「自分が幸せでなければ、他人を幸せにできない」ということが時折言われることがありますが、このことに関する正しい構造を理解することは大変重要なことです。ですので、その構造を整理したいと思います。
 

【「自分が幸せでなければ、他人を幸せにできない」は間違い】

「自分が幸せでなければ、他人を幸せにできない」という思想は間違っています。というのも、「自分が幸せでなくとも、他人を幸せにすることはできる」からです。

例えば、ある素晴らしい名医が膨大な患者を抱えていたとします。そんな時、その名医は自分の「幸せ」を「放棄」してでも、起きてる時間のほとんどを使って患者のために尽くすことが、様々な人を「幸せ」にすることに繋がります。

逆に、その名医が自分の「幸せ」に「執着」し、患者よりも自分の時間を優先してしまった場合、治療できる患者も減ってしまい、本当は「幸せ」にできたかもしれない多くの人を「不幸」にしてしまいます。

このような意味で、「自分が幸せでなければ、他人を幸せにできない」という発想は間違っています。
 

【「自分が不幸にならなければ、他人を幸せにできない」こともある】

この医者の例を通して明らかでもありますが、場合によっては「自分が不幸にならなければ、他人を幸せにできない」こともあるという真実も大事です。

何らかの優れた「才能」を持つ人は、その「才能」を最大限に「他者のため」に活かそうとすることが、他者を「幸せ」にすることに繋がりやすいです。だからこそ、自分の「幸せ」を放棄してでも自身の「才能」を最大限に発揮しようとすることが、より多くの他者を「幸せ」にすることに繋がります。

ただ、もちろん、自分自身の命を削って、その「才能」を活かそうとすると、結果的に短命に終わってしまい、最終的に助けられる人数が限られてしまったりします。ですので、ケースバイケースではありますが、心身の健康を放棄することが、他人の「幸せ」を実現する上で好ましくないことは多いです。

このような意味で、自分の「幸せ」に「執着」することと、自身の心身の健康を保つことは異なります。そして、他者を「幸せ」にすることを願う人は、より多くの他者を「幸せ」にするために、「他者のため」に自身の心身の健康を保とうとすることは大事なことです。
 

【「己の心の弱さに負けた人間は他人を幸せにできない」は真実】

「自分が幸せでなければ、他人を幸せにできない」は間違った発想ですが、「己の心の弱さに負けた人間は他人を幸せにできない」ということは大変多いです。何故ならば、自分の「弱さ」に負けた人は、精神的にも行動的にもマイナスのことを起こしやすいからです。

心に「弱さ」を持つ人は困難な状況に直面した時、心が負けてしまって「自分のため」に囚われ、「他者のため」を思えなくなります。「他者のため」を思えなくなるからこそ、「他者のため」に「善」を実践することがしづらい状況が生まれます。

また、「苦悩」に心が負けてしまっていることが「ストレス」も生み出し、その「ストレス」がマイナスの出来事を生み出します。というのも、「ストレス」は我々の「才能」を奪うからです。

例えば、名医の例で考えると、その名医が心に「弱さ」を抱えている場合、患者のために過酷な労働をしていることに対して心が負けてしまって、「自分のため」を思うが故に、その状況に対する「嫌悪」に囚われてしまったりします。

そうすると、「患者のため」を思いづらくなりますし、その「ストレス」が仕事の精度を下げてしまい、良い形で患者を助けられなくなったりします。

「自分が不幸にならなければ、他人を幸せにできない」ことがあることは確かですが、大きな「善」を実践しようとすると「苦悩」も大きくなります。そして、「苦悩」が大きい程、人は「弱さ」に堕ちてしまいやすくなります。

そして、「不幸」という「苦悩」に心が負けてしまう人は少なくなく、心が負けてしまうなら、他者を「幸せ」にすることをしづらくなるからこそ、「自分が幸せでなければ、他人を幸せにできない」といった間違った思想も出てくるのですが、諸悪の根源は「不幸」ではなく「弱さ」です。

ですので、大事なことは自分がどの程度の「強さ」を持つ人間なのかを知ることです。そして、心が負けてしまわない範囲で、「他者のため」に「善」を実践することが、より多くの他者を「幸せ」にすることを促します。また、より多くの「善」を実践できるように、自身の「強さ」を養おうとすることも大事です。

「苦悩」に負けなければ「強さ」は養えます。しかし、「苦悩」に負けてしまえば「善」は止まってしまいます。そして、自分の「強さ」の許容範囲を少し超える程の「苦悩」を乗り越える時、「強さ」は養うことができますし、そのことによって実践できる「善」は増えます。

このような意味で、「善」を止めないように「苦悩」を大きくし過ぎないことと、「強さ」を養えるように「苦悩」も受け入れることのバランスを見極めることが、「他者のため」に生きる人にとって理想的なことです。
 

【「自分の幸せを実現している人の方が実践しやすい善がある」ことは真実】

「愛」にも種類がありますが、「幸せ」を実現している方が他者に「優しさ」などは実践しやすいところがあります。それとは対照的に、「幸せ」を実現していなくとも他者に「問題解決」を実践することはできます。

というのも、「問題解決の心」は「困難」に打ち勝とうとする時に使いやすい精神性だからこそ、心が「弱さ」に負けてしまわないようにする気持ちのまま、他者の「問題解決」もしやすいのに対して、「優しさの心」は「困難」に打ち勝とうとする時に使いにくい精神性だからです。

つまり、「不幸」な中でも「善」を実践しようとすると、その「苦悩」に耐える心が必要なわけですが、そういった耐える方向性の心でも実践できる「善」は「不幸」でもやりやすい形です。

それに対して、「苦悩」に耐える心とは性質の異なる心(「優しさ」や「元気」など)での「善」は「不幸」だと実践しづらいところがあります。というのも、気持ちの切り替えが必要だからです。

ですので、御自身が実践しようと思っている「善」の種類によって、自分が「幸せ」であった方がいいかは変わってきます。

例えば、「笑い」によって他人を笑顔にすることを目指す人は「幸せ」によって「元気」を維持した方がいいのに対して、「問題解決」によって他人を「幸せ」にすることを目指す人は、心が負けなければ「不幸」であっても「問題解決の心」を維持できます。

ただ、もちろん、「問題解決の心」と「優しさ」などの気持ちの切り替えが上手にできる人の場合、「幸せ」である必要はありません。様々な「愛」の使い分けができることが我々人間にとっての理想なので、この境地に至ることは我々の理想でもあります。
 

【最後に】

「幸せ」を実現することは良いことです。というのも、「幸せ」を実現した人は「嫌悪」といった心を抱きづらいが故に、「平和」な世界を形成していくからです。

しかし、自分の「幸せ」に「執着」して、他者の「幸せ」を「放棄」することは良くないことです。というのも、「幸せ」に「執着」する人は「自己中心的」になりやすく、「平和」な世界の形成を遠ざけるからです。

この文章では、「自分が幸せでなければ、他人を幸せにできない」と言われることに関して、具体的な構造を説明していきましたが、「幸せ⇔不幸」「強さ⇔弱さ」「問題解決⇔優しさ」など様々な要素について理解を深めて頂き、それを意識化して頂けると嬉しく思います。
 

※余談

可能な限り「他者のため」に「問題解決」を実践していこうとする人間は、自身の「才能」が何なのかを探し、その「才能」を磨いていくことが必要ですし、自身の「強さ」がどの程度なのかを知り、その「強さ」をさらに磨いていくことが必要です。

そして、自分の「幸せ」を放棄してでも、他者の「幸せ」のために生きることが必要ですし、できるだけ、その「善」を実践していけるように、心身の健康管理を徹底していく必要があります。

「善」を実践していくと、必ず「苦悩」がやってくるわけですが、そういった時に自身の「弱さ」に負けず、つまり、「自分」に囚われることなく、「他者のため」を思い続けることが必要です。

また、理想的には、「問題解決の心」によって「苦悩」に心が負けないようにしつつ、その上で、気持ちを切り替えて「優しさの心」で他人を支えたり、「元気の心」で他人を笑わせたり、といったことまでを実践できる境地を実現することです。

例えば、ナウシカなどはそういった境地に辿り着いている存在ですし、このような構造が見えてくると、ナウシカが我々人間にとってどのように理想的な存在なのかが見えてくるので、このような構造を理解することは大変大事なことです。