ここでは「疑い」について書いていきます。この「疑い」の気とは非常に内容が多く重いものですから、長文にならざるを得ず、今後も書き足していくと思います。しかし、非常に重要なものですから、最後までお付き合い頂けると幸いです。

光の立場が「信じる」立場に対して、闇の立場は「疑う」立場です。これはとても重要な原則です。今の日本人にとって、「疑う」ことは非常に簡単であるのに対して「信じる」ことは難しいことです。それは我々日本人が強い闇を持っていることを意味します。

光の立場が「信じる」という立場とはいっても、いつも誰でも他者を信じるわけにもいきません。ですから、本当にその人を信じていいのかどうか「問い」を行なう必要があります。「問い」とは「疑い」とは異なり「光の気持ち」です。

しかし、「問い」とは一歩挟んで「疑い」は存在します。ですから、どんなに清い魂であっても時折行なってしまうのが「疑い」です。そういった意味で、「疑い」とは多くの魂が行なってしまいます。そういった「疑い」と可能な限り仲良くしないこと、それが我々の生の一つの大きな課題でもあります。

現代人の中には「疑い」を必要なものだと考えている人も多くいます。それは、様々なことに関する問題意識が必要だと考えるからだと思います。しかし、「疑い」は全く必要ではありません。なぜならば、「問い」を行なえば、「疑問を持つ」という心の行為について「問い」が「疑い」の代わりをしてくれるからです。清い心を持って何かに疑問を持つ行為が「問い」、それに対して闇の心を持って何かに疑問を持つ行為が「疑い」です。「信じる」「疑う」「問う」の関係性については、こちらに詳しく書いています。

http://junashikari.com/emotion/「信じる」「疑う」「問い」の関係性について/

また、「疑い」とは他者だけに対するものだけではありません。それは何らかの問題に対する「疑い」もあります。そして、そういったケースの「疑い」とは出口の無い迷路に我々を陥れる可能性があります。どうして、出口の無い迷路にはまる可能性があるかというと、「疑い」とはいつも新たな「疑問」を生むこと、そして「疑い」が「思考」に依るものであるからです。我々が「疑い」を行なう時、そこには必ず「思考」があります。「思考」無しの「疑い」とは成立し得ません。

「気→感情→思考」というラインは基本的にいつも一定であり、我々の日常はこのような形で思考を行なっています。ですから、我々は気によって思考をさせられているとも言えます。全ての気は思考を生みます。例えば、

「お金が無くなるのが不安だから働こう」というのは「不安」の気に依る思考。
「だるいから働きたくない」というのは「怠惰」の気に依る思考。
「社会人をやらないと人から低く見られる」というのは「比較の闇(劣等感・優越感)」の気に依る思考。

といった形です。このような形で、「気→感情→思考」のラインは基本的にいつも成立しています。

ただ、様々な闇の気の中でとりわけ「思考」を促すものがあります。それが「疑い」の気です。それぞれの気の持っている性質を知って頂けると幸いです。そういった性質を見る一つの観点が「どれだけその気が思考を促すのか?」という尺度です。「光の気」の中で最も「思考」を促すのは「水の気」である「向上心・問題解決の心」、「闇の気」の中で最も「思考」を促すのは「疑い」の気です。どうして「疑い」の気が我々に「思考」を促すのかというと、それは「疑い」の気の持つ性質に依ります。

「疑い」という気持ちは我々にいつも疑問を起こします。そして、「疑い」の気持ちで思考をすると、そういった疑問に対して答えを探すということをずっと続けます。そもそも、思考というプロセスは自分の中で何らかの疑問を設定し、その疑問に対する答えを探し出すという行為です。例えば、以下のような形です。

疑問「今日は何を食べようか?」
答え「昨日カレーだったから今日は蕎麦を食べたいな。」
疑問「けど、旦那さんは蕎麦が嫌いだから、別のものにしないと。だったら何がいいかな?」
答え「旦那さんが好きなパスタにしよう」

「疑い」という気持ちは疑問を絶えず作るので、思考が延々と続いていきます。だからこそ、「疑い」の気持ちは「闇の気持ち」の中でもとりわけ思考を促す気持ちです。

人間は「思考」を過剰に信仰し過ぎている傾向があります。ここで言う「思考」とは「論理」のことです。なぜならば、「思考」とは「論理」によって成立しているものであるからです。「AだからB」「A何故ならばB」といった思考が「論理」になります。

しかし、「論理」とは非常に不完全なものです。なぜならば、「論理」とは対立するAとBの両方の味方をし得るからです。喧嘩をしている二人の両方の意見を聞くと、その両者の意見が正しいように感じるのはそのためです。

また、「論理」というものの性質上、質問の無限ループにはまる可能性があるからです。例えば、「何故私が生きているのか?」ということを「思考」だけを使って考える場合、以下のようなループにはまる可能性があります。

疑問「我々は何故生きているのか?」
答え「魂の修行のため。」
疑問「では、何故魂の修行をする必要があるのだろうか?」
答え「魂の修行には意味があるから。」
疑問「どのような意味があるのか?」
答え「より魂を清くしていくことができるという意味。」
疑問「魂を清くしていくことに意味があるのだろうか?」
答え「魂が清くなると、より喜ばしい生を生きられる。」
疑問「喜ばしい生に何の意味があるのか?」
答え「闇のもたらす快楽よりも喜びはより良いものだから」
疑問「それを決めているのは私の主観なのではないだろうか?」
答え「おそらくそうだろう。」
疑問「では私の主観とはそれ程までに大事なものなのだろうか?」
答え「私自身が感じているものであるから、より確かなものだろう。」
疑問「では、そのような確かさに何の意味があろうか?」
答え「確かさとは存在するという根拠になるから、その点に価値がある。」
疑問「では存在するということに何の価値があるだろうか?」
答え「我々は存在という概念の中にあるのだから、我々が存在することに価値があるかどうかを考えても無駄であろう。」
疑問「では、我々は何故存在しているのであろうか?」
答え「魂の修行のため。」

「疑い」はいつも新たな「疑問」を作ります。だからこそ、このような無限の「疑問」のループを作っていく可能性があるのです。そして、それは時に「混乱」をもたらします。「疑い」という「闇の気」と「混乱」という「闇の気」が非常に近い関係にあることも知っておいて頂けると役立つと思います。思考をする度に迷路のようにはまっていくと、人は「混乱」に堕ちてしまう傾向があります。これは一つの一例ですが、我々が何か問題について考える時、「論理」だけを根拠として答えを探すのであれば、このような無限のループにはまることがよくあることです。

そういった重要な問題において「論理」や「思考」以上に重要なのは「分析」です。ここで言う「分析」とは魂の状態の「分析」であって、「心を見つめること」とも言えます。例えば、上の無限ループを例に、「思考」に加えて「分析」も行なうのであれば、以下のようになり得ます。

疑問「我々は何故生きているのか?」
答え「魂の修行のため。」
疑問「では、何故魂の修行をする必要があるのだろうか?」
答え「魂の修行には意味があるから。」
疑問「どのような意味があるのか?」
答え「より魂を清くしていくことができるという意味。」
疑問「魂を清くしていくことに意味があるのだろうか?」
答え「魂が清くなると、より大きな愛を実践できるので、より他人を幸せにできる」
疑問「他人を幸せにすることに何の意味があるのか?」
答え「ただ心から、私は他人を幸せにしたいと思う。そのために生きたいと思う。」

最後の「私は他人を幸せにするために生きたいと思う」という結論は論理的に導かれた答えではなく、その人の価値観そのものです。これはその人自身が真に心で思っているのですから、間違っているわけではないです。心で何らかの気持ちを強く抱く事は、論理的な分析をいくらできるようになろうともできるものではありません。論理的な分析は技術であるのに対して、心で何らかの気持ちを抱くことは、その人の魂の修行の結論です。我々はこういったことをするために生きています。

大事なことは問題の答えを出す時に「感じること」=「分析」を根拠にしても構わないということです。そう「感じている」のだから、そのことは確かであると言えるからです。

数学は論理に基づくものであって、論理とは言い換えると数学のことですが、数学だけを過剰に信仰している数学者などは数学上の計算によって「この世界は存在しない」という結論を出し、その結論を信じたりします。どう感じても、この世界は存在します。何故ならば、我々は確かにこの世界を感じているからです。人間は「論理=数学=考えること」が万能だと過信し過ぎ、「感じること=観測=分析」の重要性を認識し切れていないからこそ、「この世界は存在しない」と言い始める数学者が現れている現状があります。

我々が「論理」を使う時、我々は「論理」という方法に「依存」しているとも言えます。「論理」を使うこととは非常に楽なものです。それはまるで計算機を使うようなものだからです。それに対して「分析」を行なうのは楽ではありません。自分にとって都合のいいことも悪いことも自分自身の問題として受け入れていかなければならないからです。この受け入れるプロセスが我々の魂の修行を促します。

さらに、「疑い」の気は「考え過ぎ」という現象も引き起こします。「疑い」の気のもたらす過剰な「思考」が「考え過ぎ」という状態に他ならないからです。もしあなたや周りの人が「考え過ぎ」な人であるならば、「感じること」「分析」の重要性を説明することがとても大事になります。物事の根拠は「考えること」だけではなく「感じること」であることを意識化して頂けると幸いです。

以上が「疑い」の気についての概要となります。この気はその他様々な気と合わさり働いていますから、真に「疑い」の気について皆様に理解して頂くためにも、より発展的な「疑い」の気についての説明は今後書いていきます。

とにかく、対人関係における「疑い」の気と縁を切るために必要なことは相手を「信じること」です。それをするためにはまず、自分が相手を「信じている」のか「疑っている」のかを見極めなければなりません。そして、もし「疑っている」のであれば、どうして自分がその人を「疑っている」のかを考えてみて下さい。そして自分の心に問題が無いかを見つめて下さい。そして、自分の方に問題があるのであれば、その人を信じてみることです。

「疑い」の気を使って「思考」をしている方々は、言い換えると、「疑い」をベースに「思考」をしている方々は、「向上心(水の気)」から「思考」を行なうように今後心掛けてみて下さい。そのためにはまず、自分が「思考」をしている時に自分の心の状態を見つめることが大事になります。そのことで、自分がどのような感情かを判断することができます。あまりいい気分でない時に思考をするのであれば、「疑い」の気によって「思考」をしている可能性が高いです。それに対して、何かのために誰かのために「思考」をしているのであれば、「向上心(水の気)」によって「思考」をしている可能性が高いです。「思考」をしている時も自分の心を見つめることが大事になります。

これは別で書きますが、古代哲学より後の哲学はその態度を、徐々に「問う」ことから「疑う」ことにシフトしていきました。そのことにより非常に闇に満ちた思想が多く生まれてきました。なぜならば、彼等は「疑い」の気に思考をさせられていたからです。特に、ニーチェ、サルトル、キルケゴールなどの所謂「実存主義」に関わった哲学者はそうです。日本人の賢い人達はこの「実存主義」と非常に好む傾向があります。このこともまた日本が闇に満ちていることを表しています。「哲学」をしている時も自分の心を見つめることが大事になります。

この「疑い」の気とどのように付き合っていくか、ということは「光」の強い人間であってもかなり苦戦する事柄です。ですから、引き続き、この「疑い」の気の持つ危険性については理解を深め書いていきたいと思います。