このようなタイトルで文章を書くのは成功本のようで、胡散臭く感じられてしまいそうで嫌なのですが、止むを得ずこのタイトルになっています。ここでは成功の構造について書いていきます。成功するための方法を書いているわけではなくて、成功の構造説明を書いている形になります。

世の中で成功する人は二種類しかいません。それは神々と手を結ぶ人もしくは悪魔と手を結ぶ人です。神々とも悪魔とも手を結ばずに成功することは絶対に不可能です。何故ならば、人間という存在はかなり神々と悪魔の「気」の影響を受けながら生き、神々と悪魔の影響を受けずに生きていくことが絶対に不可能だからです。

どうしてそのように言えるかというと、我々は身体という物質に宿っていますが、物質というものは「気」を宿さないようには絶対にできないからです。逆に言うと、我々は自分に「気」を宿すことをできるようにするために魂が身体に宿っています。
 

いつも書いていますが、前提知識なので書かせて下さい。「気」が「感情」と「思考」の原因です。何故ならば、「気持ち」「気分」という言葉が示しているように、我々は「気」を「持つ」、「気」を「分つ」ことによって、「気持ち・気分」を持っているからです。そして、「気付き」という言葉が示すように、我々に「アイデア」が浮かぶのは我々に神々や悪魔からの「気」が「付く」からです。「気」には「情報」=「アイデア」を乗せられるからこそ、神々や悪魔の「情報」=「アイデア」の乗った「気」を受け取ると、我々の心にふいに様々な「アイデア=発想」「インスピレーション」が浮かんできます。そして、「思考」とは「発想」の連続なので、神々も悪魔も「気」を送ることでかなり人間の「思考」に関与しています。言葉の成立の時はその言葉の構造に当時の人々の意図がありますが、昔の人は「気」のことをよく分かっていたからこそ、「気分・気持ち」「気付き」という言葉を創っています。

そして、神々と悪魔はそれぞれの動機によって人間に「気」で関与し、人間の「感情」と「思考」に関与しています。そして、神々も悪魔もそれぞれの動機を実現する上で役立ちそうな人間を成功させます。神々は人間を道具のようには扱わないので、「役立つ」という表現は不適切ですが、悪魔は人間を道具のように扱うので、「役立つ」という表現は適切です。
 

神々は「光」=「愛」の立場であって、「誰かのため」に生きている存在です。だから、神々の動機は人間が「光」を学び、皆が「幸せ」になることです。そして、人間が「光」=「愛」を実践することで地球全体に生きる全ての命がいい形で生きていくことを願っています。

だからこそ、神々は「相手のため」に生きている人間を強く支えようとします。何故ならば、そういった人間が活躍をするのであれば、多くの人がその人に助けられることに繋がり、皆が「光」=「愛」の価値を感じ「幸せ」になっていけるからです。そして、悪魔はこういった神々の人間に対する関与を邪魔します。何故ならば、こういった人間に「光」を実践されると、人間に「光」=「愛」の価値を知られてしまい、「闇」=「欲望」を実践しなくなるからです。

例えば、神々と共に歌を歌い、成功した歌手の一人にジョン・レノンがいますが、彼は歌によって人々の心に「光」=「愛」を教え、人々の「光」を支えてきました。しかし、悪魔にコントロールされた人間によって殺されている形になります。殺されてしまってはもう何もできなくなるので、悪魔はよくジョン・レノンのような強い「光」を実践する人を殺します。
 

悪魔は「闇」=「欲望」の立場であって、「自分のため」に生きている存在です。だから、悪魔の動機はその悪魔自身が「快楽」を感じることです。悪魔は様々な形で自分が「快楽」を感じることを目指しますが、その1つの方法が神々に勝つことです。何故ならば、勝負に勝つことは魂に強い「快楽」を与えるからです。

そして、悪魔は「自分のため」に生きている人間を強く操ろうとします。何故ならば、そういった人間が活躍をするのであれば、そういった人間から搾取される人間は苦しい経験をさせられ、「嫌悪」や「絶望」といった「闇」に陥れることができるからです。そして、神々はこういった悪魔の人間に対する関与を邪魔します。何故ならば、こういった人間に「闇」を実践されると、多くの人が「闇」に堕ちてしまい、「光」を失い、「幸せ」になれなくなるからです。

例えば、悪魔と共に歌を歌っているロックミュージシャンは人々に「闇」の「かっこよさ」を教えることによって、「闇」を好きにさせている立場になります。しかし、そういったロックミュージシャンも子供を持ったり、最愛の女性と出会うことによって、丸くなっていくことがあります。子供を母親の身体に宿すのは神々であって、神々としてはそのロックミュージシャンに「光」の価値を教えることで「闇」を実践させないようにするために、ものすごく「愛」の強い心を持った魂をそのロックミュージシャンの子供の身体に宿したりします。こういったことは多くの人にとって「攻撃」には見えづらいのですが、悪魔からすると、間違いなく神々からの攻撃です。


神々も悪魔もそれぞれの動機と合致する人間を成功させるように全力で「気」で関与します。例えば、歌手の場合は、神々も悪魔もその楽曲制作に強く関与し、その人間と共に歌を歌い、より素晴らしい作品を創ろうとします。神々や悪魔が楽曲制作に強く関わっていることは今までに何度も触れてきました。

そして、その歌手がヒットするかどうかは多くの人がその歌手をいいと思うかどうかに依ります。どんなにいい曲を作っても、人々がいいと思わなければヒットは生まれません。神々も悪魔も「気」で関与することで、何かをいいと感じさせることはできるので、神々か悪魔がヒットさせたい歌手がより多くの人の共感を得ることになります。

また、その歌手の歌がどれだけ多くの人に一度でも聴かれるのかということがヒットをする上で重要な要素ですが、CMやドラマとのタイアップの話などを神々と悪魔は関係者に徹底的に「気」で関与することで奪い合っている形になります。

そういったことの結果として、ヒットという成功が生まれます。このような成功の形は歌手に限らず、ありとあらゆるジャンルにおいて同様であって、成功の背景には絶対に神々または悪魔の関与があります。どんなジャンルであろうと、何かを新しく作る上で必ず必要なのが「アイデア」ですが、我々に「アイデア」をもたらしているのは神々や悪魔であって、どんなジャンルであろうと、人々の評価が無ければ成功には繋がりませんが、人々の「好き嫌い」にいつも関与しているのが神々と悪魔だからです。

この世界は大きなチェスであって、我々は自分の「意志」で動くことができるチェスの駒だと思って頂ければ、と思います。地球なので、平面のチェスではなく球体のチェスです。神々と悪魔は我々の心に「気」で関与することで、様々な「気持ち」を起こしたり、様々な「アイデア」を与えています。そういった「気持ち」や「アイデア」のどれを選び、自分がどのように動くのかを決めているのは、我々人間の「意志」です。

このチェスはチェスの駒自体に「意志」がある点が普通のチェスとは全く異なります。だからこそ、我々は神々や悪魔の単純な駒ではありません。そして、「自分のため」に生きる人間は悪魔側のチェスの駒になり、「誰かのため」に生きる人間は神々側のチェスの駒になります。

我々は自分の「意志」で神々と悪魔のどちら側の味方になるか、自分の「意志」でどのように動くのかを決められるとは言っても、神々と悪魔の人間に対する「気」の関与は我々の「意志」に強い影響を与えることができることも事実です。例えば、どんなに「愛」が強く「誰かのため」に生きたいと思っている人であっても、その人の母親が事故で死んでしまえば「絶望」に堕ちてしまい、何もできなくなってしまいます。悪魔はそういう人間に「光」を実践させないために、その人にとって大事な人を殺すということをよく行ないます。それは安室奈美恵や宇多田ヒカルのお母さんの死についても、吉田美和の旦那さんの死についても言えることです。彼らは神々と「光」を実践している立場だからこそ、悪魔は彼らを襲います。

悪魔はその人にとって大事な人を狙うだけではなく、いつも「光」を実践する人に病気を引き起こすことを狙っています。「病気」とは「病の気」と書きますが、「病の気」とは「闇の気」のことであって、悪魔が司っている「気」です。病気は悪魔が引き起こすものだからこそ、「病気」という言葉があります。例えば、中島美嘉にしても持田香織にしても、彼らが神々と共に働く重要な歌手だからこそ、悪魔は彼らに歌を歌いづらくするための病気を引き起こしています。そのことによって「絶望」といった「闇」に彼女達を陥れるためです。

成功するならば、神々と悪魔のその人間に対する関与はかなり強くなります。そして、最悪な経験も多く経験します。だからこそ、「弱さ」を持った魂だとすぐにダメになってしまいます。そういう理由によって、神々は「強さ」が全くない魂を成功させることは少ないですし、間違いなく言えることは、世の中で成功している人達とは神々か悪魔に魂の能力を評価された魂だということです。

そして、神々は「愛」に満ちた魂なので、神々と手を結んでも神々から苦しめられることは基本的にあり得ません。それに対して、悪魔は「欲望」に満ちた魂なので、悪魔と手を結ぶのであれば、その悪魔にとって不必要になればすぐに捨てられます。その人間が生きていることがその悪魔にとって都合が悪ければ、悪魔は簡単にその人間を殺します。例えば、芥川龍之介は悪魔と共に働いていた作家ですが、その悪魔にとって都合が悪くなったが故に殺されています。映画『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒース・レジャーも悪魔と共に働き、その悪魔にとって都合が悪くなったが故に殺されています。

悪魔は我々の心に関与ができるので、自殺をしたい気分になったり、運転中にミスをさせることで殺すことはできます。特に、悪魔と共に働き続けた人とは、身体がその悪魔の「闇の気」だらけになっているので、悪魔は簡単に自殺や事故をその人間に起こすことができます。他人から見ると、自殺や事故であっても、実際は悪魔に殺されている形になります。

ですから、間違いなく言えることは、「光」=「誰かのため」を選ぶにしても、「闇」=「自分のため」を選ぶにしても、悪魔と手を結ぶことはしない方がいいということです。今の人間は簡単に悪魔と手を結びますし、悪魔はそのことにさえ気付かせないようにしています。逆に言うと、「自分のため」に生きていて「成功」を目指すのであれば、ほとんどの場合悪魔と手を結ぶことになります。

多くの成功のための本とは悪魔が人間に書かせた、悪魔と共に働くための方法本です。悪魔としては、その悪魔にとって都合のいい人間を増やすために様々なことを人間に書かせています。そして、その本の通りに物事を進めるのであれば、うまくいくようにも悪魔は人間に関与します。そのことを通して、そういった本の内容を信じ込ませ、その悪魔の意図通りに動かしやすい人間を作るための本です。

そして、そういった形で悪魔と共に働き続けるのであれば、その悪魔からの「闇の気」を大量に抱えることになります。我々人間は「光の気持ち」を抱くのであれば、神々からの「光の気」を受け取り、「闇の気持ち」を抱くのであれば、悪魔からの「闇の気」を受け取ります。だからこそ、悪魔はその人間に「闇の気」を入れるために「闇の気持ち」を抱かせようとし、そのためにいい思い(欲望)をさせたり、ものすごく最悪な思い(絶望)をさせていくからです。

そのようにして身体が「闇の気」だらけになっていくと、「感情」と「思考」をかなり悪魔に「支配」され、その悪魔の奴隷となっていきます。つまり、「成功」という餌を悪魔は人間に渡しながら、その人間の魂を悪魔は奪います。我々人間は自分の「意志」で動くことができる駒とは言っても、身体が「闇の気」だらけになると「感情」と「思考」を完璧に悪魔に握られてしまいます。そして、その悪魔にとって都合のいい「意志」の選択をその人間にさせるために、「感情」と「思考」を完璧に操作されてしまいます。この状態に達すると、その人間はの「意志」はほとんど無くなってしまいます。

悪魔はいつも「自分のため」に動いているので、自分が何かを得るために我々人間に何かを渡します。悪魔が何も我々人間から奪わずに我々に何かを与えることはあり得ません。我々が得るものが「成功」や「欲望」の実現からもたらされる「快楽」であって、その代償に人間が悪魔に渡さなければならないものは我々の魂そのものです。この「ギブアンドテイク」は絶対に割に合わないからこそ、悪魔は「気」のことを人間に忘れさせるために全力で動いてきた形になります。

神々は人間を奴隷にすることはあり得ません。何故ならば、神々は「愛」の立場であって、「愛」の立場の魂は絶対に相手を「支配」したいと思わず、「自由」にしたいと思うからです。
 

今は地球全体で考えて、悪魔が優勢の時代です。だからこそ、悪魔が流行らせたいものばかりが流行りやすい傾向があります。多くの人が「闇」を選ぶ=「自分のため」に生きているからこそ、多くの人が「闇の気持ち」を日常的に抱き、その結果悪魔からの「闇の気」を身体に受け入れながら、抱えながら生きています。だからこそ、多くの人が「感情」と「思考」をかなり悪魔に「コントロール」されている現状があります。そういった状況だからこそ、悪魔が流行らせたいものに対して、悪魔が多くの人間に「これはいい」と思わせやすい時代です。こういったことによって、悪魔が流行らせたいものばかりが流行っていきます。

神々からすると、彼らが流行らせたいものが流行りにくい状況です。何故ならば、「光の気」と共に生きている人が少なく、神々が流行らせたいものに対して、多くの人に「これはいい」と思うことを導くことが難しいからです。だからこそ、神々と共に歌を歌う素晴らしい歌手であっても人気がないことは多くあります。

ただ、このような状況のまま時代が進んでいけば、どんどん人間の「闇」は深くなり、皆が奪い合い、「幸せ」を感じながら生きていく人はどんどん減っていきます。そして、そのことによって神々や天使も強く嘆いていきます。

我々は死んでも生まれ変わります。生まれ変わった後の地球が今よりももっと悪い場所であったなら、結局最悪な経験をするのは自分自身です。我々人間はどんなに今世でいい思いをしても、今世なんてものは100年もありません。だから、目先のことだけを考えていると損をするのは自分自身です。「自分のため」に生きていても、今の地球で「闇」を実践するのであれば、自分で自分の首を絞めることに繋がります。

だから「光」を実践してほしいというわけではなく、誰もが苦しんでいる社会なのですから、そういった苦しんでいる「誰かのため」にそれぞれの人間にできる「光」を実践してほしく思っています。「闇」の強い時代なので、「光」を実践していると、いくらでも「闇」に堕ちるタイミングを悪魔は作ってきます。ただ、そういったタイミングで「闇」に負けず「光」を選んでいけば、魂の「光」はその度に強くなっていきます。

我々は魂の「光」を強くするために「闇」と闘わなければならない人間という立場で生きています。そういった「闇」という障害物を作るために悪魔という存在はこの世界にいます。だからこそ、そういった心の闘いに負けずに勝っていくことは何よりも意義のあることです。そして、そういった風に多くの人が生きていけば、皆が「幸せ」になっていくことができます。

神々としては、そういった「光」の人を「成功」させたいと思っています。そして、本当に「愛」で動くのであれば、神々が我々の「感情」と「思考」を「光の気」で支えることができます。何故ならば、「光の気持ち」を抱くのであれば「光の気」を我々は受け取ることができるからです。神々は「愛」で動く人を支えたいと思っていて、彼らが我々にできることは「光の気」で我々の心を守り、導くことです。だからこそ、神々は我々に「光の気」を与えたいと思っていて、それを受け取るために必要なことは我々人間が「光の気持ち」を抱くことです。だからこそ、どの気持ちが「光の気持ち」であって、どの気持ちが「闇の気持ち」であるのかを知っておくことがとても大事になります。ここに書いています。

http://junashikari.com/emotion/感情一覧(光・闇・中立)/

人間として生きている状態において最重要なことは「気持ち」です。「愛」といった「光の気持ち」を抱くのであれば、神々が「光の気」で我々に「導き」を行い、「欲望」といった「闇の気持ち」を抱くのであれば、悪魔が「闇の気」で我々に「コントロール」を行ないます。その度に、我々はチェスの白側(神々)と黒側(悪魔)を行き来しています。このチェスは一瞬の我々の判断で神々の方にも悪魔の方にも味方をすることができるものです。

そして、神々側にしても悪魔側にしても「成功」をするのであれば、より力のある駒になります。チェスで言うならば、ナイトやビショップやクイーンやキング、将棋で言うのであれば、角や飛車や銀将や金将や王将になります。その度に影響力のある動きを行なうことができるようになります。

本当に強い「気持ち」があれば、我々人間は誰しも能力を伸ばしていけます。本当に「愛」が強い人は、その「愛」のためにどんな試練でも勝っていくことができ、その試練の度に能力を伸ばしていくことができるからです。また、「光の気持ち」を持っている限り、我々人間の「感情」や「思考」に神々は「導き」を行なうことができるので、いい発想がよく浮かんでくるようになります。

「光」を実践する人間にとっては神々はアドバイザーであって、スポーツで例えると、我々人間が選手だとすると神々は監督です。我々は「光の気持ち」を抱いている限り、いつも神々に守られます。「光の気持ち」を抱いている限り、我々人間はいつも神々と共に生きていることは忘れないで頂けると幸いです。

「闇」を実践する人間にとっては悪魔がアドバイザーであって、悪魔は選手の「意志」を全く尊重しない性格の悪い監督のような存在です。我々が「闇の気持ち」を抱いている限り、いつも悪魔に操作されます。「闇の気持ち」を抱いている限り、我々人間はいつも悪魔にコントロールされてしまうことになります。

本当に強い「愛」を持った人はできるだけ多くの人を「幸せ」にするために大きな活躍をしようとし、「誰かのため」に「成功」を目指します。そして、そういった「光の成功」は神々が徹底的に支えます。

本当に強い「欲望」を持った人はできるだけ自分の「快楽」のために周りを犠牲にしようとし、「自分のため」に「成功」を目指します。そして、そういった「闇の成功」は悪魔が徹底的に支えます。

「闇の成功」ではなく、「光の成功」を目指して頂ければ、と思います。「光の成功」を行なう上で重要なことは、「成功」のための「成功」は決して目指さず、多くの人を「幸せ」にするために「成功」を使うというスタンスになります。「闇」の立場の人間が「成功」自体に憧れるスタンスとは全く異なります。「闇」の立場の人間が目指すのは「自分のため」の社会からの評価であって、だからこそ彼らは「成功」を目指します。それに対して、「光」の立場はより強い「光」を実践するために「成功」を使うだけです。

ここでは、神々と悪魔の人間を通した闘いについて、「成功」の観点から書きましたが、神々と悪魔の人間を通した闘いの話はまだまだ説明ができていない点が多くあります。そういったことについては、また別で書いていきたいと思います。