生きていると良いことも悪いこともありますが、それぞれの場合にどのような心を抱くのかということは大変重要な問題です。

というのも、どういう心を抱くかによって、その人の人格がどのようなものになってくるかも変わってきますし、どういう心を抱くかによって、その次に生まれてくる心も変わってくるからです。そして、そういったことの積み重ねによって、その人やその人の周りの人の人生も変わってくるからです。
 

【「喜び」と「快楽」】

「肯定的」な心を抱く場面においては、「喜び」を抱くことが好ましく、「快楽」を抱くことは好ましくありません。というのも、「喜び」の生まれる前提には「愛」があることが多く、「快楽」の生まれる前提には「欲」があることが多いからです。

「愛」を抱いているなら、自分が「愛」する相手に良いことが起こった時などに「喜び」は生まれます。それに対して、「欲」を抱いているなら、自分が「欲」の実現をする時などに「快楽」が生まれます。

このような観点で「喜び」と「快楽」という言葉を理解することはとても大事です。というのも、このような意味で「喜び」という言葉が意味する心と「快楽」という言葉が意味する心を「分ける(分かる)」ことができていれば、自分が「喜び」と「快楽」のどちらを抱いているのかを感覚的に見分けやすくなるからです。

「喜び」と「快楽」は「愛」と「欲」という観点で「分ける」だけでは不十分で、「愛」と「欲」以外の観点で「分ける」ことも大事です。そのもう一つの観点が「純粋」か「不純」かです。

例えば、公園などで子供が健康的に楽しそうに遊ぶ時、彼らは「快楽」ではなく「喜び」を感じています。彼らは「愛」を前提にしているわけでもなく「喜び」を感じているのは、心が「純粋」だからです。

「欲」と違って「元気」という心は「純粋」で、子供は「元気」で遊ぶからこそ「喜び」を感じています。「元気」と「欲」は似た部分もあるので混同されやすいのですが、「元気」は「喜び」を生み、「欲」は「快楽」を生むという違いは明確です。

「喜び」と共に生きるなら、人格はより良いものとなりやすいですし、「幸せ」も実現しやすくなります。何故ならば、「愛」も「元気」もとても健全な精神性であって、「幸せ」へ通じる精神性だからです。

「喜び」は「快楽」と違って「依存」に繋がりにくく、そのような意味でも「不幸」へ繋がりにくいです。例えば、外で遊ぶことが好きな子供は「依存」によって遊びたくなっているわけではなく「元気」によって遊びたくなっています。

それに対して、「快楽」と共に生きるなら、人格はより悪いものとなりやすいですし、「幸せ」も実現しにくくなります。何故ならば、「欲」はとても不健全な精神性であって、「不幸」へ通じる精神性だからです。

「快楽」は「喜び」と違って「依存」に繋がりやすく、そのような意味でも「不幸」へ繋がりやすいです。例えば、パチンコが好きな大人は「依存」によって遊びたくなっているわけで、そういう「依存」が「欲望(勝ちたい)」と「嫌悪(負けは嫌だ)」の行き来に取り憑かれることを促します。
 

【「悲しみ」と「不満」】

「否定的」な心を抱く場面においては、「悲しみ」を抱くことが好ましく、「不満」を抱くことは好ましくありません。というのも、「悲しみ」の生まれる前提には「愛」があることが多く、「不満」の生まれる前提には「欲」があることが多いからです。

「愛」を抱いているなら、自分が「愛」する相手に悪いことが起こった時などに「悲しみ」は生まれます。それに対して、「欲」を抱いているなら、自分が「欲」の実現をできない時などに「不満」が生まれます。この「不満」とは「嫌悪」のことです。

「悲しみ」と「不満」も「愛」と「欲」という言葉で「分ける」だけでは不十分で、「純粋」か「不純」かという観点で「分ける」ことが大事です。

例えば、子供が転んで怪我をして泣いている時、彼らは「不満」ではなく「悲しみ」を感じています。彼らは「愛」を前提にしているわけでもなく「悲しみ」を感じているのは、心が「純粋」だからです。

「悲しみ」は「不満」とは異なり「純粋」です。それに対して、「不満」が「悲しみ」よりも「不純」な理由は、「不満」の中には「嫌悪心」があるからです。そして、「嫌悪心」は何かを「恨む心」や「憎む心」とも繋がっています。

「不満」を抱いてしまった人間は、その「不満」の矛先を他者に向けやすくなってしまいます。何故ならば、「嫌悪心」がそもそもそういう性質を持つ心だからです。

つまり、「悲しみ」はその本人が「苦しみ」を感じることで終わるのに対して、「不満」はその本人以外も「苦しみ」に巻き込まれる危険性を持ちます。

だからこそ、「否定的」な心を抱かざるを得ない場面を経験している時、「悲しみ」に留めることが好ましく、「不満」に同調することは好ましくありません。
 

【最後に】

大事な点を整理すると、「快楽」よりも「喜び」が好ましいのは、その本人が「幸せ」になることを促すからであって、「不満」よりも「悲しみ」が好ましい理由は、その本人の周りの人が「不幸」になることを阻止しやすいからです。

ここまで「愛」と「欲」、「純粋」と「不純」という観点で説明してきましたが、「正気」か「正気」でないか、という観点でも見分けることができます。「愛」や「元気」は「正気」であるのに対して、「欲」や「嫌悪」は人間を「正気」でなくさせるからです。

この文章を通して、人生の肯定的な場面では「快楽」ではなく「喜び」を抱き、人生の否定的な場面では「不満」ではなく「悲しみ」を抱くように心掛けることの価値を理解して頂けると幸いです。
 

※余談

このような構造を理解すると、転んで怪我をして泣いている子供が「悲しみ」を学ぶことの必要性も見えてきます。彼らは「否定的」な心を抱かざるを得ない場面において、「不満」ではなく「悲しみ」を抱く癖を付けているとも言えるからです。

子供は子供だからこそ、彼らは「純粋」にその「痛み」を「悲しむ」ことができます。こういう心の動きは大人になるとしづらいことだからこそ、子供の内にこういう心の動きを学ぶことは大事です。

生きていれば必ず「否定的」な心を抱かざるを得ない場面はあります。そういう時に、「不満」ではなく「悲しみ」を選ぶために、ある程度「悲しみ」を抱くことができる人格を作っておくことは生きていく上で大事なことです。

もちろん、「悲しみ」に飲み込まれてしまったような人格になってしまうことは問題ですが、「不満」に勝てる程の「悲しみ」を獲得することは大事なことです。

「元気」にせよ、「悲しみ」にせよ、子供は正解を知っています。それに対して、物事の意味を見失いがちな時代に生きている我々大人は子供が選んでいる正解を止めがちです。こういうことが分かってくると、大人が子供を「支配」することが、子供の未来にとってどれだけ良くないことなのかが見えてきます。

この文章を通して、子供に関するこのようなことについても理解を得て頂けると幸いです。