恥ずかしながら、先日夕日を見ていて、初めて夕日の空が虹のような色を見せることを「意識化」しました。見たことがなかったのか、「意識化」してなかっただけなのか、それが分からないのですが。

色々知るにつれて、こんな基本的なことさえも知らなかったのかと思うことばかりです。シャーマンなので心に関することは普通の人よりも詳しいのは事実ですが、それでも自分が学んでいるのは基本の範疇のことです。

今の常識からすると、自分の研究している分野は生きることの基本とは思われません。何故ならば、基本を見失っている世界では、何が基本かも分からなくなるからです。こういった点が、今の世界の本当に恐ろしい点です。

自分はあくまでも基本を研究しています。自分に対して、何でも知っている人のように誤解する人もいれば、色々知っているが故に偉ぶっている人のように誤解する人もいます。そのどちらでもありません。

何でも知っているわけでもなければ、知っていることで偉ぶることが「愚かさ」なのは知っています。自分は全部を知らないからこそ、「世のため」にできるだけ多くを知らねばならないと思っている、ただの男です。

「そういえば、ソクラテスの『無知の知』という言葉があった」と、これを書いた直後に思わされています。よく行き着くところは、ソクラテスやアリストテレスです。

彼らはよく知っていました。今もどこかから彼らは我々を見つめています。人類のために残した彼らの財産を使ってほしいと切に願いながら、我々を見つめています。だからこそ、彼らを広めたいと思っている自分を彼らはどのような眼差しで見つめているのだろうかと、時々思います。

ソクラテスやアリストテレスは2000年以上も前の人間です。そんな彼らが作り出したバトンは幸いにも今でも残っています。いつか彼らの作ったバトンを徹底的に研究したいと思っていますが、今は旅を通して彼らが伝えようとしていたことを別の形で研究しています。

人間が知るべき「真実」はこの世界の成り立ち=この世界のルールです。それを明らかにするためには、異なるアプローチの研究方法があります。しかし、現代はそれぞれの研究方法が別々に見えてしまっています。こういうことが、今の世界の本当に恐ろしい点です。

アリストテレスが何者なのかを言うことはとても難しいです。彼は少なくとも、哲学者であり、神学者であり、心理学者であり、倫理学者であり、天文学者であり、芸術学者であり、動物学者であり、論理学者であり、文学者であり、気象学者であり、物理学者であり、政治学者です。そして、彼はこの世界は「プシュケー」から成っていると説きました。

この世界は「プシュケー」=「気」によって成り立っています。だからこそ、「プシュケー」=「気」がどういうものなのかを分かるためには、自ずと様々なことを研究する必要性が出てきます。

こういう流れで様々なことを研究することになることは、「気」のことを研究していく中でよく分かるので、アリストテレスが様々な分野を研究しようとした動機はよく分かります。逆に言うと、こういうアリストテレスの動機が分からなくなる程に、世界は「気」のことを見失っています。そして、だからこそ、それぞれの研究分野が別々に見えてしまっています。

人間には寿命があるので、一人の人間が全てを研究し、全てを理解することはできません。だからこそ、我々はいつまでも「無知」です。

アリストテレスの背中を追いながら、ソクラテスの「無知の知」の重みを知るような日々です。いつも彼らのことを考えているわけではないですが、時々彼らのことを思いながら旅をしています。