「自己愛」や「自分を愛する」といった言葉の使われ方がありますが、この言葉は間違った言葉です。何故ならば、「愛」はそもそも「相手のことを大事だと思う気持ち」なので、自分を「愛」することは不可能だからです。

他人を愛したことがある人は感覚的にも理解できることですが、他人を愛する感覚と同様の愛を自分に向けることは不可能です。つまり、他者のことを心から純粋に「大事」だと思うように、自分のことを心から純粋に「大事」に思うことは不可能です。

ただ、もちろん、「自分を好き」と思うことはできますが、「自分が好き」ということと「自分を愛する」ということは異なります。何かを「好き」と思う心と何かを「大事」に思う心は異なるからです。

ここまでを整理すると、
 

           愛(他者を大事に思う心)≠ 好き(何かを好きに思う心)

   自分に向ける  不成立          成立

   他者に向ける  成立           成立


「自己愛」というようなものを感じながら生きている人の多くは「自分を愛する」心を抱いているわけではなく、「自分が好き」という心を抱いている人がほとんどです。このことを意識化することはとても大事なことです。

何故ならば、「自己愛」という言葉が成立すると考えると、「愛」の本質(愛=他者を大事に思う心)が見失われやすいからです。また、「愛」という言葉は響きの良い言葉なので、「自己愛」というものさえも良いものに思いやすいからです。

本当の「愛」ではありませんが、「自分を大事に思う」ことはできます。しかし、その内容は本当の「愛」程に「美しさ」を持つものではなく、「自分を優先する」「自分を守る」といった方向性であって、「醜さ」へ通じています。

というのも、「自分を大事に思う心」は「自分を守る心」に繋がりやすく、それは「他者のため」に強く何かをすることを止めやすいからです。逆に言うと、強く「他者のため」に何かをするということは自分の身を削ることにも繋がるからこそ、「自分を守る心」に囚われると「他者のため」に強く何かを実践することができなくなります。こういった精神性は「愛」とは異なり「醜さ」へ通じています。

逆に、「他者を大事に思う心(愛)」は「他者を守る心」に繋がりやすく、自分の身を削ってでも、強く「他者のため」に何かをするということを目指す精神性へ通じています。こういった精神性は「自己愛」とは異なり「美しさ」へ通じています。

整理すると、
 

        他者愛(他者を大事に思う心)≠  自己愛(自分を大事に思う心)

   美しさ     ○               ×  

   醜さ        ×               ○ 


「自己愛(自分を大事に思う心)」は称賛に値する精神性ではなく、「醜さ」へ通じている危険な罠です。「自己愛」の「道」の先には、より「醜さ」を持った自分の姿があるからです。実際、「自己愛」に囚われた人間が「邪悪」な心に囚われていくことは少なくありません。

しかし、今の世の中、「自己愛」が良いことのように語る哲学も少なくなく、そういった哲学が人々が「自己愛」を抱くことを促しています。例えば、「自分を愛せない人間は他人を愛せない」といった考え方などがありますが、この思想は明らかに間違っています。何故ならば、自分を愛していない人間が他人を愛しているケースは少なくないからです。

こういった明らかに誤った思想に騙されることなく、なおかつ、このページを通して「自己愛」の危険性を理解して頂き、「他者を大事に思う心」という本当の「愛」の方向性を目指して生きて頂けると幸いです。