「誇り」は大きく分けて二種類あり、それは「他者のため」の「誇り」と「自分のため」の「誇り」です。つまり、「愛」の「誇り」と「欲」の「誇り」の二種類があります。

現代は、この二種類の違いを踏まえずに「誇り」や「プライド」といった言葉が使われているので、ますます「誇り」という言葉の本質が見失われています。しかし、「誇り」の本質を知ることは、「誇り」と共に生きていく上でも、他の意味でも非常に重要なことなので、このページを通して理解を深めて頂けると幸いです。

どちらのタイプの「誇り」にせよ、基本的には「誇り」とは自分に関する「長所」に対して肯定的な見方をし、そのことから「喜び」を感じている意味では共通しています。しかし、「他者のため」なのか「自分のため」なのかで、その思い方はかなり異なります。

「他者のため」に生きる人が、自分自身の「長所」に「誇り」に思っている場合、何故それを「誇り」に思うことができるかというと、それが「他者のため」になるという「喜び」があるからです。自分自身が「他者のため」に何かができるという「喜び」とも言えます。

それに対して、「自分のため」に生きる人が、自分自身の「長所」に「誇り」に思っている場合、何故それを「誇り」に思うことができるかというと、それが「自分のため」になるという「喜び」があるからです。自分自身が「自分のため」に何かができるという「喜び」とも言えます。

例えば、「他者のため」の慈善事業で成功した人が「自分のことを誇りに思います」と言う場合、自分が「他者のため」に何かをしたことからくる「喜び」を感じているケースです。逆に、「自分のため」の金儲けをした人が「自分のことを誇りに思います」と言う場合、自分が「自分のため」に何かをしたことからくる「喜び」を感じているケースです。

この両方のケースで「誇り」という言葉が使われるが故に、「誇り」の本質が見失われがちなのですが、両者はかなり方向性の異なるものです。そして、この両者の違いを理解する上で役立つ言葉が「自尊心」です。

「自尊心」とは文字通り「自分を尊重する心」であり、「自分のため」の方向性を持つ言葉です。というのも、「自尊心」の背景には「自分のため」に自分を肯定したいという「自己肯定欲」があるからです。

世の中での「自尊心」という言葉の使われ方が非常に曖昧な部分もありますが、本来の「自尊心」とは「プライド」という言葉とよく結び付けられる言葉です。「自尊心」は「欲」の「誇り」と非常に近い心の動きだからこそ、よく結びつけられます。

というのも、「欲」の「誇り」の多くは、自分が「自分のため」に自分を肯定しようとする「欲」が根底にあるからです。つまり、「欲」の「誇り」が故に生まれる「喜び」の一つは「自分のため」に自分を肯定したいという「欲」の実現があります。

「自尊心を傷付けられる」といった表現がありますが、こういった心の動きが「自尊心」が「自分のため」を向いている心であることを教えてくれます。つまり、「自分を肯定したい」と思う「欲」があるからこそ、「自分を否定される」ことに「嫌悪」したり傷付く形になります。

逆に、「愛」の「誇り」の立場は「自尊心を傷付けられる」という心の動きは生じません。何故ならば、「愛」の「誇り」は「他者のため」を向く方向性であるからこそ、「自分を肯定したい」と思う「欲」が元々ないからです。

「欲」の「誇り」は「自分のため」に自分自身の存在を肯定するということを目指しやすいのに対して、「愛」の「誇り」は「他者のため」に他者を助けることを目指しています。「自尊心」というキーワードを基に、この二つの「誇り」の本質的違いを御理解頂けると幸いです。

「プライド」という言葉は「欲」の「誇り」のニュアンスに近い言葉であることを理解することも大事です。だからこそ、「プライド」という言葉は「負けず嫌い」という言葉と重ねて考えられやすいです。「負けず嫌い」は「自分のため」に「勝ち」を「欲望」する心だからです。逆に、「愛」の「誇り」は「自分のため」に「勝ち」を「欲望」することはなく、「勝ち」を「求める」ことがある場合も「他者のため」です。