「双方動くな!動けば王蟲の皮より削り出したこの剣がセラミック装甲を貫くぞ!(ユパ)」
「そなたの中には夜叉がいる。この娘の中にもな。(アシタカ)」

宮崎駿作品の中で、ユパとアシタカの共通する部分を理解することはとても大事です。というのも、この二人の共通する部分を理解することで、「水の気持ち(問題解決の心)」に対する理解は深まるからです。

ジルの死を目の当たりにしたナウシカは、凄まじい「闘いの心(火の気持ち)」が故にトルメキアの兵士達に攻撃をかけますが、ユパが間に入り、「闘い」は止まることができます。

また、サンとエボシが「闘いの心(火の気持ち)」が故に闘っている時、アシタカは間に入り、この言葉を投げかけ、「闘い」を止めます。

この2つの発言は、「問題解決の心(水の気持ち)」によって「闘いの心(火の気持ち)」を「問題」と捉える姿勢を表しています。この2人が何故それらの「闘い」を「問題」と考えているのかもちゃんと分かるように映画はできています。

この言葉の後、ユパは「今闘えば村人は皆殺しになろう。生きて機会を待つのだ」とナウシカに言い、アシタカは「皆見ろ!これが身の内に巣食う憎しみと恨みの姿だ。肉を腐らせ、死を呼び寄せる呪いだ!これ以上、憎しみに身を委ねるな!」と人々に言います。

どちらの場合も、「闘い」の先に多くの「犠牲」が出ることが分かっているが故に、その「闘い」を「問題」と捉えています。「犠牲」は「問題」だからです。

「闘い」は「感情的」が故に「犠牲」を生みやすいところがあり、「問題解決」は「冷静」が故に「犠牲」を生みづらいところがあります。この対立軸は、「闘いの心(火の気持ち)」と「問題解決の心(水の気持ち)」が本質的に持っている対立軸です。

また、「問題解決の心(水の気持ち)」は「冷静」に「問い」を立てるが故に、物事の本質がよく見えやすいのに対して、「闘いの心(火の気持ち)」は「感情的」に「暴走」しやすいが故に、物事の本質が見えづらいところがあり、その対立軸を伝える場面でもあります。

このような「水」と「火」の本質を、この2本の映画の中の「物語」を通して、また、ユパとアシタカという「水の人」の姿を通して理解することができたなら、我々はこの本質を適切に学ぶことがしやすくなります。

というのも、「物語」の中でこのような本質を理解することで、その「重み」を感じやすくなり、「水の人」の発言を通して理解することで、どのように「問題視」することが理想的なのかが感じられるからです。

アシタカは「水の若者」であるのに対して、ユパは大人の「水の大人」です。だからこそ、「若者」はアシタカを通して、自分が抱くべき理想的な「水の気持ち」が何なのかが分かりますし、「大人」はユパを通して、自分が抱くべき理想的な「水の気持ち」を分かることができます。

このような「水」と「火」の対立軸に関する「真実」を「1+1=2」といった計算式のように理解しても、そのような理解には「重み」が全くないので、「水」と「火」の本質を「学ぶ」上では不適切です。

また、「闘いの心(火の気持ち)」が「問題」を生み出すことだけが描かれている作品を観ることは不十分です。というのも、それをどのように「問題視」すべきなのかは伝わらないからです。だからこそ、アシタカやユパのような人物の言動を見ることが大事です。

このようなことが分かった時、アシタカやユパを通して、このような本質を理解することの重要性が分かるようになりますし、宮崎駿作品の価値もより分かるようになります。