日本を最も強く支配している闇は「軽さの闇」です。「軽さの闇」とは何なのかというと、分かりやすく言うと、自分の生の意味を考えずに生きる心です。どれだけの日本人が自分の生の意味を見つめながら、その意味を探しながら生きているでしょうか?または自分の生の意味を見つけて、それを踏まえて信じる行動を起こしているでしょうか?

ほとんどの日本人はそれを行なっていません。この事実が、日本を強く支配している闇が「軽さの闇」であると言える一つの根拠です。生の意味を我々が考えないのは我々が「軽い」からです。

我々は生きています。この生きている状態が何なのかということを考えずに生きるということは、それは自分が何をしているのか分からない状態でそれをしていることを意味しています。それは自分の会社が何を作っているのかも知らずにその会社で働くようなものです。そのような社員がいたら、きっと他の社員からすると「愚か者」でしょう。そういう意味で、我々は全く「愚か者」なのです。この会社の例と全く同じことをほとんどの日本人が行なっていることを、どうかあなた自身の魂で認めて下さい。それを認めない限り、あなたが「軽さの闇」から抜け出すことはあり得ず、いつまでも「愚か者」です。

「中二病」という言葉を使って思春期にそういったことを考える段階を日本人は自ら放棄しているのかもしれません。「中二病」と言われてでもこの問題を考えることができないのは、あなたが人目を気にしている、つまり「比較の闇」に囚われているからです。「そんなことを考えたって分かるわけがない」と思うならば、あなたは「怠惰」に支配されています。「そんなことを考えたって儲からない」と思うのであれば、あなたは「欲望」に支配されています。「会社勤めでそんなことを考える暇がない程忙しい」と思うのであれば、そんな会社など早く辞めて旅にでも出るべきです。

自分の生の意味を理解するための方法は様々です。ある人は友人とこの問題について話すのかもしれませんし、ある人は哲学をするかもしれないし、ある人は芸術をするかもしれないし、ある人は旅に出るかもしれませんし、ある人は宗教に入信するのかもしれません。「何故自分が生きているのか」という根本的な問いは如何なる方法を使ってでも、あなた自身の力によって見つけなければなりません。そして、そのためには如何なる努力も行なうべきです。

人間の中で、この根本的な問いを探す人達もいます。しかしそういった人達であっても、いつまでも自分の方法に固執しがちです。哲学をやる者はいつまでも哲学だけを行ない、芸術を行なう者達はいつまでも芸術だけを行ない、旅をする者はいつまでも旅だけを続けがちです。大事なのは目的であって、手段に固執することなど間違っていますから、そのようなことは間違っています。

また、この大きな問いに対して、他人から教えられることを鵜呑みにする人間もいます。「依存」の心から宗教に入信し、盲目的にその宗教の教えを全て信じ込む人などはそうです。もし宗教に入信するにしてもその教えの一つ一つは自分自身の魂によって、吟味を行なうべきです。それをしない限り、他人から聞いたことや教えなどはただの「知識」にしかならず、あなた自身の「気付き」にはなりません。あなた自身の「気付き」にならなければその内容はいつまでも「軽い」ものであって、何の答えにもなりません。

例えば、私はいつも「この生は魂の修行である」と言います。この言葉自体はただの情報に過ぎません。このことがもし真であったとして、もしあなたがこの「情報」に同意をしたとしても、「あなた自身の答え」には決してなりません。つまり、魂のレベルでの「気付き」にはなり得ません。そうであるならば、もしこのことが真実であったにしても「この生は魂の修行である」という答えは、あなたにとって、いつまでも「軽い」のです。そうであるならば、相変わらずあなたは「軽さの闇」から抜け出すことはできません。

我々は「知識としての理解」と「魂のレベルでの気付き」が同じものだと思っています。それは全く違います。なぜそれらが異なるかというと、魂の「実感」が異なるからです。この「実感」の大きさこそが全てです。なぜならば、「実感」とは「どれだけ心を動かしているのか」ということだからであるからです。この「なぜあなたが生きているのか?」という根本的な問いに対する答えに対してあなたが心を動かしていないのであれば、それは答えではあり得ません。なぜならば、魂のレベルでの理解は非常に浅いからです。その理解が浅いからこそ、心を大して動かさないのです。

この「実感」を促すものは様々です。どれだけその問いを考えてきたのか、ということももちろん重要ですが、もっと重要なのはあなた自身の「経験」です。「経験」こそが「実感」を増します。言い換えると、あなたの人生の連続性の中でその答えが繋がっていることがその答えに対する実感を増します。この「繋がり」が無ければ、魂の「気付き」ではなく、ただの「情報」です。だからこそ、他人からの知識の鵜呑みや宗教の教えの鵜呑みでは真に学ぶことができないのです。

このことを言い換えると、我々のこの生の修行とは誰にも代わってもらえないということを意味します。このことは一方でとても大変なことですが、もう一方でとても喜ばしいことです。何故ならば、あなた自身の「気付き」とはいつもあなた自身が確かに見出しているものであるからです。言い換えると、あなた自身が真にその答えを創っているのです。

(もしそれが簡単に他人から与えられるのであれば、どうして我々が生きる意味などありましょうか?そういったことを我々自身の魂をもって学ぶために我々は生きています。だからこそ、この魂の修行のシステムは非常に画期的であり、素晴らしいものであり、このシステムを創った創造神は偉大だと私は思っています。ここの()は私の意見ですから、この「軽さの闇」についての文章とは別と考えて下さい。)

「どうして私は生きているのか」というこの問いに対して答えを見つけなくとも、その答えに対して強い気持ちで向き合い、探すことで「軽さの闇」に支配されることは無くなります。そして、その探す方法は何だっていいのです。何だっていいからこそ、その答えを探す作業は誰でもできるものです。電車に乗っている時間でも我々はこの問いを考えることはできます。

我々は「軽さの闇」に支配されています。「何故生きているのか」という問いの答えを考えず、探さず、知識に頼っているからです。言い換えると「愚か者」であり、「怠惰」であり、「依存」しているからです。

もしあなたが「愚か者」であるならば、「自分は愚か者である」と認めて下さい。
もしあなたが「怠惰」であるならば、「自分は怠惰である」と認めて下さい。
もしあなたが「依存」しているのであれば、「自分は依存している」と認めて下さい。

決して日本人の問題を他人事のようにこの文章を読んではなりません。あなたはどれだけ今日一日の中で人生の意味を考えましたか?または、あなた自身によって見出した人生の意味の答えにのっとって、あなたがすべきだと思うことを行ないましたか?

果たして自分はどれだけこの根本的な問いを考えているだろうかと自分自身を問い、もしそれができていないのであれば、その原因を特定して下さい。そして、そういった原因を自分の間違いや弱みとして、あなた自身の魂をもって認めて下さい。

その原因は様々ですが、我々が背負っている様々な闇はこの生の意味を考えないという「軽さの闇」に繋がっていると言えます。「軽さの闇」は何としてでも克服しなければならない、我々日本人の大きな闇です。

「軽さの闇」が引き起こしている様々な弊害や、どのような方法によって「軽さの闇」がさらに広がっているか、ということについてはまた別で文章を書きます。今回の文章は「軽さの闇」についての基本部分の話だと御理解頂けると幸いです。