我々人間は無意識にも「幸せ」を「求める」存在です。その意味について、「幸」という漢字は我々に大事なことを教えてくれます。
 

【何故「幸」は「手枷」なのか?】

「幸」という漢字は「手枷(てかせ)」を意味する象形文字から成り立ちます。というのも、我々人間にとって「幸せ」は「手枷」だからです。

つまり、人間は「幸せ」を「求める」ことを行ない、「幸せ」を「手放す」ことをしようとはしません。このような意味で、人間にとって「幸せ」は、我々の「自由」を奪う「手枷」の側面があります。

例えば、「幸せ」を実現した人間の多くは、その「幸せ」を失ってしまうような行動をしようとはしません。このような意味で、「幸せ」に対する「執着」が我々を「不自由」にします。

「執」という漢字も「幸」と「丸」から構成されている文字ですが、「丸」は跪(ひざまず)いた「人間」を表し、「執」全体で「手枷」を付けられ跪いた「人間」を意味する漢字です。

「幸」と「執」という2つの漢字がこのような関係性にあること自体が、我々「人間」にとって「幸せ」と「執着」がとても密接な関係にあることを物語っていますが、このような意味で、「幸せ」に「執着」することは、我々を極めて「不自由」にします。

逆に、「幸せ」に「執着」することなく、「幸せ」を「放棄」することができるなら、我々は「人間」を超えられます。「人間」が縛られている「手枷」を外し「自由」になるからです。
 

【「幸せ」と「善」】

「幸せ」に「執着」する人間は「善」の実践を限定してしまいます。何故ならば、己の実践できる「善」の中には「苦しい」こともありますが、「幸せ」に「執着」する人間は、自ら「不幸」を選ぼうとはしないからです。

逆に、「幸せ」を「放棄」した人間は「善」の実践を限定しません。何故ならば、己の実践できる「善」の中の「苦しい」ことも選ぶことができるからです。この点に、「幸せ」を「放棄」することの価値はあります。

しかし、「幸せ」を「放棄」してでも「善」を実践しようとする者であっても、本当の意味で「幸せ」を「放棄」することができていない人間は、自らを「不幸」にしてまで「善」を実践すべきでないところがあります。

というのも、心が「幸せ」に「未練」を残している限り、「不幸」はその人の道を誤らせるからです。何故ならば、そういった「未練」は、自分の「不幸」な状況に対する「嫌悪」へ繋がったり、他人の「幸せ」な状況に対する「嫉妬」に繋がりますが、「嫌悪」や「嫉妬」は人の道を誤らせる力を持つからです。

ただ、自分自身が望んでなくとも、自分が「不幸」を選ばなければ、自分の「愛」する誰かを守れないような場面がやってくることがあります。そういった時、「自分のため」ではなく、本当に「他者のため」を思えるなら、我々は自分の「不幸」を引き受けてでも「善」を実践できます。
 

【大きな「善」を実践しようとする者が考えるべきこと】

「幸せ」にはこのような側面があるからこそ、大きな「善」を実践しようとする者に必要なことは、本当の意味で「幸せ」を「放棄」することであり、それは一度選択したから終わることではなく、絶えずやってくる心の試練です。

つまり、「幸せ」に「執着」するか、「幸せ」を「放棄」するか、という選択は一時の選択によって固定されるものではなく、永遠に自分の心の状態によって変動するものです。

「幸」という漢字の成り立ちが示すように、我々「人間」は無意識にも「幸せ」に縛られやすい存在です。だからこそ、油断をしていると「手枷」をはめられてしまいます。

「幸せ」を「放棄」するということは、ある意味「自己犠牲」を選ぶということでもあります。そして、「自己犠牲」をしなければ実践できない「善」があるということも真実です。

より大きな「善」を実践しようとする者は、このような文脈で「幸」という漢字を理解することはとても大事なことだと思います。というのも、自分がどのような試練に晒されているのかということが、より見えるようになってくるからです。

結局我々はいつも、「自分」と「他者」のどちらを優先するのかを無意識にもいつも決めています。その最たる例が、「幸せ」に「執着」するか、「幸せ」を「放棄」するか、という選択とも言えます。