何が本当の「強さ」であり「弱さ」であるのかを知ることはとても大事なことです。というのも、「強さ」と「弱さ」の本質を知らなければ、自分自身の「強さ」と「弱さ」も見えてこないからです。

人が自分自身の「強さ」や「弱さ」を知る時とは、乗り越えるのに困難な状況に直面した時です。そういった時に、我々は自分の「強さ」が試されるからです。逆に言うと、生きるのに楽な状況を生きていると、「強さ」を使う必要もない状況を生きることになるので、自分が「強い」か「弱い」かも分かりませんし、「強さ」を伸ばすこともできません。

「強さ」を持つ人間は、どんな困難な状況が来ようとも、その現実「受け入れる」ことができるのに対して、「弱さ」を持つ人間は、困難な状況に直面した時に、その現実を「受け入れる」ことができません。つまり、「強さ」と「弱さ」を測る一つの観点は、困難な状況を「受け入れられる」かどうかです。

そして、困難な状況を「受け入れる」人間は、その困難な状況を乗り越えるための何かを行おうとするのに対して、困難な状況を「受け入れない」人間は、その困難な状況から逃げるための何かを行おうとしたりします。

例えば、親が子に適切な説教をした時などに、心に「強さ」がある子は自分の過ちを「認められる」からこそ「成長」することができます。それに対して、心に「弱さ」がある子は自分の過ちを「認められない」からこそ「成長」することができませんし、「自分を守る」ために親の教えを否定しようと「怒り」を親にぶつけたりします。このような形で、「弱さ」を選ぶ場合は様々な弊害が生まれます。

自分に大事なことを教えてくれる存在は必要な存在です。しかし、教えてくれた存在に「怒り」の態度で接してしまうと、自分自身が「成長」する機会も失うだけでなく、その相手が自分に二度と何も教えてくれなくなる可能性さえもありますし、教えてくれた相手にストレスを与えることにもなります。

こういう場面において、親に反抗する子は強い態度で親に接するので、このことを「強さ」と誤解してしまう人は少なくありませんが、本質的には「弱さ」です。そして、こういった「力」は「弱さ」が故に生まれる危険な「力」です。何故危険な「力」かというと、自分や他人の「道」を誤らせる「力」だからです。

親が子に何かを教えるというケースは一例に過ぎませんが、このような形で「弱さ」の「力」は様々な悪い心の影響を自分や他人に与えます。だからこそ、まず最初に「弱さ」に同調すべきではないですし、「弱さ」が故に生まれる「自分を守る」ための「力」には手を出すべきではありません。

逆に、このケースの場合の「強さ」が故に生まれる「力」とは、「成長」を目指そうとする「力」であり、そういう機会を通して「成長」を実現できた場合、その「成長」の恩恵を自分も受け取りますし、他人にも何らかの良い影響を出す可能性が高いです。

また、「強さ」と「弱さ」の違いは「許す」か「許さない」かという態度とも密接な関係にあります。例えば、誰かが自分に酷いことをした場合、心に「強さ」を持つ人は相手を「許す」ことをしやすいのに対して、心に「弱さ」を持つ人は相手を「許さない」ことをしやすいです。

何故ならば、心に「強さ」がある人は自分自身が苦しい思いをしたことさえも「受け入れる」ことができるからこそ、相手を「許す」ことができるのに対して、心に「弱さ」がある人は自分自身が苦しい思いをしたことさえも「受け入れられない」からこそ、相手を「許す」ことができないからです。

こういう場面において、相手を「許す」態度を選ぶ者は更なる「強さ」を獲得することになりますし、相手に「怒り」をぶつけることもないので関係性が悪化することもありません。それに対して、相手を「許さない」態度を選ぶ者は更なる「弱さ」を獲得することにもなりますし、相手に「怒り」をぶつけることもしやすいので関係性が悪化することにも繋がります。

このような意味で、「許す」か「許さない」かという分かれ道においても、「強さ」は正しい「道」へ我々を導き、「弱さ」は間違った「道」へ我々を導くことを知って頂けると幸いです。

「強さ」は人間に「正しい道」を与えやすいだけでなく「美しさ」さえも与えます。困難を「受け入れる」ことも他者を「許す」ことも「美しさ」へ通じているからです。それに対して、「弱さ」は人間に「間違った道」を与えやすいだけでなく「醜さ」さえも与えます。困難を「受け入れない」ことも他者を「許さない」ことも「醜さ」へ通じているからです。

こういったことを分かることことを通して、「強さ」の価値と「弱さ」の危険性をより深く御理解頂けると幸いです。