西洋古代哲学などでは、「プシュケー」といった呼ばれ方で、度々「気」のことが議論されてきました。だからこそ、大学の哲学科に入ると、古代哲学の授業などで「プシュケー」に関する文章を読むことになります。

しかし、古代哲学を教える教授達は「プシュケー」のことを全然理解していません。教える側が本当は理解していないのですから、学ぶ側は理解できるわけがありません。これが、哲学を学ぶ環境が抱える最大の問題です。

「プシュケー」=「気」を学ぶためには、多くの経験が必要です。文献を読み、その哲学者が何を意図しているのかを分析していくだけでは絶対に「プシュケー」=「気」は分かり得ません。

何故ならば、「プシュケー」とは「光の気」のことであって、「愛の気」を意味するからです。だからこそ、「プシュケー」を教えるためには、相当深く広く「愛」を知っている必要があります。「愛」を学ぶことは文献を読めばいいということではないので、多くの人生経験が必要になります。

自分は哲学科出身ですが、古代哲学を教えている教授は自分の親友を授業中に「ゴキブリ」と呼べるくらい「愛」が足りない人で、「愛」を広めるどころか「嫌悪」を広める人でした。そんな人が古代哲学を教えているのですから、学生が分かるわけがありません。しかし、その教授は教えることができているつもりでした。

古代哲学にこそ「真実」があります。何故ならば、「真実」は「プシュケー」=「気」だからです。だからこそ、古代哲学を学ぶことは本当は何よりも大事なことです。しかしながら、学ぶ環境が整っていないが故に、学生達はちゃんと学ぶことができません。

誰もこの構造を知りませんが、これが現代の哲学教育環境が抱える最も大きな問題であり、日本の抱える教育問題の中でも、最も大きな問題の1つです。