以下、YouTubeの説明欄に載せました、動画解説の内容をそのまま貼り付けます。動画そのものよりも、この説明の方が大事だと思っておりますので、一読頂けると幸いです。

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屋久島の滝の映像と自分の即興演奏を重ね合わせました。

滝という存在はよく龍と重ねて考えられる存在なので、音楽のテーマに合っていると感じ、重ね合わせた形になります。逆再生する滝の様子から、昇龍を感じて頂けると幸いです。 実際、屋久島には様々な龍神様がいると言われますが、この映像をきっかけに屋久島の滝に御興味を持って頂き、そして実際に屋久島の滝に足を運んで頂き、御自身の力で龍を感じて頂けると幸いです。

この音楽のテーマは「龍の気持ち」と「鳳凰の気持ち」の重なり合う部分の精神性です。そういう意味を込めて『龍と鳳凰』というタイトルにしていますが、正確には『龍と鳳凰の精神の境界領域』というタイトルです。

また、精神的な意味だけではなく、物質的な意味でも滝は「境界領域」を形成します。というのも、滝は聖域であり、その聖域に入ることで、その川の神様(龍や鳳凰)の「気」を強く感じられるからです。つまり、目に見える世界と目に見えざる世界の境界領域を滝は形成し、そのような意味で、滝は境界領域です。

話は戻り、「龍の気持ち」と「鳳凰の気持ち」の重なり合う部分の精神性についてですが、この精神性の境界領域は「水の気持ち」の中での境界領域です。「水の気持ち」とは「愛」が故に「問題解決」を目指す精神性であり「問題解決の心」のことです。「水」という存在が様々な汚れを「浄化」する物質であるところから、「水の気持ち」=「問題解決の心」という考え方が生まれます。

「愛」には種類があり、燃え盛る「情熱(火の気持ち)」もあれば、穏やかな「優しさ(風の気持ち)」もあります。そういった意味の中での「水の気持ち」=「問題解決の心」の方向性を表現していると御理解頂けると幸いです。

様々な精神性は動物ごとに分けられるものですが、龍も鳳凰も目に見えざる霊獣です。だからこそ、彼らの精神性がどのようなものであるのかを音楽で表現し、そのことを通して、龍や鳳凰について理解を深めて頂くことには価値があると思っています。

また、龍も鳳凰も様々な種類の存在がいます。白龍、黒龍、青龍、黄龍、金龍といった言葉があるように、龍の中にも方向性の違いがあり、その違いとはその龍の司る「気」の違いによります。そういう意味で考えた時に、この音楽と映像が表現している龍と鳳凰は「水の気」を司る龍と鳳凰であって、青龍と青鳳凰の通じ合う精神性です。

龍は「厳しさ」を持つ存在であり、だからこそ、龍を表現する音楽は凄まじい「厳しさ」を持つべきです。それに対して、鳳凰は「美しさ」を持つ存在でもあり、だからこそ、鳳凰を表現する音楽は「美しさ」を持つべきです。そういう意味で考えた時、「龍と鳳凰」をテーマとする音楽は「厳しさ」と「美しさ」を持つべきです。その分野の中の「水の気持ち」の部分を表現していると御理解頂けると幸いです。

「芸術とは何か?」という本質が見失われている現代においては、「芸術家は何を表現すべきか」ということが見失われがちですが、芸術家は人類が知るべき何らかの真実を人類に伝えるべきだと思っています。そして、一人の芸術家が表現できることはあまりにも限られています。だからこそ、より多くの芸術家が、自身が表現すべき何らかの真実を表現することに人生を捧げることが非常に重要です。

また、現代は目に見えざる力の本質を見失っている時代でもあります。そんな時代に目に見えざる存在の本質を最もよく人々に伝えられるのは芸術家です。その点に、現代を生きる芸術家の最も大きな使命があります。

目に見えざる力の凄まじさを人類が理解する時、人類は自分自身の未熟さを自覚し、傲慢さを捨て、もっと謙虚に生きていくことができ、そういう態度が正しい生き方を促します。逆に言うと、現代を生きる我々人類は自分自身の未熟さを自覚しないが故に、傲慢さに墜ちがちで、その傲慢さが間違った生き方を促しています。

そういう現状があるからこそ、目に見えざる力の凄まじさを伝える作品を生み出すことは重要です。私は如何にそれが重要なのかを知っているからこそ、それが動機の純粋性と大きさに繋がり、その動機そのものが、私が強く共感する「水の気持ち」=「問題解決の心」だからこそ、強い「水の気持ち」の作品を生み出すことができます。

私は私のことを伝えたいわけではなくて、ただの一つの具体例として理解して頂きたいと思っています。私という具体例を通して、芸術家の生き方と芸術家が生み出すものの関係性を深い意味で御理解頂けると大変嬉しいです。

繰り返しになりますが、芸術家にとって、あまりにも重要なものは「動機」の純粋性と大きさです。それが作品に色濃く反映されます。「動機」の純粋性を形成するものは「善意」であり、「動機」の大きさを形成するものは「真実」への理解です。

また、「善意」を抱くきっかけも、「真実」を理解しようとするきっかけも、「愛」から生まれるものですが、「愛」とは「他者のため」を思う心です。「他者のため」を思う心が「善意」へと繋がり、そういった心が「自分は何をすべきだろうか?」という「問い」へと繋がり、その「問い」は「真実とは何だろうか?」という「問い」へ直結していきます。

本質的に、巫女やシャーマンと呼ばれる存在と、芸術家の境界線は曖昧なものです。どちらの人間にせよ、目に見えぬ存在から「アイデア」と「気持ち」を受け取り、それを人間に伝える存在だからです。

「アイデア」も「気持ち」も我々の心に「起こる」ことであって、必ずしも「起こす」ことを行なっているものではありません。そういうことに気付き始めた時、我々が如何に目に見えざる存在の影響を受けながら生きているのかを学びます。

芸術家がやるべきことは、神々が自分の体を通して表現を行なうことができるだけの肉体と精神を準備することに過ぎません。その準備のためには、神々が自在に表現できるだけの技術力を養い、神々の精神に共感できる程に精神性を高める必要があります。

非常に恐縮ですが、この短い作品が「龍と鳳凰」のことを垣間見せるだけの作品ではなく、「芸術とはどうあるべきか?」という良い刺激を芸術家に与えるものになることを願っています。

こういうことを理解した芸術家が人生をかけて様々な作品を生み出していくならば、膨大な「真実」が地上に残されることになるからです。それは、この作品を通して「龍と鳳凰」に関する「真実」を理解して頂くことよりも、圧倒的な価値があります。何故ならば、人々に伝えられる「真実」の量があまりにも異なるからです。

今の私は技術的にはあまりにも未熟過ぎるのですが、この作品は「動機」の質と量だけでなんとかカバーをしたように感じています。今度はさらに技術力を高めながら、それと同時に、精神修行を通して精神性を高めることによって「動機」の質を高め、より良いものを作っていきたく思っています。


※余談

10/13より再び屋久島に来ており、『屋久島』という大きなテーマを表現する作品制作を始めました。度々書いておりますが、日本人が大事なことを思い出す上で屋久島は非常に重要な役割を持っています。何故ならば、日本の中で屋久島以上に目に見えざる力を持つ自然はなく、そういう意味で、目に見えざる力のことを理解する良ききっかけに屋久島はなり得るからです。

しかし、今は屋久島の深い意味を伝えるような音楽や映像作品はほとんど無く、だからこそ、そういったものを作品にすべきだと思っています。何故ならば、そういった作品を人々が鑑賞することで、実際に屋久島に訪れた時、屋久島の持つ力を適切に感じやすくなるはずだからです。そういうことが実現する時、人々は目に見えざる力の存在を知ることができ、正しく生きることがしやすくなります。

こういったことの実現のために、今回の屋久島滞在も努力を重ねるつもりです。