ここでは「ルール」というものの意味を書きます。日本はとても「ルール」の多い国です。だからこそ、「ルール」の持つ意味について理解しておかなければなりません。そうでなければ、「ルール」の持つ罠にはまってしまうからです。

日本人を最も支配している「ルール」は「法律」です。「法律」とは、国が定めた「ルール」です。また、様々な職場の中でもその「職場のルール」というものはあり、それぞれの家庭にも、「家庭のルール」とはあると思います。また、コンビニで物を買う時にも、そのコンビニがフロアに矢印などを書いており、順番待ちの列の「コンビニのルール」を作っています。これらは全て「ルール」です。ですから、我々の日常は「ルール」に接する機会に満ちています。

「ルール」は基本的に全体が円滑に回るために作られるものです。つまり、基本的に、何らかの「利便性」のために「ルール」は生まれます。しかし、「ルール」があると失うものがあります。それが魂の「意志」です。なぜならば、そこに「ルール」があると我々はその「ルール」に従わないといけなくなり、「自由」を奪われ、「自由」を奪われると、我々は「意志」を失うからです。また、「意志」が奪われると我々は考えなくなります。考えなくなると、我々は「賢さ」を失っていきます。さらに、「自由」を奪われると、我々は肩身が狭く感じ、「嫌悪感」といった「闇の感情」を抱きやすくなります。

このように、「ルール」は「利便性」と引き換えに、我々の魂の「意志」や「賢さ」などを奪い、魂を「闇」に落としていきます。しかし、この「ルール」の「代償」を人間はあまり理解していません。そして、実際はこの「代償」によって我々はかなり苦しんでいます。だからこそ、この文章を通して、「ルール」によって生まれる「代償」について理解を深めてほしく思っています。

以下、「ルール」によって生まれる「代償」について書いていきます。

 

[「愛」の実践の機会を失う]

例えば、先程のコンビニの例で考えると、基本的にコンビニには順番待ちのためのラインが床に書かれています。これは1つの「ルール」です。一見この順番待ちの「ルール」はとてもいい「ルール」のように思えます。しかし、実際は我々は他者に前を譲るといった「思いやり」の実践の場面を1つ奪われています。コンビニで何かを買う時に急いでいる人もそうでない人もいます。時間に余裕のある人は時間の無い人に前を譲ることが当たり前に行なわれていても本当は良かったはずです。しかし、我々はそういった「思いやり」の実践の「選択肢」を1つ奪われています。そして、「思いやり」が実践できなくなると魂は「優しさ」を失っていきます。使わない感情は魂から失われていくからです。

このように、「ルール」があるからこそ、「愛」の実践の機会を魂が失っていくということは本当にいつも起きています。「愛」の実践の前提となるのは、魂の「自由」であって、「ルール」は魂の「自由」を奪うために、人間から「愛」の実践の機会を奪っていきます。「愛」とはその魂自身が「本当にそうしたい」と思う場合にしか実践できず、「本当にそうしたい」という「意志」は「自由」がないと実現しないからです。逆から考えると分かりやすいかもしれませんが、他者の「命令(支配)」に従うことによって「愛」を実践することは不可能です。なぜならば、それはその魂の「意志」ではないからです。どんな善行であっても、ただ他者の「命令(支配)」に従ってそれを行なうのであれば、それは「愛」の実践ではなく、ただ「命令(支配)」に従っただけです。

このように、「ルール」によって「自由」「意志」を奪われると、我々の魂は「愛」の方向に寄ることを封じられます。単純に「意志」を奪われるだけではなく、その「意志」が奪われることによって、魂の「愛」が奪われていく。そういった構造を理解して頂けると幸いです。

自由⇔不自由
意志⇔支配(命令)
光⇔闇

といった形で対応しているからこそ、「ルール」は我々の「意志」を奪い、「愛」を奪っていきます。

 

[「賢さ」を失う]

また「ルール」があると、人間は何も考えずにただその「ルール」に従うことになります。なぜならば、「ルール」があると、そこに反することができなくなるために、その「ルール」に反することを考えても無駄になってしまうからです。このことが、「思考」の機会を1つ奪い、「賢さ」の実践の機会を1つ奪っていきます。「賢さ」も「愛」と同様、使わなければ魂から失われていきます。

先程のコンビニの例で考えると、もし順番待ちの「ルール」がなければ、コンビニで物を買う時に一体誰からレジで会計を済ませるべきかということを人は考えるようになります。混雑時は誰かが声を発して自分達の「意志」で列を作り、混雑していない時は列を作らないというような「柔軟性」も出てくると思います。「ルール」はこういった「柔軟性」を奪います。順番待ちの「ルール」が無い場合、そこには会話が生まれますから、魂はより動き、より「賢さ」も「愛」も実践する機会が増えます。

 

[「会話」を失う]

本当に日本人は知らない人と話しません。「これだけ人がいるのに寂しさを感じる」とよく言いますが、その1つの原因が話さなくても物事が進むような様々な「ルール」があるからです。もし「ルール」が無ければ、もっと人は話します。そして、「愛」とは他者がいないと発生しない感情であり、だからこそ、話しているとより「愛」を実践しやすくなります。また、話していると「賢さ」も使いやすくなります。だから、「ルール」によって「会話」の機会が奪われ、そのことによって「愛」や「賢さ」が奪われているという観点も持って頂ければ、と思います。

 

[「闇」が強まる]

また、「ルール」があると我々は「嫌悪」の感情を感じやすくなります。なぜならば、魂の「自由」を奪われることは魂にとって本質的に「不愉快(嫌悪)」なことであるからです。これは「支配」の構造とも言えます。何かに「支配」されることは、魂にとって本質的に「不愉快」です。なぜならば、従うという行為が「不愉快」だからです。我々は自分の「意志」でないことをする時に「不愉快」だと思い、自分の「意志」であることをする時は「不愉快」だと感じません。

「ルール」があると、その「ルール」に絶対的に従わないといけなくなります。だからこそ、「ルール」は我々に「不愉快」な気持ちを抱かせます。そして、そういった「闇の感情」を抱き続けると魂が「闇」に堕ちていきます。多く使う感情は魂により刻まれていくからです。だからこそ、「ルール」が多ければ多い程、魂は「闇」に堕ちていきます。

また、「ルール」というものがきっかけで強い闇の感情を経験することもあります。先程のコンビニの例で話すと、ある人がフロアに書かれている順番待ちの矢印に気が付かずに勝手に自分で別のところに並んでいたとします。そして、自分の順番が来たと思ってレジに行くと、店員さんが「あちらにもう一度並んでもらえませんか?」と言うとします。実際、こういう光景はコンビニでよく見ます。

このお客は「ルール」に気付かずに、意図せず「ルール」違反をしていたことになります。このお客としては待っていたのだから、別にレジを打ってくれたっていいじゃないか、と思うような場面です。それに対して、この店員さんは「ルール」の奴隷なので、そういった意見を認めません。こういうことがきっかけで口論になることもあると思います。

お客が「こっちに並んでたからいいじゃないですか」と言うのに対して、店員は「これがうちのお店のルールなので」と言って譲りません。

「ルール」は絶対的な「支配」を作り、「柔軟性」を奪うために、このようなすれ違いが起こる時、「支配」される側に強い「嫌悪」の感情を与えます。

 

[「会話」を成立させなくする]

このコンビニでのお客と店員のやり取りは会話として成立していません。そこに「ルール」がある場合、その「ルール」の支配者にどんな「気持ち」や「考え」を伝えたところで、「これがうちのルールなので」と支配者に言われてしまえば、何も言えなくなってしまいます。このように、「ルール」は我々の「会話」を成立させなくします。

魂と魂のやり取りに「ルール」が介入するだけで、コミュニケーションを成立させなくします。他者とのコミュニケーションとは、お互いの「気持ち」や「考え」を伝え合うことです。そして、そこに問題がある時、「気持ち」や「考え」を共有することで、問題解決を目指すのがコミュニケーションです。「ルール」はそういったことをできないようにしますから、それは魂と魂のやり取りにおいて、とても不自然な状態です。不自然であるからこそ、「ルール」に「支配」される側の魂は強い「嫌悪」の感情を抱きます。

 

[日本人は「ルール」の「意味」を考えない]

日本人は「ルール」の「意味」を本当によく考えません。この点は非常に重要なので、書いておきたいと思います。

多くの外国人が日本に来てまず疑問に思うのが、「何故これほどまでに『信号』に従っているのか」という点です。多くの日本人はどんなに車が来てなくても、信号が赤である限り横断歩道を渡ろうとしません。これは外国人からすると、かなり不自然に見えます。「車が来てないなら、渡ってしまえばいいではないか」と外国人は思うからです。しかし、日本人は「信号は絶対に従うものだから」と言って、信号無視をしません。

「信号」も1つの「ルール」です。そして、どうして「信号」という「ルール」があるかというと、車と歩行者の両方がいる時に事故を防ぐためです。ですから、歩行者だけがいて、車がいなければ「信号」は無視していいはずです。しかし、どんなに車がいなくても多くの日本人は「信号」を無視しません。何故ならば、日本人は「ルール」の「意味」を考えず、盲目的に「ルール」に従順だからです。だからこそ、日本人は「ルール」の「奴隷」とも言えます。これは日本人の本当に悪しき傾向です。

当然ですが、国や会社や家庭や様々な場所で定められる「ルール」が全て正しいわけではありません。ですから、間違った「ルール」に対しては、異議を唱えていかなければなりません。しかし、「ルール」の意味を考えない限り、異議を唱えることができません。それは今新しく生まれている国の法律などに対しても同じです。特に、一度成立した法律は変えづらいのですから、何か「ルール」が生まれる前にその「ルール」の「意味」を我々は考えて、それが間違っている場合は異議を唱えていかなければなりません。それは「法律」だけではなくて、会社の「ルール」や家庭の「ルール」も同様です。

 

また、時として「ルール」を破ることが正しいこともあります。しかし、その「ルール」の「意味」を理解していない限り、その「ルール」を破るべきか破らないべきかの正しい判断もできません。何故ならば、「ルール」の「意味」を理解していない限り、「ルールを破ってでもすべきだと思っていること」と「ルールを破ることによって生まれる弊害」の二つを天秤に乗せて考えられないからです。

 

また、「ルール」の「意味」を考えない限り、余計に「ルール」に対して「不愉快」な気持ちを抱くことになります。コンビニの例で話すと、自分の「意志」で列に並んでいるのだったら「不愉快」ではありません。しかし、「ルール」によってしょうがなく並んでいるのだったら、「不愉快」です。このように「ルール」に従うことをどのような気持ちでやるかによっても、我々の「気分」とは変わってきます。

 

自分の「意志」で「ルール」に従っている人とは、どういう人を意味するかというと、その「ルール」の「意味」を考えた上で、その「ルール」の「意味」に「同意」をしている人のことです。その場合は、ただ単純に「ルール」に従っているのではなくて、その「ルール」と意見が合っていることになります。この「同意」というプロセスは魂の「意志」です。「同意」した上で、その「ルール」に従っている場合は、「ルール」に「支配」されているわけではなく、自分の「意志」なので、「不愉快」ではありません。コンビニの例で言うと「皆が平等になるように、ちゃんと列を作って、その列に並んでおかないと」と思っているような人です。

それに対して、「ルール」の「意味」を考えずにただその「ルール」に従っている場合は「不愉快」です。なぜならば、その魂の「意志」ではなく「支配」されている感覚を抱くからです。コンビニの例で言うと、「ああ、面倒だけど並ばないとなー」とか「なんでいちいち並ばねえといけねーんだよ」と思っているような人です。こういう人は「ルール」の「意味」と「同意」していないからこそ、「不愉快」に感じます。闇に満ちた魂とはこのように思いますから、コンビニで並ぶ度に魂の闇を強めていきます。それぞれを具体的に書くと、

ここで「ああ、面倒だけど並ばないとなー」と思う人とは、「順番待ちしなければ皆が平等にならない」という、順番待ちの「ルール」に「同意」をしていない人です。「『意味』は分かるけど、『同意』はしない」という考えが「義務」という考え方を生み、そういった「義務感」が「嫌悪」の感情を抱かせます。そういったことが「ああ、面倒だけど並ばないとなー」という言葉に表れています。魂が闇に満ちていくと、自分勝手になっていきますから、「ルール」の「意味」に「同意」できなくなり、「ルール」に対して、より「嫌悪」を抱きやすくなります。

ここで「なんでいちいち並ばねえといけねーんだよ」と思う人とは、そもそも「意味」を考えていない人です。その「ルール」の「意味」を考えない限り、その「意味」に「同意」するかどうかも考えられず、ただ「ルール」に「支配」されるだけとなります。そうなると、「嫌悪」の感情が生まれ、そういった気持ちが「なんでいちいち並ばねえといけねーんだよ」という言葉に表れています。

 

このように、コンビニに並ぶという我々が日常的に行なっていることだけでも、それをどのように行なうかによって、魂がどのように感じるのかが変わってきます。我々人間は他人の心は見えません。同じようにコンビニのレジに並んでいる人であっても、それぞれの人は異なる感情を抱いています。

そして、コンビニで列に並ぶということは、多くの人にとって日常的によく行なう事です。ですから、毎日経験している感情として、魂に強く刻まれていきます。だからこそ、並んでいる時にどう思うかということが、その人の魂を変化させていきます。つまり、性格を少し変えます。

 

我々日本人は「ルール」の「意味」をあまり考えません。だから、実際は何らかの「ルール」に従っている時、「闇の感情」を抱きがちです。なぜならば、その「ルール」に従うことが自分の「意志」ではないからです。そして、この国は様々な「ルール」だらけです。我々は「ルール」の「意味」を考えず、「ルール」だらけの世界を生きているのだから、相当に「闇の感情」を経験し続けている中を生きています。そして、使う感情は魂に強く刻まれていきますから、魂はより「闇」に堕ちていきます。魂が「闇」に堕ちていくと、「ルール」はより一層「不愉快」なものに感じます。そういった連鎖の中で、我々日本人は「ルール」によって「闇」に堕ちていっています。もちろん、日本人の魂が「闇」に堕ちていっている理由の全てが「ルール」であるわけではありません。しかし、「ルール」は1つの大きな原因です。

 

[「ルール」の「意味」を考える時に重要なこと]

ある「ルール」の「意味」を考える上で、それ以前に知らなければならないことは、このページに書いているような「ルール」というもの自体が持つ「意味」を理解する事です。「ルール」があると魂の「不自由」がもたらされ、その「不自由」が我々の魂の「意志」を奪い、そのことによって「愛」を奪われ、魂が「闇」に堕ちていくこと。「ルール」があると「思考」の機会を1つ奪われるために「賢さ」の実践の機会を奪われ、「馬鹿」になっていくこと。「ルール」があると「支配」の構造が生まれるために、支配される側はより「嫌悪」といった「闇の感情」を抱きやすくなること。そういったことを踏まえて、「ルール」と向き合うべきです。

「ルール」は、全体が円滑に回るという「利便性」と引き換えに、我々の魂の大事なもの(「意志」と「賢さ」)を奪い、「闇」に落としてきます。ですから、何か「ルール」について考える時は、「利便性」とその「利便性」によって失われる魂の「代償(「意志」と「賢さ」を奪い、「闇」を増やすこと)」のバランスをいつも考えなければなりません。

当然今の人間全体が「ルール」についてこのような見方をしているわけではなく、このように「ルール」を見ている人は非常に稀です。しかし、どう考えても「ルール」というものがこのような性質を持つものであることは確かであって、「ルール」は我々の日常にいつも関与してくるのですから、1つ1つのルールをこのように人間は見つめていくべきです。