現代は「自己肯定感」という言葉がよく使われる時代です。だからこそ、この言葉に対して適切な理解を深めることは非常に重要ですし、この言葉に関して、現代に満ちつつある「罠」を理解することも大事です。
 

【「自己肯定感」とは何か?】

「自己肯定感」とは文字通り「自己」を「肯定」する心です。様々な定義がなされている言葉ですが、「自己」を「肯定」するという点については共通しています。

「自己肯定」をしていれば「自信」は生まれやすいのに対して、「自己否定」をしていれば「自信」は生まれにくいです。そして、「自信」があれば「行動」を起こしやすく、「自信」がなければ「行動」を起こしづらいので、「行動」のために「自己肯定感」が必要だと考えられることは多いです。

また、「自己肯定」をしていれば「自己愛」が生まれやすいのに対して、「自己否定」をしていれば「自己嫌悪」も生まれやすいです。「自己嫌悪」が危険であることは言うまでもないと思いますが、「自己愛」が危険だと考えない人は少なくありません。しかし、「自己愛」は「ナルシズム」や「優越感」などにも繋がる危険な要素もあります。

「自己肯定」の一つの促し方として「自分を認める」という方向性があります。我々が生きていく上で「自己肯定」が必要なことは少なくありませんが、「自分を認める」という心が「自己肯定」を実現する上で「最善」の選択肢です。何故ならば、「自己愛」のような危険性もなく、「自信」にも繋がるからです。

ただ、もちろん、「認める」べきではない自分を「認める」ということは問題となることもありますが、「自分を認める」という心自体は本質的に危険な心ではありません。
 

【「自己肯定感」が高いことは必要か?】

・「強さ」と「弱さ」

現代は「自己肯定感」が低いことが「問題」のように語られがちです。しかし、実際は「自己肯定感」が低いこと自体が「問題」なのではなく、「自己肯定」していなければ耐えられない心の「弱さ」が「問題」です。

つまり、「自己肯定感」が低くとも「強さ」があれば「問題」ないことは多いです。何故ならば、「強さ」があれば「自己否定」をしていても「自分を肯定できない」ことの「苦悩」に耐えることができるからです。

例えば、「自己肯定感」が低い人は「劣等感」に堕ちやすい傾向はありますが、心が「強さ」を持っていれば「自己肯定感」が低くとも「劣等感」に堕ちません。何故ならば、「劣等感」の前提には今の「未熟」な自分を「受け入れられない」という「弱さ」があるのに対して、「強さ」があれば今の「未熟」な自分を「受け入れる」ことができるからです。

「劣等感」とは「下向き」や「後ろ向き」な態度と結びついた心ですが、そういった態度を「弱さ」が作り出します。それに対して、「強さ」があれば「上向き」や「前向き」な態度によって、自身の「短所」を改善しようとする「向上心」に繋がります。

つまり、自身の「短所」に目を向けることによって、「弱さ」に堕ちる人は「劣等感」や「嫉妬」や「自己嫌悪」といった悪い心に堕ちるわけですが、「強さ」を保つ人は「向上心」という良い心に進むことができます。

このような意味で、「自己肯定感」が低いこと自体が問題なのではなく、「自己肯定感」が低いことと「弱さ」が重なった時に、人は病んでしまう形になります。「強さ」があれば「自己否定」していても「平気」なのに対して、「弱さ」があると「自己否定」していると「平気」ではないとも言えます。
 

・「自己肯定欲」と「嫌悪」

このような「強さ」と「弱さ」の観点から「自己肯定感」の意味を理解することも大事ですが、「欲」と「嫌悪」の意味から理解することも大事です。

「自分を肯定したい」という「欲」を抱えていると、「自分を肯定できない」ことから「嫌悪」を感じます。「欲」と「嫌悪」は表裏一体だからです。そして、「嫌悪」には「苦悩」が伴いますが、「弱さ」があればこの「苦悩」に耐えられません。

「自分を肯定したい」という「欲」のことを「自己肯定欲」と言います。この「自己肯定欲」があるからこそ、「自己肯定」できないことから「嫌悪」は生まれるのに対して、初めから「自己肯定欲」が無ければ、「自己肯定」できなくとも「平気」であることは多いです。何故ならば、「求めていない」ものが手に入らなくとも「平気」だからです。

つまり、「自己肯定」を「求める」からそれが手に入らない状況を「苦悩」することが始まるからこそ、「自己肯定欲」に同調しないことが大事です。けれども、そういった「自己肯定」を求めることを促すのも「弱さ」です。何故ならば、「弱さ」を抱えていると「自己肯定」できなければ立っていられないからです。このような意味で、「自己肯定欲」と「弱さ」は繋がっています。

「自己肯定感」という言葉について語られる場面において、「自己肯定欲」に関するこの点をちゃんと説明されることが少なく、だからこそ、「自己肯定感」が高いことが必要なように誤解されがちですが、「自己肯定欲」を抱えていなければ「自己肯定感」が低くとも問題ないことは多いです。
 

・「愛」と「欲」

「欲」は「自分のため」ですから、「自己肯定欲」も「自分のため」に「自己肯定」を求める心です。それに対して、「愛」は「他者のため」ですから、「愛」を抱いている時に「自分のため」に「自己肯定」を求めることは不可能です。

「他者のため」を思う人間は「他者のため」に自己の「成長」を「願う」ことを行います。何故ならば、「他者のため」により多くを実践できるようにしたいと思うからです。

そういった「願い」は「欲」とは性質の異なるもので、「他者のため」に「否定」すべき自分の側面はちゃんと「受け入れて」、それを乗り越えようとする心に繋がります。そういった心は悪いものではなく正しい心です。

つまり、「愛」を抱いている限り、人は自分の「否定」すべき「短所」を見つめていても「前向き」です。それに対して、最初は「愛」を抱いていても「弱さ」などに堕ちるとそういった自分の「短所」を「否定」することによる「苦悩」に耐えられなくなり、その「苦悩」を「嫌悪」する心に堕ちていきます。

このような意味で、「自己肯定感」が低くとも「愛」を抱いていれば問題ないことや、「弱さ」がそのような「愛」を止めることも知って頂けると幸いです。
 

・「賢さ」と「愚かさ」

もちろん、「自信」がなければ「行動」しづらいですし、「自己肯定感」が低い人が「自信」を抱きづらいことも事実です。しかし、「賢さ」があれば「自己肯定感」が低くとも「自信」を持つことさえもできます。

例えば、今のありのままの自分を「肯定」できなくとも、自分が「進歩」していけることに関して「自信」を持つことはできたりします。特に、自分が「進歩」してきた道のりを見つめれば、それを「根拠」に「自分は進歩できる」と思うことはできるので、そういう心の動きが「行動」をする上での「自信」となったりします。

他にも、様々な形で「自信」は「賢さ」によって生み出すことができます。また、「賢さ」があれば、「自信」を持つべき場面において「自信」を持つことの必要性も見えるので、「自信」を見出そうとしやすいです。

逆に言うと、「愚かさ」を抱えていると、「自信」が必要な場面にあることを自覚できず、「自信」の見出し方も考えようとしないです。そういう人は「自己肯定感」が低いことによって、「自信」が生まれず、行動をしづらいという弊害を生みやすいです。

大事なことは、「賢さ」があれば「自己肯定感」が低くとも「自信」を見出すことはできるからこそ、行動を起こせるということです。つまり、行動をする上でも「自己肯定感」が高いことは必ずしも必要なことではありません。
 

【最後に】

我々人間の中に「完璧」な人間はほぼいないと思います。逆に言うと、我々人間はほぼ全員「未熟」ですし、これは真実だと思います。そして、「未熟」でありながら、自分の全存在を「肯定」することなどは本当は不可能なことですし、間違っています。

しかし、「自己肯定感」が高いことが大事で、「自己肯定感」が低いことが問題のように語られる現代は、「ありのままの自分」を「全肯定」しなければならないように誤解してしまう人は大変多いです。

我々は自分の中に「長所」と「短所」の両方を持っています。その「長所」は「肯定」すべきですし、「短所」は「否定」すべきです。そのように自分を捉えることで、より良い人間になっていけるからです。ですから、「ありのままの自分」を「全肯定」することは「最善」ではありません。

大事なことは、自分の「長所」を「肯定」することによっても「自己愛・ナルシズム・優越感」などの「罠」に囚われないことであって、自分の「短所」を「否定」することによっても「劣等感」「自己嫌悪」「嫉妬」などの「罠」に囚われないことです。

その両方を実現する上で最も必要となるものが「強さ」です。そして、「自己肯定欲」に堕ちないことや「愛」を貫くことや「賢さ」と共に生きることも非常に大事です。

「ありのままの自分」を「肯定」することの最大の「罠」は、我々の「成長」を止めることです。また、そのようなことによって自分の「短所(問題)」さえも「肯定」することは、むしろ「短所」を大きくすることにも繋がりかねないです。そして、「自己肯定感」が高いことが重要だと考えられがちな現代において、このような「罠」に落ちる人は少なくありません。

我々人間は「成長」するためにも生きているわけですから、現代に蔓延しているこのような「罠」によって、自身の「成長」を止めてしまうことを避けて頂けると幸いです。
 

※ 余談

(強い「厳しさ」と共に「自己肯定感」に関するこのような問題を考えると以下のような説明になります。「厳しさ」を感じて頂くために、多少口が悪くなりますが、こういった捉え方もあるということが分かると、「自己肯定感」という言葉に対して理解が深まるので書きます。)

「自己肯定感」という言葉を調べると、「ありのままの自分を肯定する」「自分の存在そのものを肯定する」といった説明が出てきますが、我々人間は「ありのままの自分を肯定」できる程の存在でもなければ、「自分の存在そのものを肯定する」ことができる程の存在でもありません。何故ならば、我々は皆「未熟」だからです。「未熟」だからこそ人間をやっているとも言えます。

逆に言うと、「ありのままの自分を肯定」「自分の存在そのものを肯定する」ことができるのは自分の「未熟」が見えない「愚かさ」を持つ人間ですが、そんな「愚か者」になることは全然好ましくないと思います。「愚か者」は判断を誤りやすいからです。

多くの人間が「弱さ」を抱えている時代においては、「弱さ」を前提に物事を考えがちだからこそ、「自己肯定感」が高いことが必要などといった「罠」が生まれるわけですが、真の「向上」を望む魂には、そんな「馬鹿馬鹿しい罠」に捕まってほしくないと思うばかりです。

己の「問題」を探し見つめ受け入れ、「ありのままの自分を肯定する」「自分の存在そのものを肯定する」ことなどに堕ちることなく、どれだけ「自己否定」しようとも、「強さ」によって心を「闇」に落とすことなく「向上心」を貫ければ、「自己否定」こそ「成長」のための最大の武器です。

このような意味で、「強さ」を基準に「自己肯定感」の問題を捉えるなら、結論が真逆になるわけですが、これも一つの真実です。「弱さ」に堕ちる位なら「愚かさ」を使ってでも「自己肯定」している方が「マシ」ではありますが、「強さ」を貫けるなら「賢さ」を使ってでも「自己否定」をすることが「正しい」です。

現代は「ありのままの君でいいんだよ」といった言葉で救われるような人が多い時代です。「自己否定」の「苦悩」に耐えることもできない「弱さ」を抱えているからこそ、他者からのこのような「肯定」で「楽」になるような人が多いとも言えます。

このようなことを理解する時、今のこの時代の日本が「理想」から程遠いことも、自ら「成長」の機会を失っていることも、「弱さ」が故に「成長」の機会を減らさざるを得ない状況があることも見えてきます。

「肯定」すべきではない自己を「肯定」することは「愚かさ」であり、「肯定」すべきではない自己を「否定」することは「賢さ」です。このような意味で、「自己肯定感」に関する常識は我々から「賢さ」を奪い「愚かさ」に陥れている部分があります。

このホームページを見ている人の中には、大きな「向上心」を持つ人もいると思いますが、そういった人は現代に満ちている低い基準に惑わされることなく、このような高い基準で生きていって頂けると幸いです。何故ならば、そういう高い基準と共に生きることが、人生を通した「成長」を最も良い形で実現することを促すからです。

そういった高い基準と共に生きるためには、今の時代の日本が持っている様々な見えない「罠(低い基準)」を理解することはとても大事なことです。何故ならば、それらがどんな「馬鹿馬鹿しさ」の上に成立している「罠」であるのかを理解することが、その「罠」に落ちることを防ぐからです。

逆に言うと、それが「馬鹿馬鹿しい」と思えない限りは、「まとも」な基準に見えてしまう可能性が残るからこそ、「馬鹿馬鹿しい」ものを「馬鹿馬鹿しい」と分かることは大事です。ですから、「ありのままの自分」を「肯定」することが必要だと考える思想など「馬鹿馬鹿しい」ことを分かって頂けると幸いです。

このホームページは、できるだけ客観的に心に関する事柄を書いていきたいので、このような「厳しさ」を直接的に伝えるような形で文章を書くことはありませんが、こういうスタンスを知ることで見えてくる真実もありますし、「自己肯定感」に関する問題は非常に危険な問題なので、「厳しさ」のスタンスでも書かせて頂きました。

「優しさ」を抱く人の中には「不愉快」に感じてしまう方もいるかもしれないので、そういう方には申し訳ないですが、参考になると幸いです。