2013年11月〜2014年2月頃、私は多くの霊に取り憑かれていました。ほぼ鬱病と言っていい程の状況でした。神々としては、私に霊のことを学ばせるために、わざとあまり私を守らないということを行なっていた形になります。

シャーマンとして霊に取り憑かれた人を助けていく上で、霊に取り憑かれていた経験があるかどうかは非常に重要な点です。もし霊に取り憑かれたことがないのであれば、霊に取り憑かれている人の気持ちや状況がよく分からないからです。だからこそ、当時神々はわざと私を霊から守っていなかった形になります。

霊は我々と同じ魂ですから、もし霊に宿られるとかなりその霊から影響を受けます。韓国済州島には多くの霊がいますが、私は彼らを自分の身体に宿した状態で数ヶ月の時間を過ごしていました。また、宿っている霊は、一人ではなく複数人でしたので、彼らからもたらされる「闇の気」の量はとても多かった形になります。

当時芸術家だった自分はその不思議な感覚を映像に残そうと思いました。この映像はその時のものです。当時は霊など信じていなかったので、この映像の中では「死」という言葉を使って表現しています。そして、その「死」がもたらす不思議な感覚に惹かれていっていました。ここで惹かれてしまったからこそ、ほぼ鬱病という状態まで堕ちていった形になります。

当時「気」というものの存在を知らなかったのですが、霊からの「気」を感じてはいて、それを何とか言語にしようと試みていました。そういった霊からの「気」の言い換えとしての言葉が、この映像の中で語られている「済州島の自然からは死を感じる」「済州島の土地から人々の歴史を強く感じる」といった言葉に表現されています。

この映像の中で語られている言葉に神々は関与しています。我々が自分の感情を言葉にする時、神々は「気」を送ることによって、その感情に合った言葉の選択肢を我々にもたらします。ですから、この当時に自分が意図していた以上に、ここで語られている言葉には神々からの意味の含みがあったりします。

例えば、分かりやすい例を挙げると、後半に自分がこのようなことを言います。

「この島には悲惨な歴史もあります。かつて、韓国政府によって島の人間が何万人も殺され、村の多くが焼かれるという事件がありました。今ではそのことについての平和公園もあります。この島に死を感じるということと、この事件は何の関係もないということはないと思います。何故ならば、燃やされた村の跡は確実に残っていて、僕は知らず知らずにその村の岩を見て、その土地を歩いている。そこに霊的な何かを感じているかは定かではないですけど、いつもこの島の美しさには悲しみを感じます。」

どうして済州島に多くの霊がいるかというと、原因はこの事件の発生に依ります。また、自分に宿っていた霊達もこの事件によって霊となった魂達でした。この島出身の霊に取り憑かれていたからこそ、彼らが抱いているこの島に対する愛着の影響をもらい、自分はこの島の自然に強く惹かれていた面もあります。

当時、霊というものを信じていなかった自分でしたが、この事件によって生まれた霊に取り憑かれていたということが、この自分の発している言葉に元々示唆されています。どうしてこのようなことが起きるかというと、神々が自分の言葉選びに関与をしたからです。

この映像についてはまだまだ深めるべきポイントが多くあるのですが、観る前の段階においては上のようなことを意識して頂ければ、と思います。

重要なポイントは自分が霊に取り憑かれていて、闇に堕ちている感情の中で、この撮影を行ない、その感情でコントラバス演奏を行ない、その感情を言葉に変換している点です。闇に堕ちている状態の中で、なんとか前に進もうとしている様子がこの映像全体によく表れています。

そういったことを感じて頂けると幸いです。そして、そういった要素を感じる事を通して、霊に取り憑かれるとどういう心理状態になるのかということを理解して頂けると幸いです。