「これ以上犠牲を出したくないの、お願い。大婆様も分かって。この人達に従いましょう(ナウシカ)」
「たとえわが一族ことごとく滅ぶとも、人間に思い知らせてやる(乙事主)」

ナウシカが経験したことと同様に、ジルの死を知った村人達も「闘いの心(火の気持ち)」が故にトルメキアの兵士と闘おうとします。その時ナウシカはこの言葉を通して、村人達が闘おうとすることを止めます。

この点も「火の気持ち(闘いの心)」を「水の気持ち(問題解決の心)」によって「問題視」する姿勢の表れですが、その点に加えて、この場面では「従う」という要素が加わっており、大事な点です。

こういうケースにおいて「従う」ということは、「負ける」ことを意味しますが、この点にも「水の気持ち(問題解決の心)」と「火の気持ち(闘いの心)」の違いが表れています。

「火の気持ち(闘いの心)」は「勝つ」という目的ために「闘う」精神性だからこそ、自ら「負ける」ことはしないのに対して、「水の気持ち(問題解決の心)」は「問題解決」という目的を目指す精神性だからこそ、「問題解決」のためになるのであれば自ら「負ける」こともあります。

例えば、現実の世界でも、ある国とある国が戦争状態になった時、これ以上の「犠牲」を生まないために、敵の要求を飲むといったことはありますが、これは「水の気持ち(問題解決の心)」です。それに対して、「火の気持ち(闘いの心)」が故に、延々と「闘い」が続き「犠牲」が出続けるということもあります。

「闘い」は「犠牲」を生み出すだけでなく、アシタカが伝えるように「闘い」は更なる「憎しみ」を生み出し、その「憎しみ」が当事者達の心を蝕んでいきます。これは「闘い」の持つ負の要素であって、そういった負の要素を最大限に抑える上で必要なのが「水の気持ち(問題解決の心)」とも言えます。

特に、『風の谷のナウシカ』のこのケースは元々「負ける」ことが分かっているからこそ、「犠牲」を出さずに相手に「従う(負ける)」ことは適切な「問題解決」であって、ナウシカは「正しい」です。

それに対して、『もののけ姫』の乙事主は自分達が「負ける」と分かっていても、敵に「犠牲」を出させるために「闘い」を実践しますが、この結果として乙事主はタタリ神になりかけ、猪側にも人間側にも膨大な「犠牲」を生みます。つまり、乙事主は「間違い」を選んでいます。

乙事主の「たとえわが一族ことごとく滅ぶとも、人間に思い知らせてやる(乙事主)」という言葉が伝えるように、「闘いの心(火の気持ち)」は敵に対する「憎しみ」が故に敵を苦しめることを目指す精神性にも繋がりやすく、そういった性質が「負け戦」でも「闘う」ことを促し得るものです。

「闘いの心(火の気持ち)」がこの精神領域まで入っていくと、不必要な「犠牲」が生まれることを助長する心となってしまいます。だからこそ、「負ける」ことが分かっている場合は「問題解決の心(水の気持ち)」が必要です。

『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』はそれぞれの「正義」のために「対立」する人々が描かれています。その「対立」の構造のどこが共通で、どこが違うのかを分析していくことで、我々は「対立」に関する様々な精神性の本質を学ぶことができます。

その本質を学ぶことができた時、「負ける」ことが分かっている場合には「闘わない」という選択をするナウシカやユパの「正しい」選択の意味も、「負ける」ことが分かっている場合であっても「闘う」という選択をする乙事主の「間違った」選択の意味も、より深く見えるようになります。

というのも、「分析」によって「分ける」ことが「分かる」ことであり、「物語」を通して我々は物事の本質の「重み」を感じられるからです。だからこそ、このような「分析」を「理解」することは大事ですし、しっかり「物語」の世界に入り込むように集中して作品を鑑賞することにより、その「重み」を感じる経験は大事です。

そのような両方向のアプローチで『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』と向き合って生きていくことは、我々の人生に多くの「道標」を与えます。