「心を無にする」と言いますが「無心」の考え方は非常に難しいところです。なぜかというと、如何なる気にも関与されずに「無心」の場合と「無の闇」の気によって「無心」にさせられるケースがあるからです。「無心」にさせる闇の気とは存在します。これは「逃げの無心」と言ってもいいと思います。

禅の思想では「無心」は大事にされます。しかし、「無心」が良いか悪いかはケースバイケースです。例えば、如何なる闇の気にも同意することなく「無心」の状態を実現しているのであればそれは良いケースです。そうではなく、全ての感情からの「逃げ」としての「無心」もあります。この場合は悪いケースです。心を無にすれば、何も闘わなくていいので非常に楽です。そういった楽さを快楽に「無心」を信仰する方もいます。

また、良いケースであっても「無心」が光の感情であることはあり得ず、あくまで中立の感情です。なぜならば、光の感情とは決まっており、以下であるからです。

[水、火、風、土、金、我々の知らない二つの気の感情]
光の第1感情:水=浄化の心、向上心、変革の心
光の第2感情:火=笑い、情熱、元気、安心感、闘いの心、正義の心
光の第3感情:風=優しさ、感謝、クリアさ
光の第4感情:土=強さ、忍耐力、持久力、勇気
光の第5感情:金=愛、信頼
光の第6感情:?=感謝
光の第7感情:?=純粋性

ではどうしてこれらの感情が光なのかというと、これらの感情が光を実践するために必要な感情であるからです。「愛」があるとも言えます。(「土の気」「純粋性」以外)

「無心」はあくまで「無」ですから、何かこの世界のために光を実践しようとする心のことではなく、自己完結型の感情です。「他の魂のため」という考え方が光の考え方ですから、自己完結型の感情である「無心」とは中立の感情になります。また、「無心」が「無我」を意味する場合もあります。その場合に「世界との完全な一体感」のことを意味するのであれば、それは「愛」である可能性があり、その場合は光の感情となります。

とにかく重要なことは、完全なる「無心」の時にどうして自分が「無心」なのかという原因を探ることが重要です。その理由の中に少しでも自分の「欲望」や「逃げ」の感情が含まれるのであれば、それは闇の「無心」です。また、「愛」が理由であるのであれば、それは光の感情です。

浄化の修行の段階で、瞑想を行なう時などに全ての闇の感情に対して「No」と言い続け、結果的に「無心」になるのであれば、それはいい「無心」の実践です。しかし、闇の感情に支配されないように「無心」に逃げるとしたらそれは悪い「無心」の実践であり、そのような瞑想を行なっていても意味がありません。

「無心」を実現するのは主に瞑想中なはずです。日常において無心になるのは決していいことではありません。なぜならば、あなたが光の立場を選びたいと思っていて、なおかつ今の問題が山積みな地球を生きるのであれば、「無心」になっている余裕などなく、他の魂のために何かをすべきだからです。そういう意味で、現代を生きる我々にとって「無心」とはあまり関わるべきでないとも言えます。今の現代において完全なる「無心」を生涯に渡って実現したとしてもそれは中立ではなく闇です。何故ならば、苦しんでいる他の魂を無視しているからです。

「無の境地に達することが素晴らしい」といったイメージを持っている方もいると思いますが、そういったイメージは捨てて下さい。「無心」と「悟り」というものを重ねている方がいるとしたら、それは非常に良くないアイデアを入れられています。「悟り」とは「無の境地に達すること」ではなく「気のことを真に理解すること」に他ならないからです。「悟り」についてはここに書いております。

http://junashikari.com/energy/「悟り」について/