本当の「教育」とはその魂の「意志」を尊重し、その魂が成長することを助ける営みです。魂の成長はその魂がその魂の「意志」で何かを「選択」していくことによって生まれます。そういった「選択」を促すために、「教育」を行なう者は様々な物事の「意味」を教え、その魂が「選択」をしやすい状況を整えることを行なうべきです。これが本来の「教育」です。

しかし、今の日本人はこのような「教育」はしておらず、徹底的な「支配」をしてしまっています。「ああしなさい!」「こうしなさい!」と言って、相手に自分の言うことを聞かせていきます。これは「教育」ではなく、「支配」です。以下、その「支配」の方法について、親子の「教育」を例に書きます。


[「恐怖」による「支配」について]

「支配」を促す最も悪しき例が「体罰」です。子供に「体罰」を与えることは、「拷問」と同じ意味を持っています。「拷問」とは相手に「恐怖」を抱かせ、その「恐怖」によって相手の魂を「支配」する行為です。子供にとって「体罰」とは「拷問」と同じで、親に対する「恐怖」を抱き、その「恐怖」が故に自分の「意志」をねじ曲げるということを子供は行ないます。そして親は子供を強く「支配」することになります。そういう親は子供が自分の言うことを聞くようになったから、「教育」ができたと思ってしまいます。

これは「教育」としては間違っています。何故ならば、親が子供を「支配」することが「教育」ではないからです。もし「体罰」によって子供が変わったとしても、その子は親に対する「恐怖」が故に「意志」をねじ曲げただけです。これは魂が変わる(成長する)プロセスとしては間違っています。「何かが怖いから、それはしない」というのは、その魂の「意志」なのではなくて、単純に「支配」されているが故に取らざるを得なかった「選択肢」に過ぎません。そして、それしか選べないのですから、これはもはや魂の「選択」ではありません。親の「支配」です。

そういう「支配」を受ける時、子供は魂の「自由」を失っています。親は子供を「支配」できる立場であるからこそ、様々な「支配」を通して、子供の「自由」を奪っていきます。「自由」が失われるとは「選択肢」を失うということです。「選択肢」が失われると「選択」できるものが減ってしまうので、子供の魂の「意志」は奪われていきます。

本当の「教育」とは、その子供自身の「意志」を尊重して、その子供の「意志」を成長させることです。例えば、何か子供が間違ったことをした時は「その間違ったことをすべきではない」と思うようにすることです。そのために、何故それをしてはならないのかということを親は言葉などで伝える必要があります。

魂にとって重要なのは「意志」です。「体罰」などを使ってその魂を「支配」することは、「教育」とは正反対の方向性にあります。しかし、人間は「教育」というものを理解していないが故に、親は子供を「支配」するような、間違った「教育」をしてしまっています。その最も悪しき例が「体罰」です。実際、子供にとって「体罰」は「拷問」と変わりません。そして、その時に経験した「恐怖」は永きに渡って「トラウマ」として刻まれ、その「トラウマ」がその魂をずっと「支配」します。

 

[「アイデア」による「支配」]

子供は親が言うことに対して理由無しに何でも「鵜呑み」にするべきではありません。親が言うことに対して、「どうして?」といつも問い続け、自分が「納得」することは受け入れていくべきですし、「納得」しないことは受け入れないべきです。

親としては、子供が「納得」するように説明を続ける必要があります。理由無しに子供に「鵜呑み」させるのは、それは子供を「支配」していること同じです。この場合の「支配」は「アイデア」の植え込みであって、そういった「アイデア」も「トラウマ」同様、その人間を永きに渡って「支配」することになります。

「皆がこうだから、あなたもこうしなさい」といった「教育」は今の日本において非常に多いですが、こういった「教育」は魂の「意志」を奪っていきます。つまり、これは「教育」ではなくて「支配」です。なぜならば、それは「常識」という「アイデア」に「支配」させていくことに過ぎないからです。

今の日本人は「常識」という「アイデア」に「支配」されながら生きています。「常識には従うべき」という「アイデア」をきっかけに、我々は徹底的に「常識」という多くの「アイデア」に「支配」されていきます。これは魂の「意志」とは矛盾するものであって、一種の「呪い」です。大人がそういった「呪い」にかかっているからこそ、子供にも同じ「呪い」をかけてしまいがちです。

「教育」において大事なことは、子供の「意志」を尊重し、好き勝手にさせることです。そして、子供が間違ったことをした時は何故それが間違っているのかを教え、その理由に納得するまでは変わる必要はないとも教えることです。今の親の一体何割が「お前が納得するまで俺が言うことなど聞く必要ない」「納得しない限り、決して変わってはいけない」と言っているかというと、その割合は非常に少ないと思います。しかし、これが本来の「教育」です。

 

[大人にも「教育」は必要]

ここまで、親子の「教育」を例に「教育」と「支配」の違いを話してきました。我々は「大人」になるにつれて、どこかで「教育」が必要でないと思ってしまっています。しかし、我々は死ぬまで何かを人と教え合っています。この教え合いのプロセスは、「教育」のプロセスとあまり変わりがありません。我々は相手の話を聞いているだけで相手の「意見」を聞くので、その「意見」に「同意」する場合は、自分が変わるためのきっかけとして活かすことができます。

自分が無いと、つまり「意志」が無いと、変わることはできません。何故ならば、魂の「同意」ができないからです。そして、「同意」ができたからといってすぐに変わることはできません。何故ならば、変わるためには努力が必要だからです。

今の日本人が「大人」になってからの魂の成長が遅いのは、それぞれの人間が自分の「意志」を持っていないからですし、変わるための努力ができる程の「強さ」や「動機」も持っていないからです。そして、そういった「意志」の無さや「強さ」の欠如を助長しているのが、我々が受けている「教育」です。

今の「教育」というものが魂の「意志」を伸ばさないからこそ、我々は「意志」の弱い人間になっていきます。「意志」が弱ければ、自分が変わるための「強さ」も使う機会が生まれないので、必然的に「弱さ」を抱えた人間になっていきます。

「教育」に関連して、このような社会的な問題があります。だからこそ、これからは「支配」ではなく、魂の「意志」を伸ばすような「教育」をしていかなければなりません。これは、これから日本人が行なっていかなければならない大きな課題です。