銭婆「千尋・・・いい名だね。自分の名前を大事にね。」
湯婆婆「千尋というのかい・・・ぜいたくな名だね。今からおまえの名前は千だ。」

映画『千と千尋の神隠し』は、「名前」の重要性についても触れられている作品です。特に、湯婆婆と銭婆の「名前」に関する発言の対比は意味を持ちます。湯婆婆は「名前」を奪う存在、銭婆は「名前」を尊重する存在です。

我々の名前には、その人自身のことがよく表現されています。そして、自分の名前と自分自身の存在の一致を実現することは良いことであり、自分の名前を見失うことはとても恐ろしいことです。というのも、自分の名前を見失うことは自分が何者(であるべき)なのかを見失うことだからです。

「千尋」という言葉は「深い」という意味を持つ言葉で、「深」という漢字が三水を持つように、「水」を象徴する名前です。そして、千尋はハクを助けるために自らの「問題解決の心」=「水の気持ち」を強め、自分の名前を実現していきます。

ハクも千尋と同様に、湯婆婆に名前を奪われた存在として描かれますが、彼は千尋との出会いによって「饒速水小白主(にぎはやみこはくぬし)」という名前を思い出し、本来の自分を取り戻します。ハクは「水の気持ち」を司る川の神だった存在として描かれています。

映画前半の千尋は「千尋」という名前の実現をしていない人物として描かれますが、その大きな要因は彼女が「自分のため」に生きていたからです。それに対して、「千尋」という名前の実現に達した大きな要因は「他者のため」を強く想い、そのために全力を尽くしたからです。

「他者のため」を本当に願い動く時、我々は本来の自分の持っている能力を開花させ、そのことにより自分の名前と自分自身の存在の一致を実現できます。

逆に、現代社会は、「自分のため」に生きる人が多くなってしまっているが故に、自分の名前と自分自身の存在の一致を実現できていない人が少なくありません。それは言い換えると、自分の名前の意味を見失っている人が多いとも言えます。

自分の「名前」は自分の「立場」そのものであって、自分の「役割」とも言うことができ、そういった「役割」に達することを促すのが「愛」や「善意」です。本来の自分に達するということと名前の関係性について、『千と千尋の神隠し』がもっと活かされることを願うばかりです。

『千と千尋の神隠し』に限らず、宮崎駿作品は「聖書」と言ってもいい程に素晴らしい教えに満ちた作品です。しかし、現状としては彼の作品を通して大事なことを我々が深く学ぶことは実現しておらず、自分の解説がそういった問題を解決するものになることを願うばかりです。そのためにも、将来的には徹底的に解説をまとめ上げたいと思っています。

『千と千尋の神隠し』の解説はこちらに書いています。
http://junashikari.com/…/explanation-of-spirited-away…/

また、宮崎駿作品全体についての概要はこちらに書いています。
http://junashikari.com/hayaomiyazaki/hayaomiyazaki/