「愛」は「真実」を見抜きやすいのに対して、「欲望」は「真実」を見抜きにくいです。その構造を説明します。

「愛」を抱いて「真実」を知ろうとする時、動機は「自分のため」ではなく「他者のため」なので、自分にとって都合のいい「情報」も都合の悪い「情報」も、その「情報」が正しいかを冷静に判断できます。こういった判断の態度を「問い」の態度と言います。

それに対して、「欲望」を抱いて「真実」を知ろうとする時、動機は「相手のため」ではなく「自分のため」なので、自分にとって都合のいい「情報」に対しては「信じたい」と思い、自分にとって都合の悪い「情報」に対しては「信じたくない」と思います。この「信じたい」という態度は「依存」であって、「信じたくない」という態度が「疑い」に繋がります。「依存」にしても「疑い」にしても、冷静ではなく感情的なので、その感情によって思考が狂いやすく、判断を誤ります。

つまり、「依存」に堕ちると、その「情報」が正しいかどうかを見極めたいという気持ちよりも、その情報が正しいと思いたいという気持ちが強くなるので、間違った「情報」であっても信じてしまいやすいです。また、「疑い」は「問い」とは異なり、予めその「情報」に対する「不信感」があるので、必要以上に「何か裏があるのではないか?」「こう言っているけれども、こんな例外があるんだけどなー」といった疑問を作り始めます。そのことによって、「真実」が「真実」に見えなくなっていきやすいです。

このような意味で、「愛」は「真実」を知ることに繋がりやすいのに対して、「欲望」は「真実」を知ることに繋がりにくいことを理解して頂けると幸いです。正しい判断を行なうということと、どういう気持ちを抱いているのかということは密接な関係を持っています。そして、「問い」の気持ちが正しい判断を行う上で最も優れている気持ちです。だからこそ、そういった「問い」の気持ちに近づくことができる「愛」は「真実」を明らかにし、「問い」の気持ちから遠ざかる「欲望」は「真実」を見えなくしていきます。

※補足説明

ただ、「愛」を抱いているが故に「真実」を見抜くことがしづらくなることもあります。例えば、自分の愛する人にとって都合の悪い「真実」を「真実」と思いたくなくなる時などです。ですから、「真実」を見抜く際に大事なことは、感情的な「愛」ではなく、冷静な「愛」を使うことです。そういうスタンスが良い「問い」の姿勢に繋がります。