「飛ばねぇ豚はただの豚だ。」

このセリフは『紅の豚』というタイトルそのものを象徴している言葉で、その意味が分かったなら、我々はこの映画を通してより多くを学ぶことができます。

「食欲」と「怠惰」に取り憑かれると人は「豚」のような見た目になっていくことに象徴されるように、「豚」とは「闇」の動物です。だからこそ、ポルコも様々な「闇」を持っています。

しかし、ポルコは「光のための闇」を実践しています。賞金稼ぎとして自分が金を得るという「欲」のために、盗賊を退治する様などはそのことをよく象徴しています。

そして、この「飛ばねぇ豚はただの豚だ」という言葉は「ただの豚なんかになる気はない」という「ナルシズム」ですが、この「ナルシズム」という「闇」も1つの動機として、彼は飛ぶことを選び、そのことが様々な良い影響を与えています。

ただ、彼の中にも「光」はあり、それは誰かを「守ろう」とする「闘いの心」です。映画後半の中で、彼はフィオを守るためにカーチスと「闘う」ことを実践していますが、そのことは彼の「闘いの心」を象徴しています。

また、たとえ敵であっても殺さないようにする姿勢もまた、相手を「守ろう」とする心であって、深い「闇」に彼自身が入ってしまうことを防いでいる彼の「光」でもあります。

『鬼滅の刃』の煉獄杏寿郎に象徴されるように、「闘いの心」とは「火の気持ち」です。だからこそ、その「気」の色は「火」の色をしています。そして、「紅」とは「赤」をより「黒」に近づけた色であり、「赤」は「闘いの心」を象徴する色、「黒」は「闇」を象徴する色です。

ポルコが「火の気持ち」と「闇」を良い形で司る「豚」であることが分かり、「紅」という色の立場を分かった時、『紅の豚』というタイトルがどのような意味でポルコの本質を捉えているのかが分かるようになります。彼は「闘う豚」です。

この映画のキャッチコピーは「カッコいいとは、こういうことさ。」でしたが、ポルコは見た目が「豚」であるにも関わらず、「かっこいい」です。だから、ポルコを通して我々は「かっこよさ」についても理解を深められます。

例えば、カーチスのように「浅はか」な「ナルシズム」に囚われる人の多くは本質的な「かっこよさ」を手に入れられないのに対して、ポルコのように「深み」のある「ナルシズム」は「美学」という言葉のレベルに達するが故に、本質的な「かっこよさ」に達しやすいです。

カーチスは見た目がいいのに「かっこよさ」に達せず、ポルコは見た目が悪いのに「かっこよさ」に達しているというこの構造が、我々に「かっこよさ」の1つの本質を教えますし、正しい「ナルシズム」も教えます。

こういうことが分かれば、何故木村拓哉を多くの人が「かっこいい」と感じるのかも見えてきます。木村拓哉の「ナルシズム」には「深み」があり、なおかつ、ポルコのように「闘いの心」も強く、ポルコよりも圧倒的に見た目もいいからこそ、多くの人は木村拓哉を「かっこいい」と感じます。

「かっこよさ」を目指しているのに、精神的に「浅はか」だからこそ「ダサさ」に堕ちる人は少なくありません。今の社会では「ナルシズム」に関する「浅さ」と「深さ」の対立軸が常識化されていないからこそ、このような構造が生まれやすくなっています。

また、「光のための闇」とは何か、深い「闇」に堕ちてしまわないために「光」を保つことが如何に重要なのか、といったことも全然意識化されない中を我々は生きています。

つまり、これらのことは『紅の豚』という本当に素晴らしい作品を通して我々が全然学ぶことができていないことを象徴しています。それは大変もったいないことですし、間違ったことでもあります。

ポルコの立場を理解することだけでも、『紅の豚』は我々に様々な真実を教えてくれます。その他にも、この映画は良い対立と悪い対立の違いなど、様々な重要な要素に満ちている作品です。

こういったことが見えてきた時、世界中の様々な映画監督の中でも宮崎駿が如何に優れた監督なのかということが分かってきますし、セリフを覚える程に彼の作品を見ることの大事さも見えてきます。

宮崎駿作品の概要については、こちらに書いています。
http://junashikari.com/hayaomiyazaki/hayaomiyazaki/