我々がいつも経験している現象の1つに、何かが「気になる」「気にする」という現象があります。このことの意味について書いていきたいと思います。

我々は何かを「気にしよう」と思って気にすることはできません。つまり、「気になる」「気にする」という現象は我々の「意志」を超えています。我々は自分の「意志」とは無関係に、何かが気になっているものでし、気にしてしまうものです。この「気になる」「気にする」という現象がどのように発生しているかというと、神々や悪魔が我々に「気」を送ることによって起こしています。

例えば、神々は我々が運命の人と出会うとほぼほぼ必ずその人のことを気にさせます。何故ならば、その人のことを好きになってほしいからです。神々は我々に「幸せ」になってほしいと思っています。そして、運命の人と結ばれれば、「幸せ」に近づくので、神々は運命の人同士は繋げようと努力します。だからこそ、神々は我々に運命の人を「気にする」「気にさせる」という心の動きを起こします。

人によっては、「この人と出会った瞬間に、きっとこの人と結婚することになると思った」と言う人もいます。私が以前に話を聞いたある人は、結婚相手と出会った時にドラの音が聞こえたと言っていた人もいました。(この人は霊能力者ではなく、会社員です。)そういった人は霊感が高く、ある神様などと「縁」がある人ですが、神々が「気」を送ることによって、その人に「この人は運命の人だよ」と教えているからになります。

こういった現象も「気にする」「気になる」という現象の延長線上にあります。霊感が高いとより具体的なメッセージを神々や悪魔から受け取ることができる分、こういったことが起きます。しかし、起こっていることとしては「気になる」「気にする」ということとあまり変わりません。なぜならば、結局は神々が人間に「気」を送っているからです。

このようにして、神々は我々のために何か重要なことを気にさせます。これが神々が起こす「気になる」「気にする」という現象です。


悪魔も我々に何かを気にさせます。しかし、それは我々のためではなく、その悪魔自身のために行ないます。何故ならば、悪魔はその悪魔自身のために動いているからです。そして、悪魔は他人の「不幸」を面白がります。「他人の不幸は蜜の味」と言いますが、これは「闇」の発想です。「光」の立場の魂は他人の「幸せ」を「喜び」と感じるのに対して、「闇」の立場の魂は他人の「不幸」を「快楽」として楽しみます。そして、悪魔は強い「闇」の魂なので、「他人の不幸は蜜の味」の側であり、だからこそ我々を苦しめることを面白がります。

ですから、悪魔は基本的に我々にとって悪いものを我々に気にさせます。例えば、好きになるととてつもなく苦労するような異性のことを「気にさせる」といったことです。そういった異性を我々に「気にさせる」ことによって、その相手のことを好きになるように仕向けてきます。例えば、結婚詐欺師の女性を気にさせ、好きになるように働きかけ、実際に結婚詐欺を起こして悪魔は面白がります。
 

「闇の気」が身体に溜まっている人とは、様々な形で悪魔に「心」を「コントロール」され、どんどん悪い方向へ人生を運ばれていきます。その1つの方法が「気になる」「気にする」という現象を悪魔が我々に起こすことです。それに対して、「光の気」に満ちた人とは、神々によって「心」に「導き」をもらい、「幸せ」に生きていきやすくなります。

我々がいつも経験している「気になる」「気にする」という現象には、このような意味があります。このことが分かると、「光」で生きていくことが如何に重要であるかがよく分かります。

「気になる」とは文字通り「気に+なる」と書きます。「気にする」とは「気に+する」と書きます。両者において共通なのは、我々に何らかの「気」が関与するということです。我々が大事なことを忘れていても、言葉にはまだ真実が残っています。


我々は自分自身の意志で「気になる」「気にする」ということを起こすことはできません。そして、何かが「気になる」場合、やはり我々はそれを選びやすいものです。だからこそ、神々の「導き」に素直に生き、悪魔に「コントロール」されないためにも、自分自身の身体に宿っている「闇の気」の浄化をし、「光の気」で満たしていく必要があります。

そのために、ちゃんと睡眠を取り、太陽をよく浴び、水をよく飲み、よく運動をし、お酒はあまり飲まないようにするといった基本的なことが非常に大事です。また、「闇の気持ち」を持たないことが大事です。そういったことによって、「闇の気」があまり入らず、「光の気」が入るようにしていけます。

そして、他人を大事にすること(「愛」)がなによりも大事なことです。ただ、自分が神々の「導き」を受けられるように他人を大事にしようという発想で動いてしまうと、これは「自分のため」であって「欲望」であり、「闇」に堕ちてしまいます。あくまで、純粋に「他人のため」に生きることによって「光」の立場になります。そうすると、気が付くと神々からの「導き」を受けやすくなっています。

善行を行なえばいいということではなくて、それを行なっている時の自分の気持ちが重要になります。どんな善行を行なっていても、それが「自分のため」であれば「闇」です。そういった「闇」に堕ちず、「光」を実践していくと、気が付くと自分も「幸せ」になっています。そういった、本当の意味で「光」として生きていけるようにするために、我々は生きています。「幸せ」についてはこちらに詳しく書いています。

・幸福について
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