ここでは「火の気持ち」の一つの側面である「闘いの心」について解説を書きます。『火の気持ち(元気・笑い)について』の文章を先に読んで頂いてから、こちらの文章を読んで頂けると幸いです。

http://junashikari.com/emotion/火の気持ち(元気・笑い)/​


【「闘いの心」とは何か?】

「闘いの心」とは「愛」の実践のために「闘い」を使う立場の感情であって、「愛する者を守りたいと思う気持ち」「愛する者を傷付ける何者かを打ち負かそうとする気持ち」です。「愛」があるからこそ、その「愛」する誰かを「守りたい」と思い、「守りたい」と思うが故に敵と「闘おう」とする気持ちだと理解して頂ければ、と思います。

誰かに対する強い「愛」があればあるほど、その愛する者を傷付ける誰かに対しては「許せない」という気持ちが生まれます。この「許せない」という気持ちは「嫌悪」なのですが、「闘いの心」が内に持つ「嫌悪」は「自分のため」の「嫌悪」ではなく、「誰かのため」の「嫌悪」です。ですから、本質的には「闇の気持ち」の「嫌悪」と「闘いの心」の「嫌悪」は相反するものです。このことは『「気持ち」一覧』のページにも書いていないことなので、「嫌悪」に関するこのような構造は御理解頂けると幸いです。

「闘いの心」を抱くと明確に味方と敵を分けて物事を見るようになります。そして、敵に対しては「許せない」と思うからこそ、その気持ちがパワーにもなるのですが、もう一方では危険な一面も持っています。

どのような意味で「闘いの心」がパワーをもたらすかというと、相手のことを「許せない」と思うということは、敵に対する容赦をしなくなることに繋がるからです。敵に対する容赦は自分のパワーを抑え込みますが、容赦が無いとそういったブレーキが無くなります。このことが「光の気持ち」の中で「闘いの心」にしかない「強み」です。

しかし、この「強み」は非常に危険なものでもあります。「闘いの心」が正しい形で使われている場合は問題ないのですが、「闘いの心」が間違った形で使われる場合は大きな「凶器」となるからです。「闘いの心」に限らず、全ての「光の気持ち」はただ抱けばいいというものではなく、正しい形で抱かなければ危険なものになることは常に言えます。そして、正しい形で「光の気持ち」を抱くためには、「賢さ」などがとても重要になってきます。

例えば、何らかの「誤解」をしてしまって、本当は「闘いの心」を抱いてはいけない相手に対して「闘いの心」を抱いてしまい、その「闘いの心」によって誰かを傷つけてしまうことはよくあります。「誤解」は「賢さ」が足りないとしてしまう、我々にとってとても身近な問題です。ですから、「賢さ」が足りないが故に「誤解」をしてしまい、その「誤解」から生まれた「闘いの心」によって罪の無い人間を傷付けるといったことはよくあります。小さな例では、我が子を近所の子がいじめていると「誤解」してしまい、その近所の子に「闘いの心」で説教してしまうようなこと、大きな例では、「誤解」が故に罪の無い人間が「闘いの心」によって有罪判決を受けるといった形です。こういったことはよく起こっています。

また、「闘いの心」を抱くと自分が愛する者を守ることが最重要に思えるが故に、視野が狭くなっていく点が危険でもあります。自分にとって大事な者を守ることが、全体としては良くないことであるような状況はあります。例えば、本当に愛する人がいたとして、その人が死ぬか、日本人全員が死ぬかのどちらかを選ばないといけない状況があった時に、「闘いの心」を抱くのであれば、愛する人を守るために日本人全員が死ぬことを選びます。これは、愛し合う二人にとっては間違いではないのですが、全体としては間違っています。

 

「闘いの心」のこのような視野の狭さをよく捉えているのが、『もののけ姫』のサンとエボシ御前の対立です。二人とも「闘いの心」が非常に強い人物として描かれていますが、サンは「森のため」に、エボシ御前は「タタラ場のため」に、お互いを憎み合い闘い合っています。それに対して、アシタカは「水の気持ち」=「問題解決の心」が強いからこそ、部分ではなく全体のことを考え、「問題解決」をしていく形になります。「火の気持ち」が全体よりも部分を大事に考え、「水の気持ち」が部分よりも全体を大事に考えるという性質を、『もののけ姫』は非常に的確に描いています。ちなみに、サンとは「SUN(太陽)」と同じですが、太陽は地球に「火の気」を降り注いでいる星です。サンが「火の人」であることを示すために、サンはサンという名前を持っています。

また、現実世界で考えると、我々が「闘いの心」を理解する上で最も参考になる人物が北野武です。北野武は「闘いの心」を強く表現するために生まれてきた人間であって、だからこそ名前に武士の「武」が入っており、芸名に「ビート」=「beat」=「叩く」という言葉が入っています。「武」も「ビート」も「闘いの心」を象徴する言葉です。
 


北野武の映画の多くは「闘いの心」を強く描いています。例えば、『HANA-BI』は「火の気持ち」を描いているからこそ「花火」という形で「火」というタイトルを持っています。自分にとって大事な人に対して、主人公は「元気・笑い」の態度で相手を笑わせ、その大事な人を傷つける敵には「闘いの心」で攻撃します。そういった「火の気持ち」の本質、特に「闘いの心」の本質が『HANA-BI』では描かれています。
 


他にも、『BROTHER』は自分が大事に想う人のことを「兄弟」という形で表現しているタイトルです。『BROTHER』の中でも「火の気持ち」の「元気・笑い」と「闘いの心」の両方の側面が描かれています。北野武の作品全体で「兄弟」という言葉はよく出てくるキーワードですが、「兄弟(自分が愛する者)」のために「元気・笑い」と「闘いの心」を使うということが非常に分かりやすく表現されています。
 


北野武は映画だけではなく、現実世界でも「闘いの心」を強く発揮してきました。例えば、過去にフライデー襲撃事件という暴行事件を起こしていますが、このことが北野武が強い「闘いの心」と共に生きていることをよく表現しています。当時の記者会見の映像があるので、御覧になって頂ければ、と思います。北野武が自分の愛する人を守ることや正義のためにこのことを起こしていることはよく分かります。また、北野武は様々な発言を通しても「闘いの心」のスタンスで様々な意見を社会に発信しています。

北野武がビートたけしとしてテレビに出演している時は、基本的に「元気・笑い」によって視聴者を笑わせています。それに対して、映画監督の北野武としては、「闘いの心」を強く描いてきました。ですから、我々日本人が「火の気持ち」を理解する上で、北野武の作品とビートたけしの笑いは我々に多くを教えてくれます。また、フライデー襲撃事件は我々に「闘いの心」についての教訓を与える大きな意味を持った事柄です。このような意味で、北野武・ビートたけしは非常に重要な人間です。北野武については、『北野武について』のカテゴリーに様々な文章を書いていきます。


【「闘いの心」と近い「闇の気持ち」】

以下に、「闘いの心」と近い関係にある「闇の気持ち」について書いていきます。それぞれの「闇の気持ち」がどのように「闘いの心」と近いのかを理解することによって、「闘いの心」から「闇の気持ち」に堕ちる罠を知ることができます。
 

・「嫌悪」

「闘いの心」は「誰かのため」の「嫌悪」を内に含むことは説明しましたが、この「嫌悪」が「自分のため」の「嫌悪」に知らず知らずの内になっていることはあります。

ですから、何かに対して「嫌悪」しそうな時、その「嫌悪」が「自分のため」なのか「誰かのため」なのかを見極める必要があります。もし、「誰のため」でもなければ「闇の気持ち」の「嫌悪」なので、そういった「嫌悪」は受け入れるべきではありません。それに対して、「誰かのため」の「嫌悪」であれば、「闘いの心」として理解すべきです。「闘いの心」と共に生きるのであれば、こういった吟味を自分の心の中で行なう必要があります。
 

・「怒り」

「嫌悪」と同様に、「闘いの心」は敵に対する「怒り」も抱えています。「怒り」とは「嫌悪」がより強まったものと言えるからです。ですから、「怒り」も「嫌悪」と同様に二種類あり、「自分のため」の「怒り」と「誰かのため」の「怒り」があります。「自分のため」の「怒り」は自分の不満などを発散させるためのものであって、「誰かのため」の「怒り」とは大切な誰かを守るための「怒り」であって「闘いの心」です。

ですから、「怒り」の感覚が自分の中に起こった時に、その「怒り」が「自分のため」なのか「誰かのため」なのかを判断する必要があります。もし、「自分のため」の「怒り」であれば抑える必要がありますし、「誰かのため」の「怒り」であれば「闘いの心」と判断できます。


・「負けず嫌い・傲慢」

「闘いの心」は敵を打ち負かすことを目指す気持ちだからこそ、そういった気持ちが「相手に勝ちたい」という「負けず嫌い」の気持ちに近い性質を持っています。「闘いの心」は「誰かのため」に敵に勝つことを目指すのですが、「負けず嫌い」は「自分のため」に相手に勝つことを目指します。そして、「誰かのため」は「愛」に基づく「光」の立場であり、「自分のため」は「欲望」に基づく「闇」の立場なので、「負けず嫌い」は「闇の気持ち」です。

「闘いの心」と「負けず嫌い」は非常に近いので、「相手に勝ちたい」という気持ちが起こった時に、その気持ちが「誰かのため」なのか「自分のため」なのかを見極められると、「闘いの心」から「負けず嫌い」に堕ちることを防ぐことができます。

「闘いの心」が「負けず嫌い」に堕ちてしまうことを描いた作品は多くあり、例えば『エヴァンゲリオン』のアスカも『バガボンド』の宮本武蔵も『明日のジョー』の矢吹ジョーも「闘いの心」をよく抱く「火の人」だからこそ「負けず嫌い」に堕ちてしまう人物として描かれています。

「負けず嫌い」は「闇の気持ち」とは言っても「光」のために使えるものでもあります。「負けず嫌い」は相手に勝つために努力することを促すので、実際の活躍を促します。例えば、北野武は「負けず嫌い」をいい形で使ってきたからこそ、様々な活躍をしてきました。宮崎駿も「闘いの心」は強く、少し「負けず嫌い」を抱えていますが、その「負けず嫌い」をいい形で活用してきたからこそ、価値ある作品を作ってきました。

また、「負けず嫌い」が相手に勝つために様々な努力を促すことは、魂の「強さ」を促します。例えば、井上雄彦の『スラムダンク』のバスケ部スタメン(桜木、流川、赤木、宮城、三井)は全員とてつもなく「負けず嫌い」だからこそ、魂が「強さ」を持っています。こういったことを安西先生の「君達は強い」という言葉は表現しています。

ただ、「負けず嫌い」は危険な側面もあります。例えば、「負けたくない」という気持ちは相手のことを「敵」として見ることに繋がります。何故ならば、「負けず嫌い」の気持ちで考えると競争相手は全員「ライバル」であり「敵」だからです。その結果、「仲間」になるべき相手を「敵」として考え、「嫌悪」の対象としてしまうことがよくあります。つまり、「仲間」になるべき人を「敵」と見なしてしまうのが、「負けず嫌い」です。だからこそ、「負けず嫌い」は誰かと協力関係の中で「光」を実践していくことを止めます。「闘いの心」にはこういった悪い傾向はないので、「仲間」を増やすことにも繋がります。

また、「負けず嫌い」は「自分が一番でいたい」という気持ちに繋がるので、そういった気持ちが「傲慢」な態度にも繋がります。そういった態度を取ってしまうと、周りの人はいい思いをしないので、周りから嫌われてしまうということがよく生まれます。それに対して、「闘いの心」が原因で「傲慢」になることはありません。これは「負けず嫌い」が原因で「傲慢」に堕ちるという構造と正反対です。

このような形で、「負けず嫌い」はその人を孤立化させ、仲間を作りにくいという傾向を生みがちです。北野武並みにその一人だけの力があまりにも大きい場合は「負けず嫌い」は有効に働くことも多いです。何故ならば、「負けず嫌い」はチームプレイという選択肢を持たないからこそ、その個人の力を最大限に発揮する上ではとても優れているからです。しかし、ほとんどの人間にはそのような大きな力はありません。ですから、「負けず嫌い」によって孤立化することは、好ましいものではありません。

『エヴァンゲリオン』のアスカは、こういった「負けず嫌い」の本質をよく捉えています。アスカは「負けず嫌い」が故に、チームプレイを嫌い、その結果悪い結果を招くこともあれば、アスカが一人で敵を打ち負かせる時は最高の仕事をします。そういった「負けず嫌い」の良い面と悪い面がアスカの描写に表れています。

「負けず嫌い」は「闇の気持ち」であって、「闇」を選ぶのであれば(「自分のため」に生きるのであれば)、非常に武器となる感情です。それに対して、「光」を選ぶのであれば(「誰かのため」に生きるのであれば)、「負けず嫌い」は武器になることもありますが、足を引っ張る性質も持っています。このような構造は知って頂けると幸いです。

また、「負けず嫌い」が強くなれば強くなるほど、「誰かのため」ではなく「自分のため」に生きるようになってしまいます。「負けず嫌い」は「自分のため」に相手に勝つことを目指す気持ちだからこそ、「負けず嫌い」が強まれば強まる程「自分のため」という気持ちも強くなってしまうからです。ですから、「光」のために「闇」を使うというスタンスで「負けず嫌い」に手を伸ばしたつもりなのに、その「負けず嫌い」に自分自身が支配されてしまうということはよくあります。

そういった形で「負けず嫌い」という「闇」に飲み込まれないようにするために、まず「光の気持ち」を強くする必要があります。その上で「負けず嫌い」を使えるのであれば、「光」のための「光」に加えて、「光」のための「闇」も使えるようになります。ただ、現代を生きる我々日本人は「光」が足りていない状況なので、このような方向性を取る以前の状況だと思って頂けると幸いです。
 

・「絶望」

「闘いの心」は「愛」の実践のために相手を打ち負かすことを目指す気持ちだからこそ、いつも「勝負」を行なうことに繋がります。このことは「闘い」を使うという「闘いの心」の持つ性質によって自ずと生まれる傾向です。何故ならば、「闘い」とは「勝負」のことだからです。そのような意味で、「闘いの心」はそういった「勝負」の側面を一番強く持っている「光の気持ち」です。

だからこそ、「闘いの心」は「絶望」に堕ちやすい感情です。何故ならば、「闘い」=「勝負」に負けることは「絶望」に繋がりやすいからです。中学高校などで運動部などに入っていた方はよく分かると思いますが、引退試合などで敵チームに負けると本当に「絶望」します。このことがよく表すように、大事な「勝負」であればあるほど、負けると「絶望」を感じるという側面は「勝負」には付き物です。

他の「光の気持ち」はこのような「勝負」の性質は「闘いの心」程にはありません。例えば、「風の気持ち」=「優しさ」などだと、「優しさ」の実践は「勝負」ではないので、「勝ち負け」という結果もなく、負けることによって「絶望」に堕ちるということは起きません。

「闘いの心」で「勝負」に負けると、「大事な相手を守れなかった」という気持ちが「絶望」に繋がりますし、「自分はなんて無力なんだ」という「絶望」にも襲われます。こういった「絶望」は「闘いの心」が強くなれば強くなるほど大きくなります。何故ならば、「闘いの心」が大きくなることは「愛」が大きくなることを意味し、「愛」が大きければ大きい程、大事な相手を助けられなかった時の「絶望」は大きいからです。

そういう意味で、「闘いの心」を養う過程は「絶望」との闘いです。全ての「勝負」を勝ち続けることは絶対に不可能なので、どこかで必ず「負け」を経験します。そういった「負け」から生まれる「絶望」から這い上がるためには、魂の「強さ」が必要であって、「闘いの心」が強い人はそういった「強さ」を「闘いの心」から生まれる「絶望」と闘うことによって生み出していきます。そのような形で、「闘いの心」が強くなるからこそ「絶望」が強くなり、「絶望」が強いからこそ「闘いの心」を強くするという振り子のようなことを、「闘いの心」を選ぶ魂は経験していくことになります。

それぞれの魂は意識的にも無意識にも何らかの「気持ち」を選んでいます。それは、その「気持ち」を好むという魂の選択によって生まれることです。例えば、酒と女が好きな男性は「欲望」を選んでいる魂であって、愛する妻を生涯大事にしたいと思う男性は「愛」を選んでいる魂です。このような形で、それぞれの魂は何かしらの「気(気持ち)」を選んでいます。

「闘いの心」を選ぶ魂が「絶望」と「闘いの心」の間を振れ続けることは、「闘いの心」の性質上、必然的に起こることなので、このような形で魂の「強さ」を養いたいと思う魂が「闘いの心」を強く選んで生きていくべきです。逆に言うと、そんな辛いこと自分は嫌だと思う魂は「闘いの心」の進歩はどこかの時点で必ず止まります。

どの「光の気持ち」を選ぶかによって、どのような「闇の気持ち」と向き合っていかないといけないのかということは異なるので、このようなことも知っておいて頂けると幸いです。
 

・「比較の闇(優越感・劣等感)」

「負けず嫌い」の気持ちと非常に似た「闇の気持ち」が「比較の闇」であって、「比較の闇」とは「優越感・劣等感」のことです。「ナルシズム」とも言えます。

「勝負」には勝ち負けが付いてきますが、「勝負」ではないものに関しても優劣は付けることができます。「闘いの心」は敵を打ち負かす方向性だからこそ、相手よりも優れていることを目指す方向性にも繋がります。そういった「闘いの心」の方向性が「比較の闇(優越感・劣等感)」に近いが故に、「闘いの心」を強く抱いて生きる人は「比較の闇」に堕ちないように気をつける必要があります。

「負けず嫌い」で自分が勝つと「快楽」を得られるのと同様に、「優越感」は「快楽」をもたらします。そして、「負けず嫌い」で自分が負けると「苦悩」を味わうのと同様に、「劣等感」は「苦悩」をもたらします。このような意味で、「負けず嫌い」と「比較の闇」は性質が非常に似ています。だからこそ、「比較の闇」も「負けず嫌い」と同様に、その本人の成長や進歩を促す「闇の気持ち」なのですが、「光の気持ち」が強くなるまでは手を出すべきものではありません。何故ならば、「負けず嫌い」の説明と同様に、「比較の闇」に魂の「光」が飲み込まれてしまうからです。

「自分のため」に相手よりも優れていることを目指したり、「自分のため」に相手よりも劣っていることを気にしたりするのは「比較の闇」なので、そういった感情に堕ちた場合は、抜け出す必要があります。そして、「誰かのため」に敵よりも優れていることを目指すことは、より「闘いの心」を強めるので、肯定すべき感情です。
 

・「疑い」

「闘いの心」は敵を「嫌悪」するところから相手を敵視することに繋がり、そのスタンスから相手の様々な言動を「疑う」ようになります。何故ならば、「疑い」は「嫌悪」から生まれる何かを疑問に思う気持ちだからです。

「疑い」とは「相手の言動を信用しない」という心の動きですが、「相手の言動を信用しない」ことにも「自分のため」のケースと「誰かのため」のケースがあります。もし「自分のため」に「相手の言動を信用しない」のであれば、それは「闇の気持ち」の「疑い」です。それに対して、「誰かのため」に「相手の言動を信用しない」のであれば、それは「闘いの心」または「問題解決の心(水の気持ち)」です。

「闘いの心」で「相手の言動を信用しない」場合には、必ずどこかで「誰かを守るため」という感情があります。そして、「問題解決の心」で「相手の言動を信用しない」場合には、必ずどこかで冷静に「真実を見定めなければいけない」という感情があります。「問題解決の心」は「問い」という心の動きに繋がりますが、この「問い」のスタンスが「真実を見定めなければいけない」という態度に繋がるからです。

「問い」と「疑い」は性質が近いですが、「問い」は「誰かのため」という部分があるのに対して、「疑い」は「自分のため」という部分があります。感覚的に説明すると、「問い」はニュートラルであるのに対して、「疑い」はどこか否定的です。例えば、『もののけ姫』のアシタカや『マトリックス』のネオは「問い」を実践し、古畑任三郎は「疑い」を実践しています。

こういった違いを意識して頂きつつ、「相手の言動を信用しない」ということを行なう時には「疑い」に堕ちるのではなく「闘いの心」または「問題解決の心」を保って頂ければ、と思います。


・「不安」

「勝負」ごとは自分が負けることを考え始めると「不安」に堕ちます。そして、「闘いの心」はいつも「勝負」と関わるので、「不安」と近い関係性にあります。そういった「不安」に堕ちないために、自分の心の中に起こってくる「不安」に「闘いの心」で打ち勝つ必要があります。「不安」にならないようにするために大事なことは、自分が何を「不安」に思っているのかを分析し、一つ一つの「不安要素」を消していくことです。
 

・「咎める心」

「闘いの心」は相手の中にある「闇」を許さないので、そういった態度から説教にも繋がります。しかし、そういった説教が「自分のため」になってしまうと「怒り」や「咎める心」に堕ちてしまいます。ですから、誰かに説教をしている時は、その説教が本当に「相手のため」なのか「自分のため」なのかを見極められるようにする必要があります。

「闘いの心」は「愛(相手のため)」のために相手に説教する姿勢に繋がり、「咎める心」は「欲望(自分のため)」のために相手に説教をする姿勢に繋がると理解して頂き、その上で「咎める心」に堕ちそうな時は自分自身に対して「闘いの心」などで向き合って頂ければ、と思います。
 

・「焦り」

「勝負」は早く自分が勝ちに行きたいと思いやすいものなので、「闘いの心」は「焦り」にも繋がりやすい感情です。しかし、本当に相手を打ち負かすためには適切なタイミングでアプローチをすることが大事ですし、「焦り」に堕ちると判断を誤るので、「焦り」に堕ちそうな時は、そういう自分に対して「闘いの心」などで立ち向かって頂けると幸いです。


・「苛立ち」

「闘いの心」はその内に「嫌悪」を含んでいるので、「嫌悪」を内に含む「苛立ち」と近い関係性にあり、物事が上手く行かない時などに「苛立ち」に堕ちやすくなります。そういった「苛立ち」に堕ちそうな時は、自分自身の「苛立ち」に対して「闘いの心」などで打ち勝つということを行なう必要があります。

 

※補足説明

「闇の気持ち」を克服するために、どの「光の気持ち」を使うのかということによって、どのように「闇の気持ち」と向き合うのかは変わってきます。「闘いの心」で「闇の気持ち」を克服する場合、自分の「闇」と「闘う」ということを行なっていく中で「闇の気持ち」を克服していく形になります。それに対して、「水の気持ち」で「闇の気持ち」を克服する場合、自分の「闇」に対して「問題解決」を行なっていく中で「闇の気持ち」を克服していく形になります

そして、「闘い」は感情的に熱くなるものであるのに対して、「問題解決」は感情的ではなく冷静で思考を優先する立場です。「闇の気持ち」を乗り越えていく上で最も優れている「光の気持ち」が「闘いの心」と「問題解決の心」ですが、この二つの感情にはこのような違いがあることも知っておいて頂けると幸いです。


【最後に】

「闘いの心」は「光の気持ち」の中で最も激しい感情であって、そういった激しさが長所にも短所にも繋がります。ですから、「闘いの心」を本当に適切に使えるようにするためには、そういった長所と短所をよく分かっておく必要があります。このページを通して、そういったことについて知って頂けると幸いです。

「火の気持ち」は「元気・笑い」と「闘いの心」の二つの側面を持ち、「火の気持ち」をよく抱きながら生きている人などは、この間を振れる中を生きていく形になります。「元気・笑い」と「闘いの心」はそれぞれ異なる性質を持っていて、その性質によって長所と短所が異なります。

例えば、「元気・笑い」は肯定的に物事を見がちであるのに対して、「闘いの心」は否定的に物事を見がちですが、そのような違いは「元気・笑い」が「甘さ」に繋がりやすく、「闘いの心」が「怒り」に繋がりやすい傾向などに繋がっていきます。

それぞれの長所についてもっと説明すると、「元気・笑い」は相手を笑顔にすることによって、現状をより良い状況にする力(ゼロからプラスの方向性)があるのに対して、「闘いの心」は何らかの敵を打ち負かすことによって、何らかの悪い状況を問題の無い状況にする力があります。分かりやすく表現すると、「元気・笑い」は「ゼロからプラス」にする力があり、「闘いの心」は「マイナスからゼロ」にする力があります。

それぞれの短所についてもっと説明すると、「元気・笑い」は「怠惰」などに堕ちやすいのに対して「闘いの心」は「怠惰」には堕ちづらく、「闘いの心」は「負けず嫌い」などに堕ちやすいのに対して「元気・笑い」は「負けず嫌い」には堕ちづらい性質があります。

このような形で、「元気・笑い」と「闘いの心」はお互いにお互いの足りないところを補い合っている関係性があります。ですから、この二つの「気持ち」について理解を深める中で、それぞれの「気持ち」の良い面を活かし、それぞれの「気持ち」の悪い面に堕ちそうな時はもう一方の方に自分を導くということがとても大事です。そのためにも、この二つの「気持ち」について理解を深めることはとても大事です。

「元気・笑い」が堕ちやすい「闇の気持ち」については『火の気持ち(元気・笑い)について』の中に書いているので、このページと合わせて読んで頂くことで、それぞれの「気持ち」の短所はよく分かると思います。このページの冒頭にも書いていますが、リンクを貼り付けておきます。

http://junashikari.com/emotion/火の気持ち(元気・笑い)/

また、人間が「元気・笑い」と「闘いの心」の間をどのように振れている中を生きているのかを理解する上でとても参考になるのは、宮崎駿作品の主人公達の心の動き方を分析することです。例えば、キキ、パズー、ポルコ、サツキ、コナン、アスペル、リサ、フィオ、ウルスラといった人物達は皆「元気・笑い」と「闘いの心」の間を振れています。また、『アルプスの少女ハイジ』のハイジや『エヴァンゲリオン』のミサトや『ドラゴンボール』の悟空なども「元気・笑い」と「闘いの心」の間を振れています。そういった作品を通して具体的なイメージを持って頂けると「火の気持ち」について理解が進みます。宮崎駿作品の登場人物についてはここに詳しく書いています。

http://junashikari.com/hayaomiyazaki/宮崎駿について/

今後も「火の気持ち」の「元気・笑い」と「闘いの心」の解説ページは内容を向上させていきます。