌い、この歌のテーマとなっているのは「水の気」の重要性や、「気」の成り立ちなどの重要な情報が込められているからです。

是非、この曲を聴くことを習慣にして頂きながら、この曲と共に生きていくような形を目指して頂ければ、と思います。歌は我々の「気持ち」を支えてくれます。そして、この歌は我々の「水の気持ち」を支えてくれます。だからこそ、この歌を日常的に聴く習慣があれば、「水の気持ち」で生きることに繋がります。そういう意味で、この歌はただ聴くのではなくて、この歌と共に生きることが大事です。

私も文章を書く時などはいつもこの曲をリピート再生で聴くようにしています。そのことで、いつも「水の気持ち」を支えられていて、もう2000回以上聴いています。そんな形で御自身なりのこの歌と共に生きる方法を見つけて頂ければ、と思います。

歌はその歌詞の意味を理解することによって、その歌に対する「共感」の深さが変わります。この解説を通して、この歌に対する理解を深めて頂き、より深い形でこの歌の「水の気持ち」と「共感」をして頂けると幸いです。そして、この歌と共に生きて頂ければ、と思っています。