「他者のため(愛)」に生きていれば、自分の健康管理や生き残ることさえも「他者のため(愛)」になります。それに対して、「自分のため(欲望)」に生きていれば、自分の健康管理や生き残ることも「自分のため(欲望)」になります。

生きていなければ我々は何もできません。だから、生きようとする気持ちはまず最初に必要なものです。そして、ほとんどの人は「生きたい」=「死にたくない」と思っています。

ただ、「生きたい」という気持ちには2パターンあることを理解して頂けると幸いです。本当に「他者のため」に生きていれば、自分の命を守ることも「愛」を動機にできるので、とてもいい影響が生まれます。それに対して、本当は「自分のため」に生きていると、自分の命を守ることに対しても「欲望」に堕ちてしまい、そのことでより深く堕ちていってしまいます。

特に、この対立が如実になる場面は、死の危機が目の前にある時です。死が目の前にある時、多くの人は強く「生きたい」と思うのですが、その時に強く「愛」に同調するか、強く「欲望」に同調するかが分かれます。多くの人は死に対して「恐怖」を感じるからこそ、その「恐怖」を乗り越えるために、強い「愛」か「欲望」に同調するからです(この対立軸は映画『ダンケルク』に分かりやすく表現されているので、『ダンケルク』はとても大事です)。『ダンケルク』の解説はこちらに書いています。

http://junashikari.com/christophernolan/dunkirk/

「愛」は「光の気持ち」なので「光の気」を「持つ」ことに繋がるのに対して、「欲望」は「闇の気持ち」なので「闇の気」を「持つ」ことに繋がります。だから、「愛」に同調することによって「他者のために生き残りたい」と思うのであれば、「光の気」が我々の生を支えてくれます。それに対して、「欲望」に同調することによって「自分のために生き残りたい」と思うのであれば、「闇の気」が我々をより一層苦しめていきます。

病気などから奇跡的な回復を遂げる人の多くは「誰かのため」に生き残ろうとしています。それに対して、泥沼な死に方をしていく人の多くは「自分のため」に生き残ろうとしています。その根本的な原因は「気」であることを理解して頂けると幸いです。そして、我々は絶対にいつか死にますから、死との正しい向き合い方は意識化しておいて頂けると幸いです。

死との向き合い方を理解することは生との向き合い方を理解することです。生との向き合い方を理解する上で大事な言葉が、『風立ちぬ』の「生きねば」という言葉、『もののけ姫』の「生きろ」という言葉です。

「他者のため」にすべきことがあるから「生きねば」ならない、という意味が『風立ちぬ』の「生きねば」です。そして、アシタカのサンに対する「生きろ そなたは美しい」という言葉は「愛」の「美」には価値があるからこその「生きろ」です。「愛」の持つ「美」は、それ自体が「愛」を広げるための道具の一つだからこそ、このような言葉が成立します。

ですから、「生きねば」も「生きろ」も、「他者のため」の「生きねば・生きろ」です。自分自身の生と死と向き合う時、「愛」を選ぶのであれば「大事な人達のため」に自分が「生きねば」なりません。そして、他者の生と死と向き合う時、その相手が「愛」を選んでいるのであれば、その人間の望む「愛」の実践のために、「生きろ」と言わなければなりません。これが「愛」を選んだ人間が選択すべき、自分と他者の生と死に対する基本的な向き合い方です。

「生きねば」「生きろ」という言葉にはこれだけの意味があることを『風立ちぬ』『もののけ姫』の内容と共に理解して頂けると幸いです。映画のおかげで、この言葉の重みを我々は理解することができます。そして、「生きねば」「生きろ」という二つの言葉と共に生きて頂けると幸いです。