「気」と「アイデア」の関係性1(概要)についての音声解説はこちらになります。聴いてみて頂けると幸いです。

 

我々の心に浮かぶ「アイデア」には様々なものがあります。「思考」をしている時の「発想」、会話をしている時に次に何を話すのかという「会話のネタ」、作品制作などを行なっている時に浮かんでくる「インスピレーション」など、これらは全て「アイデア」です。

この文章では、「アイデア」がどのように発生しているのか、「アイデア」が我々の人生にどのように関わっているのかといった、「アイデア」に関する重要な事柄を書いていきたいと思います。


【「アイデア」の発生の構造】

「アイデア」の発生の過程は不思議で、「アイデア」は我々の「心」に浮かんでくるものです。では、一体どのようにして「アイデア」は我々の「心」に浮かんでいるのかというと、「気」が強く影響しています。このことをよく説明しているのが「気付く」という言葉の構造です。

「気付く」とは「気」が「付く」と書きますが、この言葉は「気付き」という現象が「気」が我々に「付く」ことによって成立していることを説明している言葉です。「気」は「気持ち・気分」の原因だけではなく、「アイデア」を乗せられるものです。つまり、「気」には何らかの「情報」を乗せられます。そういった「情報」が乗った「気」が我々に「付く」ことによって、我々の「心」に「アイデア」は浮かんでいます。

例えば、忘れ物をした状態で家を出て、ふとした瞬間に忘れ物に「気付く」ということを経験したことがある方は多いと思いますが、この時に何が起こっているかというと、「忘れ物をしているよ」という「アイデア・情報」が乗った「気」が我々に「付く」ことによって、このような現象は発生しています。こういう時、我々は自分自身の「意志」で「忘れ物に気付こう!」と思っているわけではなく、自然とそういった「アイデア」が浮かんできているからこそ、我々自身が起こしているわけではないということが分かります。

では、誰がそういった「アイデア・情報」を「気」に乗せて我々に「付ける」ということを行なっているのかというと、神々といった目に見えない存在です。神々は「気」を操っている存在であって、「気」を通して我々人間にいつも関与している存在です。我々日本人は「心」の成り立ちを忘れてしまったが故に、神々に日常的に助けられて生きていることが分からなくなり、神々がいることが分からなくなってしまっています。しかし、実際は神々は我々の日常において非常に密接な関係にある存在であって、「気付き」の例は神々が何をしているのかを理解する上で分かりやすいです。

また、我々の「気持ち・気分」が良い時は良い「アイデア」が浮かび、「気持ち・気分」が悪い時は悪い「アイデア」ばかり浮かんできます。少し詳しく書くと、「光の気持ち」を抱いている時は「光のアイデア」が、「闇の気持ち」を抱いている時は「闇のアイデア」が浮かんできます。

例えば、「愛」という「光の気持ち」を抱いてる時などは、「こういうことをすると彼女は喜んでくれるかもしれない」といった「アイデア」が浮かんできたりします。それに対して、「絶望」といった「闇の気持ち」を抱いている時などは、電車を待っている時に「電車に飛び込んでしまいたい」といった「アイデア」が浮かんできたりします。

我々が「光の気持ち」を抱いている時には、神々が我々に「アイデア」をもたらします。それに対して、我々が「闇の気持ち」を抱いている時には、悪魔が我々に「アイデア」をもたらします。神々だけではなく、悪魔も我々人間にとって非常に身近な存在であって、彼らも我々に強く関与しています。

「魔が差す」という言葉は今でも残っていますが、この言葉は我々に「闇のアイデア」が起こった時の状態などを意味し、悪魔が我々に「闇のアイデア」をもたらしていることを説明している言葉です。昔の日本人は「気」のことをよく理解していたので、悪魔がいることも、悪魔がどういった形で我々の「心」に関与しているのかもよく分かっていました。ですから、「悪魔がアイデアをもたらす」という意味を込めて「魔が差す」という言葉を作った形になります。現代では「悪魔のささやき」とも言います。

神々は「愛」の強い魂であり、悪魔は「欲望」の強い魂です。そして、彼らは「気」を司っており、神々は「光の気」を、悪魔は「闇の気」を操っています。そして、我々人間は「光の気持ち」に同調している時は「光の気」を受け取り、「闇の気持ち」に同調している時は「闇の気」を受け取るが故に、「光の気持ち」を抱いている時は「アイデア」が乗った神々からの「光の気」を受け取り、「闇の気持ち」を抱いている時は「アイデア」が乗った悪魔からの「闇の気」を受け取ります。

このような構造があって、「心」の状態がいい時はいい「アイデア」が浮かび、「心」の状態が悪い時は悪い「アイデア」が浮かぶということを我々は経験しています。神々も悪魔も本当に身近な存在であって、いつも我々に関与している存在です。

このことが分かると、我々は神々や悪魔といった存在からいつも話し掛けられているということが分かります。彼らはいつも「気」を通して我々に語りかけています。そして、そういった語りかけは我々の心に浮かんでくる「アイデア」となって生まれてきます。

我々人間は自分自身の「意志」で「アイデア」を生み出すことはできません。何かが生まれる時にはそれを作り出そうとする魂の「意志」が必要だからです。例えば、もし我々人間が「Aというアイデアを生み出そう!」と思ったとしたら、そのAという「アイデア」は既にその人間の中にあり、Aはもはや「アイデア」ではありません。しかし、我々の心に「アイデア」が生まれる時、自分の中に無かったものや、全然忘れていたようなことが「アイデア」として浮かびます。そういった「アイデア」を我々にもたらしている存在がいるからこそ、このような現象は起きます。

何かが生まれる時には、それを作り出そうとする魂の「意志」が必要だということはとても重要な真実です。例えば、重度の精神病を煩ったりドラッグを摂取すると幻覚を見たりしますが、悪魔がそういった幻覚を作り出すからこそ、人間は幻覚を見ます。そういった時に人間が見る幻覚は非常に複雑なものであって、人間には生み出せないようなものです。だからこそ、何らかの目に見えない人間よりも優れた存在がそういった幻覚を人間に見せていると考える方が考え方としては自然です。

現代では、脳が勝手に幻覚を作り出すといった根拠の無い知識が広がっていますが、脳自体には「意志」は無く、「意志」が無いものが何かを作り出すことは絶対に不可能です。また、古代からシャーマンと言われる人間達は神々から見せられる幻覚を視覚的な「情報」として受け取り、そういった「情報」によって様々な問題を解決してきました。そういったことからも、実際に何らかの霊的な存在がその幻覚を見せていない限り、幻覚は起こりえないということが分かります。

「アイデア」についても同じことが言えます。「アイデア」が生まれる時には、その「アイデア」を生み出そうとする魂の「意志」が必要であって、そういったことを行なっているのが神々や悪魔です。

心を見ることによって、このことは経験として理解できます。我々現代人は意識的に自分の心にどのようにして「アイデア」が生まれているのかを分析することはあまりありません。しかし、もし御自身がそういったことを分析して頂ければ、このことはよく分かって頂けると思います。

太陽を気持ちよく浴びている時に自分に浮かんでくる「アイデア」と、暗い部屋の中にいる時に自分に浮かんでくる「アイデア」の違いを分析してみて頂けると、その2つの場合は絶対に違いがあるので、そういった分析を通して、神々や悪魔が自分に「アイデア」をもたらしていることを理解することができると思います。

 

【「アイデア」と「思考」の関係性】

「思考」をする時の「発想」も「アイデア」の1つの形です。そして、「思考」とは「発想」の連続であり、「気付き」の連続です。そして、神々も悪魔も我々に「発想」を与えられるので、彼らは我々の「思考」にかなり関与しています。

例えば、先程例に挙げたように、電車を待っている時に「電車に飛び込んでしまいたい」といった「発想」が悪魔によってもたらされた後に、神々によって「けれど、家族に迷惑をかけたら悪い」という「発想」を与えるようなことは、よくあるケースです。

こういった「発想」の移り変わりのことを我々は「思考」と言い、我々は自分自身でこういった「発想」をしていると思ってしまっています。しかし、我々人間の心に「発想」は起こるものであって、神々と悪魔が「気」に「発想」を乗せて送ることで起こしています。そして、そういった「発想」を通して彼らは我々の「思考」にかなり関与しています。

もし、この男性が「けれど、家族に迷惑をかけたら悪い」という「発想」を抱けなければ、この男性が電車に飛び込む可能性は上がりますが、このことから逆に言えることは、我々は日常的に神々に支えられて生きているということです。我々人間は気付いていないだけで、実際はかなり神々に支えられている中を生きています。

悪魔は人間を「闇」に堕とすための「闇の発想」を我々にいつも与えています。そして、そういった「闇の発想」に同調しないための「光の発想」を神々は我々にいつも与えています。それと同様に、神々は人間を「光」に導くための「光の発想」を我々にいつも与えています。そして、そういった「光の発想」に同調しないための「闇の発想」を悪魔は我々にいつも与えています。

我々は日常を生きながら、絶えず神々と悪魔の「発想」を受け取り、どの「発想」と共感するのかを自分自身の「意志」で選びながら生きています。こういった「選択」は我々の魂がやっていることです。このことを深く理解して頂くためには、「アイデア」と「気持ち」の関係性を理解する必要があります。

 

【「アイデア」と「気持ち」の関係性】

「光」の立場は「愛」を前提とする「相手のため」の立場であるのに対して、「闇」の立場は「欲望」を前提とする「自分のため」の立場です。そして、「相手のため」に動くのであれば、助けられる人が生まれるのに対して、「自分のため」に動くのであれば、被害を受ける人が生まれます。何故ならば、「愛」は相手のことをすごく考えるのに対して、「欲望」は相手に対する配慮に欠けるからです。

「アイデア」と「気持ち」は非常に密接な関係にあります。先程の例で考えると、「電車に飛び込んでしまいたい」という「アイデア」は「自分のため」のものであり、「自分が楽になりたい」という「逃げ」という「気持ち」が根底にあります。悪魔が「電車に飛び込んでしまいたい」という「アイデア」を人間にもたらす時、ほとんどの場合は「逃げの気」に「電車に飛び込んでしまいたい」という「アイデア」を乗せて、人間に与えます。

それに対して、「けれど、家族に迷惑をかけたら悪い」という「アイデア」は「相手のため」のものであり、「相手を支えたい」という「愛」という「気持ち」が根底にあります。神々が「けれど、家族に迷惑をかけたら悪い」という「アイデア」を人間にもたらす時、ほとんどの場合は「愛の気」に「けれど、家族に迷惑をかけたら悪い」という「アイデア」を乗せて、人間に与えます。

「気持ち・気分」「気付き」という言葉が示すように、「気」は「気持ち」と「アイデア」の原因です。そして、我々がある「アイデア」に共感するためには、何らかの「気持ち」が必要です。例えば、「電車に飛び込んでしまいたい」という「アイデア」を持っても、「逃げ」の「気持ち」を持っていないと共感できません。また、「けれど、家族に迷惑をかけたら悪い」という「アイデア」を持っても、「愛」の「気持ち」を持っていないと共感できません。このような形で、「アイデア」と「気持ち」は非常に密接な関係を持っています。

こういう意味で、我々は絶えず「気」と共に「アイデア」と「気持ち」を神々や悪魔からもらいながら、どの「アイデア」と「気持ち」に共感するのかを選んでいます。そして、「誰かのため」に生き始めると、自ずと神々からの「アイデア」と「気持ち」に共感し続けるようになり、「自分のため」に生き始めると、自ずと悪魔からの「アイデア」と「気持ち」に共感し続けるようになります。

「光のアイデア」を選びながら生きていけば、どんどん「光のアイデア」を選びやすくなっていきます。何故ならば、そういう風に生きていくと「愛」が強まるが故に、どんどん「愛のアイデア」に共感するからです。それに対して、「闇のアイデア」を選びながら生きていけば、どんどん「闇のアイデア」を選びやすくなっていきます。何故ならば、そういう風に生きていくと「欲望」が強まるが故に、どんどん「欲望のアイデア」に共感するからです。

一人の人間だけで考えると、どの「アイデア」に共感するのかはこのような意味があります。また、集団で考えると、以下のように言えます。

「愛」は「愛」を広げていきます。何故ならば、「愛」を誰かが誰かに実践すると、そこで「愛」を実践された人は「愛」の「喜び」を知り、「愛」のために生きようと思い始めるからです。例えば、お父さんが会社をクビにされ、稼ぎが無くなった時に、家族がそれでもお父さんを支えるのであれば、お父さんは家族のために生きようと思い、「相手のため(愛)」に生き始めます。稼ぎのない父を家族が支えたいと思う気持ちは「愛(相手のため)」です。だからこそ、父も「愛」を強くしていきます。これは、家族全体で「愛のアイデア」を選ぶことができたケースです。

「欲望」は「欲望」を広げていきます。何故ならば、「欲望」を誰かが誰かに実践すると、そこで「欲望」を実践された人は深く傷付き、「欲望」のために生きようと思い始めるからです。例えば、お父さんが会社をクビにされ、稼ぎが無くなった時に、家族がお父さんを去っていけば、お父さんはもう誰のためにも生きたくなくなり、「自分のため(欲望)」に生き始めます。稼ぎのない父を家族が捨てると思う気持ちは「欲望(自分のため)」です。だからこそ、父も「欲望」を強くしていきます。これは、家族全体で「欲望のアイデア」を選んでしまったケースです。

「愛」と「欲望」はこのような性質があるからこそ、神々は「光のアイデア」を人間に与えたいと思い、悪魔は「闇のアイデア」を人間に与えたいと思います。神々は「愛」の立場であり、人間を「幸せ」にしたいと思う立場です。だからこそ、「愛」が広がるために人間に「光のアイデア」を与えます。それに対して、悪魔は「欲望」の立場であり、神々に勝つことを楽しもうとする立場です。だからこそ、「欲望」が広がるために人間に「闇のアイデア」を与えます。

神々も悪魔も、何らかの「気持ち」の原因の「気」に「アイデア」を乗せて我々に「付ける」ということを行なっています。そういった中を我々は生きていて、日々「光(相手のため)」と「闇(自分のため)」の「選択」をしています。

どの「アイデア」を「選択」するかということについて、自分が「相手のため」と「自分のため」のどちらを選んだのかということが常に関わっていることは知って頂けると幸いです。

そして、「自分のため」の「アイデア」には共感せず、「相手のため」の「アイデア」を選びながら生きていって頂ければ、と思っています。そうすることによって「愛」は広がり、皆が「幸せ」になっていくことができます。このようにして生きていくことが、神々と共に生きていくという生き方です。

我々は意識せずとも、神々か悪魔のどちらと手を組むのかをいつも選んでいます。何故ならば、我々の「心」にはいつも神々と悪魔からの「アイデア」が起こり、我々はいつもどの「アイデア」と共感するのかを自分の「意志」で選んでいるからです。

 

【最後に】

このホームページは分かりやすさを考えて、『気と心の関係性』のカテゴリーの中で神々と悪魔の話はここまで出してきませんでした。日本人は「神々」や「悪魔」と聞いたり読んだりするだけで「嫌悪」の感情を抱く傾向があります。何故ならば、そういった言葉を見たり聞いたりするだけで「嫌悪」をするように、悪魔が「闇の気」で関与し続けているからです。日本人は「気」で関与することによって、人間に悪魔が「嫌悪感」をもたらすことができるということを忘れているので、こういった罠に気付くことができていません。

また、悪魔は「オカルト」というジャンルを作り、そこに神々と悪魔に関する根拠の無い話ばかりを人間に作らせてきました。だからこそ、「神々」や「悪魔」という言葉を見たり聞いたりするだけで、日本人はその話を「オカルト」という根拠の無いジャンルの話に思い、「疑い」の感情に堕ちるように悪魔は用意してきた形になります。

悪魔は真実を人間に知らせないようにするために、日本人にこのような関与を行なってきた形になります。他にも、悪魔が日本人に真実を知らせないようにするために行なってきた関与は多くあります。だからこそ、できるだけ神々や悪魔といった言葉を使わずに説明した方が多くの人が読むためにはいいのですが、神々と悪魔という言葉を使わない限り、真実を書くことができない形になります。「アイデア」の話は神々と悪魔が人間に関与していることを理解する上で、非常に分かりやすい話です。だからこそ、ここで神々と悪魔の話を書いた形になります。

実際は、

「気」と「心」の関係性1(外界の「気」)
「気」と「心」の関係性2(身体の「気」)
「気」と「心」の関係性3(魂の「気」)
「気持ち」と「思考」の関係性

の文章も神々と悪魔のことを踏まえて説明すべき点は多くあるので、そういったことについては別で文章を書きたいと思います。

また、『「気」と「アイデア」の関係性2』はこちらなので読んで頂けると幸いです。「アイデア」の人生に与える影響について書いています。

http://junashikari.com/energy/「気」と「アイデア」の関係性2/