「恨み」と「許し」
2021.05.11 心の成り立ち(入門)
「恨む」ことと「許す」ことは、様々な意味で真逆の性質を持ちます。そういった様々な意味を知ることが、「恨み」と「許し」の両方について理解を深めることになりますし、「恨み」の危険性と「許し」の重要性について深く知ることに繋がります。
【「醜さ」と「美しさ」】
「恨むこと」は人に「醜さ」を与えます。何故ならば、「恨み」の根源にある「嫌悪」は「醜さ」を持つからです。それに対して、「許すこと」は人に「美しさ」を与えます。何故ならば、「許し」の根源にある「愛」は「美しさ」を持つからです。
「恨み」は「相手を苦しめたい」という「邪悪」な「欲望」を与えます。そして、「攻撃」により「相手を苦しめる」ことから得られる「快楽」も「邪悪」です。このような意味で、「恨み」が生み出す「邪悪」な心は「醜さ」の道へ通じています。このような意味で、「恨み」に同調すればするほど、人格が「醜さ」を抱えていきます。
「美しくなりたい」と思う女性は少なくないにも関わらず、「恨み」に同調してしまう女性は現代は少なくありません。例えば、平日のランチ時に「恨み」の発散のために「愚痴」を言う女性は少なくありませんが、言葉に出すということは人格に大きな影響を与える行為なので、自ら「醜さ」を養ってしまっています。
そういったことの根底にあるのは、「恨み」が「醜さ」を人間に与えるという当たり前の「真実」が「常識化」されていないことがあります。また、「愛」が「美しさ」を人間に与えるという当たり前の「真実」の意味を深く我々が「意識化」していないことがあります。
ですから、「恨み⇄許し」における「醜さ⇄美しさ」の関係性をこの機会に「意識化」して頂けると幸いです。そして、「恨み」が自分の中に起こる時に、「自分は醜い人間になりたいのか」という質問を自分自身に投げかけて頂けると幸いです。
【「弱さ」と「強さ」】
心に「弱さ」があると「恨み」に堕ちやすくなります。何故ならば、自分が経験した「苦悩」を「受け入れられない」のは「弱さ」が原因であり、「受け入れられない」からこそ「恨み」に堕ちるからです。
逆に、心に「強さ」があると「恨み」に堕ちにくくなります。何故ならば、自分が経験した「苦悩」を「受け入れられる」のは「強さ」が原因であり、「受け入れられる」からこそ「恨み」に堕ちないからです。
心情表現で考えると分かりやすく、「弱さ」が故の「受け入れられない心」は「あんな酷いことをしやがって!」といった心であるのに対して、「強さ」が故の「受け入れられる心」は「あんなことは大したことではない」といった心です。
つまり、「弱さ」は「不寛容」をもたらすからこそ「恨み」を生むのに対して、「強さ」は「寛容」をもたらすからこそ「恨み」を生みません。「恨み」に関して「強さ(寛容)」と「弱さ(不寛容)」がこのような構造を持っていることを理解することは大変大事なことです。
何故ならば、こういうことが分かると、自分が「恨み」に堕ちてしまう背景には自分の抱えている「弱さ」が原因であることが見えやすくもなりますし、自分が「恨み」に堕ちることを止めようとする中で「強さ」が養えることも分かるからです。
「恨み」に堕ちる人の多くは「相手が悪い」という点ばかりに視野が向き、自分自身の心の「未熟」によって「恨み」に同調してしまっているという事実が見えなくなりがちです。だからこそ、このような構造を理解することで、「相手のせい」だけではなく「自分のせい」によっても「恨み」を抱えていることが見えやすくなります。
「美しくなりたい」と思っているにも関わらず「恨み」によって「醜さ」を養ってしまう女性と同様に、「かっこよくなりたい」と思っているにも関わらず「恨み」によって「ダサさ」を養ってしまう男性は少なくありません。
どんな酷いことをされたとしても、「そんなことは大したことではない」と捉えられる人の方が「器の大きさ」を持つ人間だと思いますし、それは「かっこよさ」に繋がっていると思います。「器が大きい」ということは「強さ」であり、本当の「かっこよさ」に繋がっているからです。
それに対して、ちょっとしたことで「ヒステリック」に「恨み」に堕ちることは「器の小ささ」の表れですし、それは「ダサさ」に繋がっていると思います。「器が小さい」ということは「弱さ」であり、本当の「ダサさ」に繋がっているからです。
男が「ヒステリック」になること程「ダサい」ことはないという認識を持てれば、男性が「恨み」に堕ちることを防ぎやすくなるので、大事な認識だと思います。
【「幼稚」と「成熟」】
小さな子供であっても「恨み」は抱くことができ、だからこそ、小さな子供であっても「恨み」による喧嘩は起こったりします。
つまり、こういった「恨み」に関することは小学生同士の喧嘩でも学ぶことができる教訓だからこそ、大人が「恨み」に堕ちることは本来あってはならない「幼稚」なことと言えます。
そのような意味では、「恨み」に堕ちてしまう背景には心の「幼稚」があることは多く、「許す」ことを実現する背景には心の「成熟」があることは多いです。
本来「大人」になっていくということは、人生の大事な教訓を学び、より良い人間になっていくことだと思います。そして、「恨み」が「不幸」や「問題」を生み出すことは子供の頃から学ぶことができることですから、本来「大人」であるにも関わらず「恨み」に堕ちてしまうことは「恥」として認識されるべきことです。
このような意味で、もし「恨み」に堕ちてしまうことを「恥ずかしいこと」だと我々が認識していけるなら、我々が「恨み」に堕ちることは防ぎやすくなるはずです。そういう構造を作り出していく上で大事なことは、男女問わず「恨み」が「幼稚」であるということを認識することです。
【最後に】
残念ながら、年々この国の「恨み」は増幅しています。夫婦間での「恨み」、家族間での「恨み」、友人・知人間での「恨み」といった形で、「醜さ」を持つ争いが増えています。
本来、親しい間柄は「愛」を育むべき関係性であるにも関わらず、様々な心の要因によって、「憎しみ(恨み)」を助長する関係性になってしまうことは非常に嘆かわしいことです。
このような構造を終わらせるためにも、我々が「恨み」の本質について理解を深めることはとても大事なことだと思います。そういうことが、適切な子育ても促すからです。
幸か不幸か「恨み」に関する教訓は子供の頃から学ぶことができるからこそ、子供に向けて大人は教えることができるはずです。
例えば、もし、ある子がある子を殴った時に、その子が「だってアイツが先に殴ったんだ!」と言ったなら、「殴られたからといって、恨んだり、攻撃したりしていい理由にはならないでしょ?必要なことは許すことよ」と言ってあげることがとても大事です。
もう少し大人に近い子供に対しては、「世の中、辛いことも不公平なことも無くならなければ、悪人が完全にいなくなることもない。だから、酷いことをされてしまう可能性が無くなることはない。けれども、酷いことをされた時に恨みに堕ちてしまったら、その恨みはあなた自身を苦しめ続ける。だから、大事なことは、どんなに酷いことをされても恨みに堕ちない強さを持つことだし、その強さが幸せへ通じてる」と言ってあげることもできると思います。
このような形で、その子の年齢に合わせた形で教えていき、そういうことを積み重ねていく中で、この社会で実際に起こっている「恨み」の増幅を止めやすくなっていけるはずです。だからこそ、まず大人が「恨み」に関して理解を深めることがとても大事です。