「寂しさ」の構造
2022.10.04 心の成り立ち(入門)
「寂しさ」の本質を理解するためには、誰かと共にいることを望む「愛」や「依存」といった心との関係性を理解する必要があります。ですので、このページでは、「愛」と「寂しさ」と「依存」の関係性について説明していきます。
【「寂しさ」の定義】
誰かと共にいることは、その相手に対する「愛」を感じることを促す側面もあり、その方向性が我々にとって理想的です。というのも、「愛」を抱いていれば、相手を「幸せ」にすることも実現しやすくなりますし、自分の「愛」を大きくすることにも繋がるからです。
しかし、「寂しさ」を抱えていると、誰かと共にいることを求める「欲望」を抱きやすくなってしまうので、誰かと共にいることが「依存」の時間になりやすくなってしまいます。つまり、「寂しさ」は「愛」を止め、「欲望」や「依存」を促す性質を持っています。
だからこそ、「寂しさ」を克服することは大事ですし、「孤独」に耐える「強さ」があれば克服できます。逆に言うと、「孤独」に耐えられない「弱さ」が「寂しさ」に同調してしまう心を生み出します。
つまり、「寂しさ」とは「孤独」に耐えられない「弱さ」が故に生まれる心です。その「弱さ」が「自分のため」に「孤独」を抜け出そうとする心を生み出し、「欲望」や「依存」に繋がっていきます。
【「愛」と「寂しさ」と「依存」の違い】
しかし、誰かに「愛」を抱いていると「その相手と共にいたい」と思う結果として、「あなたと会えなくて寂しい(I miss you)」と思うことはあると思いますが、これは「寂しさ」というよりも「愛」の性質です。
それに対して、「寂しさ」の場合、相手と会うことが目的なのではなく、自分の「孤独」を終わらせることが目的となるので、相手が誰でも良くなってしまうケースは少なくないです。
このように、「愛」は自分の「愛」する特定の誰かと共にいることを求めるのに対して、「寂しさ」は自分の「孤独」を終わらせてくれる相手なら誰でもいいと思いやすい違いがあります。
ただ、相手に「依存」していても、「あなたと会えなくて寂しい(I miss you)」と思うことはできるので、特定の誰かと共にいることを望むからといって、必ずしも「愛」であるわけではなく、それが「依存」の可能性はあります。
「依存」は「自分のため」に相手を「利用」する感覚なので「不純」な感じがします。それに対して、「愛」は「自分のため」に相手を「利用」するような感覚ではなく「純粋」な感じがします。
また、「依存」は「自分のため」なので「わがまま」になりやすいのに対して、「愛」は「相手のため」を思う心に繋がるので「わがまま」にはならないところがあります。
整理すると、共にいる相手が誰でもいいなら「寂しさ」、特定の誰かと共にいたい時に、それが「自分のため」なら「依存」、「純粋」な心で「相手のため」を思う心があるなら「愛」という形です。
【最後に】
「孤独」に耐えられない「弱さ」が「寂しさ」を生み出し、その「寂しさ」が「依存」へ通じ、「依存」は「自分のため」の「わがまま」な態度を生み出しやすいという構造を理解することはとても重要です。というのも、このような構造が見えてくると「弱さ」の危険性が見えてくるからです。
逆に、「孤独」に耐えられる「強さ」が「寂しさ」を止め、「愛」を抱くことを促し、「愛」は「相手のため」を思う態度を生み出しやすいという構造を理解することもとても重要です。というのも、このような構造が見えてくると「強さ」の重要性が見えてくるからです。
様々な心の動きについて同様に言えますが、心の「弱さ」は無自覚に誰かを苦しめる心に繋がりやすいところがありますが、それは「寂しさ」についても同様です。というのも、「寂しさ」が故の「依存」は自分だけでなく他者を苦しめるところがあるからです。
「愛」の方向へ向かうためには、どこからどこまでが「愛」なのかを理解する必要があるからこそ、「寂しさ」「依存」との違いについて書かせて頂きました。このページを通して、「寂しさ」に関連する心について、このような構造があることを理解して頂き、「愛」の方向へ心を向けることに御活用頂けると大変嬉しく思います。