人間は一つの時間に一つの「認識」しかありません。それは、人間にとっては、「認識」は一つで十分だからです。

人間は「光」と「闇」を行ったり来たりする中途半端な存在で、常に「誰かのため(愛)」に努力し続ける人もあまりいなければ、常に「自分のため(欲望)」に努力し続ける人もあまりいません。これは、「愛」においても「欲望」においても人間は「未熟」だということを意味します。

例えば、「誰かのため」に頑張ろうとしてるのに、相手よりも自分を守ろうとしてしまうことは、「愛」の「未熟」です。「愛」に生きるならば、自分よりも相手を優先すべきだからです。それに対して、「自分のため」に頑張ろうとしてるのに、誰かを利用することを躊躇してしまうのは、「欲望」の「未熟」です。「欲望」に生きるならば、相手よりも自分を優先すべきだからです。

たった一つの「認識」の中で、その「認識」を常に「愛」か「欲望」のどちらかに使えるようになれば、「認識」は一つでは足りなくなります。そうなった時に、我々は人間として「成熟」したことを意味し、二つ以上の「認識」を持つ必然性が生まれます。そういう人間としての生の後、人は天使にもなれば、幽霊にもなります。何故ならば、そうなりたいと思うからです。

全力で「愛」に生き始めると、「自分が何人もいればもっと多くの人を助けられるのに」と思うようになります。逆に、全力で「欲望」に生き始めると、「自分が何人もいればもっと楽しめるのに」と思うようになります。そういう風に思い始めると、「認識」が一つしかない人間に生まれたくなくなります。

天使は二つ以上の「認識」の中で、人間よりも「愛」に生きようと努力し続ける魂達、幽霊は二つ以上の「認識」の中で、人間よりも「欲望」を楽しもうとしている魂達です。

神々は膨大な「認識」の中で、天使よりも「愛」に生きようとしている努力し続ける魂達、悪魔は膨大な「認識」の中で、幽霊よりも「欲望」を楽しもうとしている魂達です。

我々人間は「光」の系列(神々・天使)の方に向かうか、「闇」の系列(悪魔・幽霊)の方に向かうかの分岐点です。それは、とてもとても大事な分岐点です。何故ならば、一度「光」か「闇」のどちらかに寄ると、引き返すことは非常に困難だからです。

「認識」の数は「感情」と「思考」の数です。天使や幽霊のように二つ以上の「認識」を得るならば、一つの時間に二つ以上の「感情」と「思考」を持つことになります。神々や悪魔のように膨大な「認識」を得るならば、一つの時間に膨大な「感情」と「思考」を持つことになります。

天使も幽霊も、神々も悪魔も、「気」で生き物に関与しており、自分の「気」は全て一人で操作しています。そして、自分の「気」を全て操作するためには、一つ一つの「気」ごとに「感情」を抱き、「思考」をしないといけないので、一つ一つの「気」がまるで生き物のようになります。そういったことを、『もののけ姫』のコダマや『崖の上のポニョ』のグランマンマーレから出ている金の魚は表現しています。

 

コダマは大勢いるように見えますが、実際は一人の魂が全てのコダマを操作しています。だから、全員は似ています。グランマンマーレは一人ですが、彼女から出ている金の魚は大勢いるように見えます。この金の魚がグランマンマーレの「金の気」です。このように、コダマやグランマンマーレの表現を通して、大きな力を持った、目に見えない存在の「認識」を我々は少し理解することができます。

こういった形で膨大な「認識」を持っているからこそ、神々は一人一人の人間と向き合うことができ、「気」で支えようとすることができます。それに対して、悪魔は一人一人の人間をどう利用するのかを考え、「気」で罠に堕とすことを考えています。

つまり、神々も悪魔も、我々の一人一人に対して、いつも「感情」を抱き、いつも「思考」をしています。つまり、常にあなたは複数の目に見えない存在から見られています。何故ならば、彼らはそれぞれの動機によって、あなたの心を見なければならず、だからこそ、見ていたいと思うからです。

この文章を読んでいるあなたの心にさえ、目に見えない存在は、それぞれの動機によって、あなたの体に宿っている「気」に関与し、抱かせたい「気持ち」を抱かせます。

神々は「気」の構造を人間に伝えたいと思っているので、神々の「気」を多く持っている人は、こういうことを強く知りたいという「気持ち」になりやすいです。それに対して、悪魔は「気」の構造を人間に伝えたくないと思っているので、悪魔の「気」を多く持っている人は、読むのがめんどくさいといった「気持ち」になりやすいです。

我々は自分自身の「意志」で何かをめんどくさいという「気持ち」を「起こす」ことはできず、めんどくさいという「気持ち」は「起こる」ものです。そういった我々の「意志」を超えた部分に、いつも「気」は関与しています。

中には、こういったことを理解したいと思いながら、読むのが嫌になる人もいます。その自分の中のせめぎ合いが、神々と悪魔の「気」のせめぎ合いです。神々も悪魔もあなたの心を違う方向に「導き・コントロール」したいと思っています。そのどちらの「導き・コントロール」に同調するかを決めるのは、あなたの魂です。こういった形で、「光」と「闇」を常に自分自身の「意志」で「選択」しながら生きているのが人間としての生です。

また、彼らは、一人の人間に対して、一つの「認識」で見つめるだけではなく、一人の人間に対して、複数の「認識」で見つめることさえもできます。

ある人間に対して、「愛」の眼差しで見つめながら、「厳しさ」の姿勢で見つめることができるのが神々です。例えば、大事な我が子を愛おしく見つめるような「愛」の視線を持ちながら、その人間が間違ったことをする時には、その人間のために「厳しさ」の視線で見つめたりします。(それは非常に優れた親が子を見つめる視線です。)

それに対して、「欲望」の対象として見ながら、「嫌悪」の感情で見つめることができるのが悪魔です。例えば、その悪魔の「欲望」を実現するために、その人間を利用したいと思いながら、その人間が思い通りに動かないと、「嫌悪」を抱いたりしています。(それは非常に巧妙なペテン師が誰かを騙そうとする視線です。)

我々人間は一つの時間に一つの「認識」しか持てないから、生きるのは随分簡単です。どんなに悪いことがあっても、お笑いを見ている間は悪いことを忘れることができるのが人間だからです。

しかし、「認識」の数が増えるとそういったことは起きず、悪いことがあれば常にその悪いことと向き合わざるを得なくなります。何故ならば、忘れられないからです。ただ、逆に言うと、いいことがあれば常にそのいいことを嬉しく思い続けることもできます。

そういう意味で、「認識」の数が増えれば増えるほど、いいこともあれば悪いこともあります。「認識」の数が上がることはこういう諸刃の剣の側面があります。

人間はそのような大変さと向き合うには「未熟」な存在で、とりあえず一つの「認識」だけで、それぞれの出来事と向き合うのを学んでいる段階です。

また、抱くことができる「感情」が増えると、自分の「成長」も早まります。何故ならば、例えば、二つの「認識」を持った状態で50年を過ごすのであれば、人間の50年の生の二倍の濃さがあるからです。

だから、天使や幽霊になると「成長」は早まります。そして、神々や悪魔になるともっと「成長」は早まります。だからこそ、人間の経験している「光」と「闇」の分岐点は恐ろしく重要な分岐点です。「光」と「闇」のどちらかに強く「成長」してしまうと、引き返すのは困難だからです。

ただ、人間でも同様ですが、「成長」が起こる魂は「成長」する「意志」を持つ魂だけです。そして、複数の「認識」の中で生きることは人間よりも圧倒的に大変ですから、「成長」することも圧倒的に大変になります。例えば、二つの「認識」を持つならば、人間の二倍大変になります。

人間はそのような強い「成長」の「意志」を持たない「未熟」な存在で、一つの「認識」の中で成長する「意志」を強くしている段階です。二人分の自分を「成長」させることなど不可能だからこそ、まずは一人分の自分を「成長」させることを学んでいます。

このような形で、「認識」の数が増えることが如何に大変かが分かってくると、一つの「認識」しか持たない人間が如何に「未熟」かが分かってきます。我々は相当に「未熟」な魂であって、小学校に通っているような段階です。いつも先生が何かを教えてくれるからこそ、我々は小学生に近い存在です。

「愛」を実践しようとするならば、神々や天使が我々に必要な「気」を「持たせる」ことによって、必要な「気持ち」をくれ、「気」を「付ける」ことによって、いい「アイデア」をくれます(気付き・思い付き)。

「欲望」を実践しようとするならば、悪魔や幽霊が我々に必要な「気」を「持たせる」ことによって、必要な「気持ち」をくれ、「気」を「付ける」ことによって、いい「アイデア」をくれます(気付き・思い付き)。

このような意味で、「愛」に生きるのであれば先生は神々や天使になり、「欲望」に生きるのであれば先生は悪魔や幽霊になります。人間が通っている人生という小学校は我々自分自身の「意志」で、どの先生に学ぶかを決められる学校です。独学は不可能で、絶対に先生に教えられます。

つまり、我々人間は、「認識」の数が少ないことによって随分楽な生を生きているだけではなく、常に「気」で何かを教えられている存在だからこそ、楽な生を生きている側面もあります。我々はそういう指導が必要な程に「未熟」だからこそ、このような構造を生きている形になります。そして、このような構造が生まれるのは、我々が物質に宿って生きているからです。

物質に「気」は宿るので、物質に宿って生きるということは、「気」で関与を受けながら生きるということです。そして、「気」で関与されるのであれば、「気持ち」も与えられるし、「気付き」も与えられます。

逆に言うと、物質に宿らない、目に見えない存在になるならば、必要な「気持ち」も「気付き・思い付き」も全部自分で作らないといけなくなります。つまり、太陽を浴びて「元気」になるようなことも無くなれば、いい「アイデア」が自然と心に浮かぶようこともなくなります。そうなると、生きるのは極めて大変になります。

「認識」の数が一つしかないことが如何に楽であるかに加えて、物質に宿って生きることが如何に楽であるのかも知って頂けると幸いです。

とにかく、人間は「未熟」な存在です。逆に言うと、「未熟」だからこそ、人間として生きています。けれども、現代の人間は人間の位置付けを知らないが故に、自分達が如何に「未熟」なのかを自覚していません。そして、「未熟」を自覚しないからこそ「成長」しません。

「未熟」を脱した魂達はとうの昔に人間を卒業し、天使や幽霊として、神々や悪魔として、それぞれの修行を行ないながら今も魂を磨いています。そういう意味では、今生きている我々人間は、出来の悪い小学生達かもしれません。

ただ、このような「闇」の強い時代は、天使だった魂が人間に宿るケースもよくあります。ジョン・レノンも宮崎駿も、こういった優れた魂達はほぼほぼ前世が天使です。生まれる前から優秀だったからこそ、色々な大事なことを見失っている今の地球に人間として生まれても、素晴らしい仕事ができます。

逆に言うと、元々は天使だったのに、人間として生まれたことによって「闇」に堕ちていく魂もよくいます。つまり、堕天使としての人間です。例は出しませんが、圧倒的に優れた、完璧な容姿などを持って生まれているにも関わらず、それを「闇」のために使っている人間などは、堕天使であるケースが多いです。何故このように言えるかというと、圧倒的に優れた容姿は、圧倒的に優れた魂にしか与えられないからです。

人間の中には、動物から人間になりたての人間もいれば、人間の生を何十回も生きている人間もいれば、天使出身の人間もいれば、堕天使化した人間もいれば、幽霊出身の人間もいます。だから、一人一人の人間をどう見つめるのかは、実際はとても難しい問題です。

例えば、人間1回目の人間に大き過ぎる課題を与えるのは酷ですし、天使出身の人間を甘やかすのは間違っています。けれども、誰が人間1回目で、誰が元々天使なのかなんて、我々人間には分かりませんから、一人一人の人間との向き合い方は難しいところです。

ただ、誰がどういう出身なのかは誰でもある程度分かります。動物っぽい人は人間回数が少ない人が多いですし、圧倒的に抜きん出て素晴らしい心の持ち主は天使出身の人が多いです。そして、基本的に、転生回数が多い程「賢さ」は上がっていくので、その相手の「賢さ」から、相手がどういう出身の人間なのかはある程度予想できます。

天使の多くは大事なことを人間に伝えるために生まれています。天使にできなくて、人間にできることは、ダイレクトに自分自身の声を人間に伝えることだからです。彼らはダイレクトに自分の声を人間に届けるために、人間に宿ることを決めて生まれています。もちろん、天使出身のその人自身も自分が天使だったことを忘れていますが、実際は天使が人間の体に宿っているだけです。

我々は天使の声をもっと聞かないといけません。例えば、宮崎駿はアニメーションを通して人間に大事なことを伝えるために人間となった天使であって、今井美樹は歌を通して大事なことを伝えるために人間となった天使です。

宮崎駿は太陽神様と似た天使だったからこそ、今世は太陽神様と「縁」で繋がった人間として生まれ、今井美樹は金星神と似た天使だったからこそ、今世は金星神と「縁」で繋がった人間として生まれています。「縁」は「気」が流れるラインなので、彼らはつながっている神々と二人三脚で生き、何かを表現し続けています。

だから、宮崎駿のアニメーションは太陽神様と宮崎駿天使の人間に対するメッセージであり、今井美樹の歌は金星神と今井美樹天使の人間に対するメッセージです。そういう神々と天使のメッセージを我々はもっと大事にしなければなりません。

この文章は人間の位置付けを理解してもらうための文章ですが、人間と一言で言っても、様々な人間がいることも知って頂けると幸いです。全体像が分かれば、それぞれの人間の位置付けが分かりやすくなるので、こういう全体像理解は役立つと思います。

とにかく、我々人間はたった一つの「認識」で頑張っていればいいだけの存在で、一つの「認識」で全力を尽くして生きることなど、大したことではないです。

そして、どんなに自分が一生懸命生き、ベストを尽くせていても、「一つの認識でこれだけ頑張るのは、天使とか神々だったら当然だろう」くらいに思う中を生きて頂けると、「成長」しやすくなりますし、「優越感」などに堕ちることを防げます。

こういう意味で、全体像を理解することは「謙虚」に繋がり、「謙虚」が「慢心」を防ぎ、「成長」を促します。我々はたかが人間です。一つの「認識」で自分がすべきことを常に頑張ることなど、当然のことだと思って頂けると幸いです。

少なくとも、元天使の人間においてはこういった考え方が基本です。こういうストイックな態度を元天使の人間達が貫ければ、そういう人間達が世で強く活躍し、もっといい世界が実現していきます。

また、元天使であろうと元人間であろうと、実際はそんなことは関係ないです。大事なことは今その魂がどれだけ「光」を抱えているのかであって、過去は関係ないからです。

どんな人であろうと、「自分はたかが一つの認識しかなくて、たかが100年も無い人生を頑張ればいいだけなんだから、全力を尽くして生きて当然だ」くらいに思って生きて頂けると幸いです。

そういう態度が強い「気合い」に繋がり、その「気合い」によって、神々からのたくさんの「気」が「合わさる」ことに繋がり、神々といい二人三脚の中を生きていけます。そうすれば、本当に世のためになることを強く実践していくことができます。