「道徳」と「義務」は本質的に異なります。この違いを知ることは、とてつもなく大事なことです。

例えば、「法律」は「強制力」があるが故に「義務」であるのに対して、「道徳」は「強制力」はないが故に「義務」ではありません。つまり、「道徳」と「義務」の違いの一つは「強制力」の有無です。

「道徳」とは「善悪」の構造を踏まえて人が生きていく上での「模範(手本)」のことであって、「道徳」自体には「強制力」はありません。つまり、「道徳」に従うか従わないかは、それぞれの人間が自らの「意志」で決められます。

また、「道徳」とは「善」を実現していく上で正しい「真実」であって、「真実」自体は誰かが決めることでもなく、元々決まっていることです。それに対して、「義務」は誰かが決めることです。この点も「道徳」と「義務」は異なります。

「道徳」と「義務」のこのような違いを知らないが故に、「道徳」の観点での「すべき」という言葉を他人が与える「義務」のように誤解する人は少なくありません。このことが、人が良い形で生きていくことを止めています。

例えば、「『すべき』という考え方は結局は他人が決めた価値観の押し付けなのだから、『すべき』という発想は捨てましょう」という教えは、人が「道徳」を手放すことを促すので危険な教えです。実際、このような思想を信仰するが故に「道」を誤る人間は少なくありません。

特に、「道徳」の考え方から不自由さを感じる人は、「道徳」から解放されることを無意識に「欲望」しやすいので、そういう人はこういった罠に捕まりやすいです。「道徳」の本質的意味や「道徳」と「義務」の違いが常識化されていない世の中だからこそ、こういった罠に人は捕まりやすい現状があります。

「道徳」は他人が決めた価値観の押し付けなどではなく、「善悪」が生まれた時から自ずと決まっているものです。「考え(義務)」は人間が決められるものであるのに対して、「真実(道徳)」は人間が決めるものでもないと言えます。

より良く生きていくために「道徳」は学ぶべきです。しかし、「道徳」を「義務」のように感じると、「道徳」の「奴隷」になるだけで、自分自身の「意志」で「善」を「選択」をしながら生きていくことができなくなります。この罠もとても危険な罠です。

というのも、我々人間は自分自身の「意志」で「選択」をすることによって、本当の意味で「愛」を「選択」することができるからです。逆に言うと、他者から押し付けられる「義務」によって「愛」を「選択」することはできません。「愛」の前提には、その人間自身の「意志」が必ず必要だからです。

また、「道徳」を「義務」のように感じていると、その「道徳」の持つ深い意味に対して、自分自身の「意志」によって「同意」することも難しくなってくるので、「道徳」を自分自身の「信念」にすることも難しくなります。この構造は「義務」は「信念」にはなり得ないということでもあります。

「信念」とは「自分」の「意志」によって、自らが「すべき」と決めることであるのに対して、「義務」は「他者」からの「支配」によって、他者が「すべき」と決めることです。「道徳」はそもそも「義務」でも「信念」でもありませんが、「道徳」を「信念」にすることは大事です。

「道徳」の持つ深い意味を本当に理解できたならば、その「道徳」の内容に深く「同意」することに繋がりますから、それは「従う」べき「義務」ではなく、自らの「意志」によって実現していきたい「信念」となります。

例えば、「人は世のため人のために生きるべき」という「道徳」について、何故「人は世のため人のために生きるべき」なのかを分かれば分かる程、「世のため人のために生きる」ことの「価値」が見えてくるので、その「道徳」の深い意味が分かるようになり、「世のため人のために生きたい」と思いやすくなります。つまり、「真実」を学ぶことは我々が正しく生きることを促します。

逆に、何故「人は世のため人のために生きるべき」なのかを全然分からなければ、「世のため人のために生きる」ことの「価値」は見えてこないので、その「道徳」の深い意味が分からず、「世のため人のために生きたい」と思えません。つまり、「道徳」の持つ「すべき」という発想を「したい」にすることはできません。

親が子に与える言いつけのような形で「道徳」と向き合っていても、親の言いつけに「従う」子のようになってしまうだけで、「道徳」を「義務」のように感じてしまいやすいです。つまり、盲目的に「道徳」に従っていても、良い形で正しく生きることは促されませんし、「道」を誤る可能性も下がりません。

「道徳」を「義務」のように感じてしまうと、「道徳」に対する「嫌悪」が生まれ、その「嫌悪」が「道徳」の深い意味を学ぶことを止めます。それに対して、正しく生きるために「道徳」を学ぼうとするなら、「道徳」の持つ深い意味がどんどん分かるようになりますから、より正しく生きることが実現されやすくなります。

つまり、「道徳」を学ぶ前提には「正しく生きたい」と思う心が必要です。だからこそ、「道徳」を学ぶ以前に「正しく生きたい」と思う心を養う必要があり、それは我々の日常で簡単に実現できます。

何故ならば、我々の日常は、自分自身の「未熟」が誰かを苦しめ、自分自身の「成熟」が誰かに喜びを与えるということの連続だからです。そういった経験を見つめる視線と少しの「善意」さえあれば「より成熟した人間になりたい」と多くの人が思えるはずです。

その心が、自らの「意志」によって「道徳」を学びたいと思う心に繋がり、そこから「道徳」を学ぶことが始まります。つまり、正しく生きる上で必要な知識の獲得を目指すようになります。