我々人間はいつも教え合いの中を生きています。その時に、良い形で他人に物事を教える人と、悪い形で他人に物事を教える人はいます。良い形で他人に物事を教えることを促すためにも、悪い形で他人に物事を教える人から学ばないためにも、両者の違いを説明します。

良い形で物事を教えようとする人は、本当に「相手のため」を思っているので、「配慮」に満ちたアドバイスをしようと全力を尽くしますし、間違ったことを伝えないように全力で「自問自答」をします。逆に言うと、こういった態度が教育者の正しいスタンスです。

悪い形で物事を教えようとする人は、本当は「自分のため」を思っているので、「配慮」に欠けたアドバイスをしますし、相手に正しいことを伝えたいという気持ちが弱いので、「自問自答」も足りなくなります。逆に言うと、こういった態度が教育者の間違ったスタンスです。

つまり、「他者のため」に生きる人は、他者を「幸せ」にするために「愛」で何かを教えているので、「配慮」と「自問」をしようとします。それに対して、「自分のため」に生きる人は、自分が「快楽」を感じるために「優越感」や「自己顕示欲」で何かを教えているので、「配慮」と「自問」に欠けます。

ただ、「愛」で何かを教えている人であっても、その人の「賢さ」が不足していれば、良い教育はできません。ですから、我々は「愛」と「賢さ」に満ちた人の言葉から学ぶべきですし、逆に言うと、人に何かを教えるためには「愛」と「賢さ」を自分の中に養う必要があります。

人に何かを教える経験は「優越感」や「自己顕示欲」という「快楽」を得るために使うこともできる行為であることは意識化した方がいいです。そうすれば、人に何かを教えてる時に「優越感」や「自己顕示欲」に堕ちてないかをチェックできるからです。

また、「賢さ」が足りなければ間違ったアドバイスをしてしまうということを意識化すれば、人に何らかのアドバイスをしないといけない時のために、日々自分の「賢さ」を伸ばすための努力をします。そうすれば、「賢さ」は自ずと養われていきます。このような形で「愛」が「賢さ」を養います。

人に何かを教えるということは、とてつもなく重い責任を伴なう行為です。誰かに間違ったことを伝えてしまい、その相手がそのアドバイスを鵜呑みにしてしまったら、そのアドバイスが相手の人生を狂わせてしまうこともあるからです。

そんなことをちゃんと考えられていたら、相手にアドバイスを気軽にしたり、何らかの主張を簡単にインターネットに書くことなどできなくなります。しかし、この時代は真逆で、SNSなどで皆が簡単に自分の意見や主張を「優越感」や「自己顕示欲」の実践のために、つまり「自分のため」に行なっています。逆に言うと、本質的には「自分のため」だからこそ、「自問」や「配慮」のない自分の主張を発信できます。

SNSは膨大な影響が与えられ合っている現場です。つまり、SNSを通して、我々は日々何かを膨大に教え合っています。そして、他人に何かを教えるという行為は非常に重い行為です。しかし、現代を生きる我々は、そういったことを意識することなく、あまりにも気軽に何かを教え合ってしまっています。その気軽さが大きな罠となり、SNSでは良くない教え合いが膨大に繰り広げられています。

とにかく、「自分のため」にアドバイスをする人や情報を発信する人の言葉は見ないようにすることが大事です。初めから見なければ、間違ったことを信じることもないからです。もし、そういう情報を見てしまったのであれば、その情報が正しいかどうかを強く「問う」ことがとてつもなく大事です。ただ、全ての情報の真偽を判断できるだけの「賢さ」を持つことはほぼ不可能なことなので、初めから善意の無い人の発信する情報は見ない方が安全です。

今の日本人は自分が受け取った情報を「問う」どころか、自分にとって都合のいい情報は「欲望」で「鵜呑み」にし、都合の悪い情報は「嫌悪」から「疑う」ということを行ないがちです。その結果として、間違った情報を正しいと思い込み、正しい情報を間違っていると思い込みます。

このような形で、「自分のため」に情報を発信する人と「自分のため」に情報を受け取る人が組み合わさると、社会全体で「真実」を見失い、社会全体で「間違い」を本当と思い込んでいきます。今の日本社会は、どんどんそういう社会になる方向で進んでしまっているからこそ、この文章を通して、教えることと教えられることは本来どのようにあるべきなのかを理解して頂けると幸いです。