自分に対してどのような印象を抱くかは生き方に大きな影響を与えるからこそ、自分自身をどのように思うのかについて理解を深めることは大事です。このページでは「自分が好き⇔自分が嫌い」と「自分を認める⇔自分を認めない」という二つの観点について説明していきます。


【自分が好き(嫌い)≠ 自分を認める(認めない)】

「自分が好き」ということと「自分を認める」という心は異なります。これは「自分を嫌う」ということと「自分を認めない」ということが違うということでもあります。

もちろん、「自分を認められないから自分が嫌い」と思う人もいますが、本質的に「嫌う」ことと「認めない」ことは異なる心です。それと同様に、「自分を認めているから自分が好き」と思う人もいますが、本質的に「好き」と「認める」は異なる心です。

我々人間が何か行動を起こす時に「自信」が必要なことは多く、「自信」を抱くためには「自分を認める」という心が必要です。逆に言うと、「自分を認めない」という心を抱いていると、行動を起こしづらくなるので、自分が自分を「認められる」ような自分を実現していくことはとても大事なことです。

それに対して、生きていく上で必ずしも「自分が好き」である必要はありません。何故ならば、「自分が好き」でなくても、何か行動を起こすことは可能ですし、「幸せ」になることもできるからです。

とは言え、「自分が嫌い(自己嫌悪)」という心に囚われるのは非常に危険です。何故ならば、それは破滅的な行動を起こすことさえも促しますし、「幸せ」からも遠ざかりやすいからです。

「自分が嫌い」という感覚は自分の「不幸」へ通じているだけでなく、他者を「不幸」にすることへも通じています。例えば、「自己嫌悪」が故に他者に八つ当たりする態度などは他人を「不幸」にします。このような意味で、「自分が嫌い(自己嫌悪)」の立場は非常に危険です。
 

【「自分が好き」でも「自分が嫌い」でもない立場の無難さ】

ただ、「自分が好き」でなければ「自分が嫌い」というわけでもなく、自分のことを「好き」とも「嫌い」とも考えずに生きている人はいます。

例えば、自分のことを重要視しない人は、自分に対して「好き」か「嫌い」かも考えずに生きています。逆に言うと、自分に執着する人は自分が「好き」か「嫌い」かを考えることに囚われやすいです。

自分が「好き」でも「嫌い」でもない態度は、自分が「好き」なことによって堕ちやすい「ナルシズム」や「優越感」に囚われることも、自分が「嫌い」が故に堕ちやすい「自己嫌悪」や「劣等感」に囚われることもないので、精神的には無難な態度です。

また、「自分が好き」な人は良くも悪くも「自分を認める」ことをしやすく、「自分が嫌い」な人は良くも悪くも「自分を認めない」ことをしやすい構造がありますが、「自分が好きでも嫌いでもない」人はより客観的に自分を見つめやすいという長所もあります。
 

【「自分を認めない」ことの必要性】

「自分を認めない」態度は「自分が嫌い」という心に通じやすいものですが、「自分が嫌い」と思わぬ範囲で「自分を認めない」態度は、必ずしも悪いことではなく「向上」へ通じやすい精神性です。

というのも、自分の何かを「認めない」ということは、自分の何かを「問題視」する視線であって、そういった「問題」を明確にすることは、その「問題」を「解決」する上で最初に大事な段階だからです。

「認める」に値しない自分を「認める」のは、過度な行動を促すので危険な方向性でもあります。だからこそ、「認める」に値する自分を実現するために、自分の中の「認められない」部分を特定しては、そういった「問題」を「解決」することを実現し、「認められる」部分を増やしていくことが、生きていく上での王道です。
 

【まとめ】

以上の話を整理すると、

自分が好き・・・必ずしも必要ではない(良くも悪くも、自分を認めやすくもなる)
自分が嫌い・・・基本的に危険な態度(良くも悪くも、自分を認めにくくもなる)
自分が好きでも嫌いでもない・・・無難な態度(客観的に自分を見やすい)

自分を認める・・・必要な時は少なくない(ただし、過度に自分を認めるのは危険)
自分を認めない・・・自己嫌悪に堕ちない範囲であれば、成長のために必要

自分のことをどのように捉えるのかは大事であって、「好き」⇔「嫌い」、「認める」⇔「認めない」という二つの対立軸は非常に大事な要素です。

その要素のそれぞれがどのような意味を持つのかをこの文章を通して理解して頂き、適切に自分自身に対する印象を抱きながら生きていって頂けると、人生はより豊かになると思っています。