ここでは「欲望」の概要を書きます。我々にとって「欲望」はとても身近な気持ちなので、このページを通して理解を深めて頂けると幸いです。御自身が抱いている気持ちについて理解することとは、御自身が何をしているのかを知ることに繋がります。


【「欲望」とは何か?】

「欲望」とは「自分が利益を得ることを目指す気持ち」であって、言い換えると「何かを欲しがる気持ち」です。ですから、本質的に「相手のため」ではなくて「自分のため」の感情です。そして、「欲望」によって手に入れようとする対象は様々であって、お金、物、人、人気、地位、評価、時間、刺激的な体験、住居など、様々な事物が「欲望」の対象となります。


【「欲望」と「快楽」の関係性】

どうして「欲望」を抱くと何かを手に入れることを目指すのかというと、その「欲望」が実現された時に「快楽」を得られるからです。例えば、たくさんお金をもらったり、美味しいものを食べたり、人から褒められたりすることは我々に「快楽」をもたらすからこそ、「欲望」を抱くと、このような「欲望」を実現することを目指します。このような意味で、「欲望」を抱いている時間は「欲望」の実現によって得られる「快楽」を目指す時間です。

しかし、「欲望」は「飽き」が来るようにできているので、同じ「欲望」を実践していっても、そのことによって得られる「快楽」は減っていきます。どうして「欲望」は「飽き」が来るものなのかというと、「快楽」というものが「飽き」が来るものだからです。

例えば、グルメを例に挙げるのであれば、ある人が初めは回転寿司屋の寿司を食べているだけで「欲望」は満たされ「快楽」を得ることができたとします。しかし、しばらくすると回転寿司の寿司に「飽き」が来てしまい、もっといい寿司が食べたくなり、カウンターのお寿司屋さんで寿司を食べて「快楽」を得るようになります。しかし、しばらくするとそのお寿司屋も「飽き」が来てしまって「快楽」を得られなくなり、高級寿司を食べて「快楽」を得られるようになり、、、といった形で続いていきます。また、高級寿司屋の寿司を食べるようになると、回転寿司屋の寿司を食べても「快楽」は得られるどころか「マズイ」という形で「不快」を感じる状況にさえなり得ます。

このような例から明らかですが、「欲望」は更なる「欲望」を求め、肥大化していくものです。「欲望」は「快楽」をもたらし、「快楽」は「飽き」が来るようにできているものだからこそ、「欲望」の対象はどんどん大きくなっていくことを理解して頂けると幸いです。また、「快楽」が大きくなっていくと、以前「快楽」を感じていたものから「快楽」を得られず、むしろ「不快」にさえなるような構造を「欲望」は持っています。


【「欲望」と「苦悩」の関係性】

また、「欲望」は実現されると「快楽」を得られるものですが、実現できないと「苦悩」を感じるものです。例えば、欲しい服があるけれどもその服を買うことができるお金が無かったり、その服の在庫が無ければ、「悔しい、、」「もっとお金があれば、、、」といった形で状況に対する「嫌悪」などに堕ちてしまいます。また、他の誰かがその服を着ていたら「嫉妬」にも堕ちてしまうかもしれません。このような形で、「欲望」が実現されないと、様々な「苦悩」に堕ちてしまう性質を「欲望」は持っています。そして、常に自分の「欲望」を実現し続けるということは不可能なので、「欲望」を選ぶのであればどこかのタイミングで必ず「苦悩」を経験します。

逆に言うと、「欲望」で生きる人は、「快楽」を得るためだけではなく、このような「苦悩」から抜け出すためにも「欲望」を実現させようとします。何故ならば、「欲望」のもたらす「快楽」の状態に自分を持っていけば、「苦悩」から抜け出せるからです。「苦悩」は好ましいものではなく、「欲望」で生きる人は「苦悩」から抜け出す方法を「欲望」しか持たないが故に、「苦悩」から抜け出すために「欲望」の実現を目指すという生き方を生きることになります。

このような意味で、「欲望」を選ぶのであれば「欲望」自体に自分自身を「支配」されてしまうことに繋がります。自分の中に何らかの「欲望」が生まれては、その「欲望」が実現されることによって得られる「快楽」のために生き、その「欲望」が実現されなかった時には「苦悩」を感じ、その「苦悩」から抜け出すために「欲望」の実現を目指すという、「欲望」の悪循環に捕まってしまいます。このような状態になると、人は自分の「意志」で生きているのではなく、「欲望」の奴隷となってしまうからこそ、「欲望」は恐ろしいものです。


【「欲望」と「愛」の関係性】

「欲望」と「愛」は相反するものです。「欲望」は「自分が利益を得ることを目指す気持ち」であるが故に「自分のため」を優先します。それに対して、「愛」は「相手を大事に想う気持ち」であるが故に「相手のため」を優先します。

そして、「欲望」と「愛」が「自分のため」と「相手のため」という点で相反するものであるからこそ、「欲望」が大きくなればなるほど「愛」は失われていきます。逆に言うと、「愛」が大きくなると「欲望」を減らすことができます。「自分のため(欲望)」を考える気持ちが大きくなればなるほど、相対的に「相手のため(愛)」を考える気持ちは小さくなり、「相手のため(愛)」を考える気持ちが大きくなればなるほど、相対的に「自分のため(欲望)」を考える気持ちは小さくなるからです。

我々は生きている間、絶えず自分と他人のどちらを優先するのかという選択を心の中でしています。この選択が「愛」を選ぶのか「欲望」を選ぶのかという選択のことを意味しています。


【「欲望」が「問題」を生むことについて】

そして、「欲望」は本質的に「自分のため」の感情であるが故に、「他人のため」に行なう配慮に欠け、自分も意図せず何らかの「問題」を作ることに繋がります。例えば、ある父親が車を買ったとして、その人は本当は車にお金を使うよりも「家族のため」にお金を使うことをすべき状況だったかもしれません。もし、そうだったとしたら車を買ったことで家族と関係性が悪くなるかもしれません。「家族のため」に使うべき大金を「自分のため」に夫が使ったら、多くの妻は夫に対して「不満」を持つからです。こういった「不満」が家族間での「問題」となっていきます。

しかし、「欲望」に捕まってしまうと、自分の「欲望」を実現することが、家族に対する「愛」よりも勝ってしまうので、「車が欲しい」という気持ちに堕ち、車を買うことが自分にとって最優先事項になってしまいます。このような形で、「欲望」に堕ちると、間違った選択を行なってしまい、そのことによって何らかの「問題」を生みます。この例で言うと、場合によっては、借金をして車を買うようなことにも繋がり、その借金が家族を苦しめることにもなり得ます。実際、日本中で「欲望」がきっかけで不必要な借金を作り、家族関係が悪くなるということは、よくあることです。

そして、「欲望」は他人に対する配慮に欠ける状態を作るだけではなく、他人を自分の道具のように利用することに繋がる感情です。本当に「自分のため(欲望)」という気持ちが強くなると、「相手のため(愛)」という気持ちが失われ、他人を利用することに対してためらいも起きなくなり、むしろ他人を利用したいと思うようにもなるからです。そして、その態度が何らかの「問題」を作っていきます。

例えば、会社の社長が自分の「欲望」のために会社を経営していたとしたら、自分の道具のように社員を使うことになります。そして、そのような会社で働いている社員は必ず何らかの「不満」を抱えます。何故ならば、自分のことを何も考えていないような指示が上からくるからです。そして、その会社の社員はその「不満」を解消させるために、お酒やグルメやギャンブルといった、何らかの「欲望」を使って発散させようとすることにも繋がります。そうすると、その社員も知らず知らずの内に「欲望」に取り憑かれていきます。そして、社員のその「欲望」が原因でその社員の恋人・友人・家族が何かしらの「不満」を持つことにも繋がっていきます。このような構造で「問題」が広がっていきます。

こういった意味で「欲望」は広がっていくものです。一人の人間の「欲望」は他の人に広がっていくという構造は知っておいて頂けると幸いです。そして、「欲望」は更なる「問題」を生み、皆が「欲望」に堕ちていけばいく程、家族単位でも友人単位でも社会単位でも「問題」が増えていきます。そして、皆がお互いにお互いの首を絞め合う社会になっていきます。

また、「欲望」に堕ちると、他人や社会が抱えている「問題」はどうでもいいことに感じられてきます。何故ならば、「欲望」に堕ちると「自分のため」のことなら重要なので、自分に「不利益」を与える「問題」のことは大事なことですが、他人の「問題」は自分に「不利益」を与えるわけではないが故に、どうでもいいと思えるからです。つまり、「欲望」に堕ちると、他人の問題を他人事に感じられます。このような構造で、社会全体の「欲望」が強くなっていくと、どんなに「問題」が増えていっても、それを解決しようとしない態度に繋がっていきます。

もし、「愛」の立場であれば、愛する誰かが苦しむことは望まないので、他人の「問題」でも解決しようとします。何故ならば、それは他人事ではないからです。また、「愛」の立場であれば「他人のため」に何かをしようとするので、「問題」ではなく何か素晴らしいものを作っていきます。例えば、「愛」があれば「親無しの子供達のため」に本当に素晴らしい孤児院を建てたいと思ったりします。そういった物が生まれれば、長い間多くの孤児達を支えることになるので、これはとても素晴らしいことです。

このような形で、「欲望」は「問題」を生み、「問題」を解決しようとしないのに対して、「愛」は「素晴らしい何か」を生み、「問題」を解決しようとしていくという構造は御理解頂けると幸いです。
 

【「欲望」と「嫌悪」の関係性】

現代は、「欲望」によって人がどんどん他者を道具のように捉えていっている時代です。そのことは言葉の使い方によく表れてきます。例えば、今の時代は人が人に対して「使える・使えない」という言葉を使いますが、これは「愛」の欠如をよく表している言葉です。「使える・使えない」とは物に向けて言うべき言葉ですが、この言葉を人間に向けて使うようになっているのは、相手に対する「愛」が失われ、他人を「自分のため」の道具のように考えてていってしまっているからです。もし、相手に対する「愛」があれば相手を道具のようには捉えないので、絶対に「使える・使えない」という言葉を人に向けて使うことはできません。

「あの人が使えないから、私が仕事を長くやらないといけなくなった」という「不満」の愚痴は会社の中にいるとよくあることだと思います。これは心の動きとしては「嫌悪」ですが、こういった「嫌悪」と「欲望」とは表裏一体の構造を持っています。「あの人が使えないから、私が仕事を長くやらないといけなくなった(嫌悪)」とは、言い換えると、「私が仕事を早く終えるために、あの人が使える人だったらいいのに(欲望)」ということを意味するからです。このような形で「欲望」と「嫌悪」は表裏一体の構造を持っています。

相手の仕事のやり方が悪いことによって、自分が得る「不利益」のことを優先して考えるのであれば「自分のため」を選ぶことになり、「嫌悪」を選択することになります。そして、相手のことを「許せない」と思い、「嫌悪」に堕ち、「愛」に欠けていきます。「あの人が使えないから、私が仕事を長くやらないといけなくなった」という心の中の「嫌悪」の声は、自分が得た「不利益」のことを優先して考えるが故に、相手に対する「嫌悪」に堕ちてしまった時に生まれるものです。

もし、「愛」の立場だったらどのような心の声になるかというと、「彼(彼女)の仕事のやり方はこういうところが良くないから、彼(彼女)が他の人から嫌われないために、何とかいいアドバイスはできないだろうか」といった形になります。この場合は、自分が得た「不利益」のことについて、相手のことを「許す」ということを行い、その上で「相手のため」を考えているので、「嫌悪」に堕ちず「愛」を保つことができています。

つまり、このケースの場合、相手が自分にもたらした「仕事を長くしないといけない状況」という「不利益」について、「許す」「許さない」のどちらを選択するかによって、「嫌悪・欲望」を選択するのか「愛」を選択するのかということが変わっています。相手よりも自分のことを優先するのであれば、「許せない」という「嫌悪」を選ぶことになり、それが「あの人が使えたらいいのに」という「欲望」に転じます。それとは反対に、自分よりも相手のことを優先するのであれば、「許す」という「愛」を選ぶことになり、それが「彼(彼女)を支えたい」という「愛」に繋がります。

このような意味で、「嫌悪」は「欲望」と表裏一体の構造を持っていること、「欲望(自分のため)」と「愛(相手のため)」、「嫌悪(許せない)」と「愛(許す)」は対立の構造を持っていることを理解して頂けると幸いです。整理すると、以下のような構造になります。

   闇の立場           光の立場
 「嫌悪(許さない)」     ⇔     「愛(許す)」
    ⇩                ⇩
 「欲望(自分のため)」  ⇔  「愛(相手のため)」

我々はどんな生き方をしていても、こういった「愛」と「欲望・嫌悪」の選択を心の中でいつも行なっています。これは「光」と「闇」の選択そのもののことを意味します。だからこそ、御自身が一体どのような選択を日常生活の中で行なっているのかを知って頂けると幸いです。


【「欲望」は「愛」を分からなくさせることについて】

あまりにも「欲望」に囲まれた生活を送っていると、「欲望」が当然のように思えてしまって、「愛」が何なのかが分からなくなっていきます。何故ならば、実際に「愛」を抱いて生きている人と接しないが故に「愛」のことが経験として分からなくなりますし、「欲望」があまりにも当然のことだからこそ、「欲望」が「欲望」としても見えなくなってしまうからです。このような構造で、「欲望」だけに囲まれて生きていると「愛」と「欲望」の対立関係が分からなくなり、「愛」が分からなくなっていきます。「愛」と「欲望」は対比することによって理解が深まるものなのですが、「欲望」ばかりに囲まれると「愛」も「欲望」も分からなくなる形になります。

また、「欲望」に囲まれた生活を送っていると、他人の本当の「愛」に対して「この人はどんな見返りを求めているのだろうか?」といった「疑い」を抱くようになってしまい、他人の「愛」を「愛」と信じられなり、そのことによって「愛」を感じられなくなります。相手の「愛」を「愛」と信じられない限り、相手の「愛」を受け取ることによって「喜び」を感じることができません。何故ならば、いつまでも「疑い」を抱くことになるからです。

例えば、自分が道に迷っている時にある人が本当に善意で「道に困ってますか?」と声をかけてきて道案内をしてくれた時に、「この人は何かのキャッチかな、、」といった「疑い」を抱いていると、相手の「愛」を感じることは不可能です。そして、どんなに相手の声や表情が「愛」に満ちていて素晴らしく見えても、「この人って、演技が上手だな、、」といった「疑い」に捕まってしまって、「愛」を感じることはできません。もし、この時に相手の「愛」を信じられたら、その人の表情や何気ない会話から、「こういう親切って素敵だな、、私はこういうの忘れていたかもしれない、、」といった形で、自分を改めることにも繋がっていくのですが、「疑い」に堕ちるとそういった学びは得られなくなっていきます。

このような形で、相手の「愛」を「愛」であると信じるか、相手の「愛」を「疑い」で捉えるかによって、自分が「愛」を学ぶことができるかどうかということが変わってきます。そして、「自分のため」に生きる人=「欲望」で生きる人が多くなると、本当に「他人のため」に生きている人がいることを信じられなくなるからこそ、「愛」に対する「疑い」を抱く現象が生まれます。実際、東京などは「自分のため」に生きている日本人が本当に多いので、そのことから「結局、皆自分のために生きている」「結局皆自分が一番大事」という思想を無意識に信じることに繋がり、「愛」に対する「疑い」が生まれる傾向はあります。

「欲望」で生きるようになると「愛」を自分が実践することがどんどんできなくなります。そういった人が、自分が「愛」を実践することによって「愛」を学んでいくことはかなり難しいことです。だからこそ、そういった人は他人の「愛」を感じることによって、「愛」の価値を学ぶことが「愛」を取り戻していく上でとても大事になります。「愛」に価値があることに気付くと、「欲望」ではなくて「愛」の方向性へ生きようと思えるからです。しかし、他人の「愛」に対して「疑い」を抱くようになってしまうと、他人の「愛」を信じられなくなるが故に、その「愛」を感じられなくなり、もう「愛」の価値を学ぶことはできなくなってしまいます。こういった構造によって、「欲望」が原因で「疑い」に堕ち、「愛」を取り戻すことができなくなることはよくあります。

また、「欲望」に満ちた生活を送っていると「愛」に対する「嫌悪」も生まれてきます。「自分で自分を肯定したい」という「欲望」が生まれ、そのことによって「愛」に対して「嫌悪」するということが起こるからです。「欲望」で生きる人にとって「愛」の価値を認めることは自分を否定することに繋がります。だからこそ、自分を否定しないために、「愛」に「嫌悪」するということを無意識に選択することはよくあります。これを心の声として表現するならば、「なんかアイツって、小綺麗な感じがして嫌なんだよなー」といった形になります。多くの日本人は「愛」と「欲望」の違いを言葉で理解しているわけではないですが、感覚的には感じているので、自分を肯定するために無意識にこのような言葉を使って「愛」を「嫌悪」するということを行ないがちです。

このような形で、「愛」を認めないという心の動きは他にも多くあります。例えば、「愛」のことを「ダサイ」と思ったりすることによって、「自分で自分を肯定したい」という「欲望」を実現することはできます。この場合は「嫌悪」ではなく「見下し(優越感)」によって、「愛」を過小評価し、自分を肯定するという方法になります。

こういった形で、「愛」に対する「嫌悪」や「見下し(優越感)」に捕まると、「愛」の価値を「認めない」という方向へ心が動きます。「愛」に対して「疑い」を抱くことと同様に、「愛」に対する「嫌悪」や「見下し(優越感)」を抱くことも、「愛」を取り戻すことができなくなる一つの原因であることを知って頂けると幸いです。このような形で「欲望」は「疑い・嫌悪・優越感」などに繋がることで、人に「愛」の価値を分からなくさせる、非常に恐ろしいものです。


【「欲望」と日本】

今の日本は本当に深く「欲望」に取り憑かれています。それは「欲望」を強めるような構造を社会が持っていますし、「欲望」を強めるような習慣を皆が行なっているからです。そして、その「欲望」が原因で様々な「問題」が生まれています。

多くの人は固定給や社会保険が欲しいといった「欲望」や「不安」などが原因で会社に入り、会社に入ったことで様々な「不満」を抱え、その「不満」を発散するために「欲望」に手を伸ばすことによって自分の中の「欲望」が大きくなり、その「欲望」が原因で他人を自分の道具のように捉え始め、そのことが原因で別の人が「不満」を抱え、その人も「不満」を発散させるために「欲望」を実践し、、、といった形で、最悪の悪循環が生まれています。

もちろん、いい会社ではお互いがお互いに対する「愛」を抱いているが故に「不満」は生まれにくいですが、そういった会社は多くありません。また、会社という組織は生き残るために経済的な利益を絶対に生まなければならないので、経営者は「欲望」だけではなく「不安」が故に人を道具のように使い始めるという構造が生まれやすいです。そのような構造があるからこそ、社員が「不満」を抱えやすい状況が生まれ、そういった「不満」を「欲望」によって「ストレス発散」しようとします。

また、日本社会では当たり前のように愚痴の会話が飛び交っています。愚痴を言うということは、「他人に対して嫌悪を抱くことは普通」という考え方を無意識に我々に定着させてしまいます。もし、ほとんどの人が愚痴を言わない社会だったら、「他人に対して嫌悪を抱くことは普通ではない」と思い、皆が他人を「許す」方向性で生きようと努力するはずです。しかし、日本社会は愚痴が多いので他人を「許す」という努力をする以前に「許さない」という「嫌悪」に堕ちがちです。だからこそ、自分がちょっとした「不利益」を他者から与えられると、すぐに「嫌悪」を抱き、そういった「嫌悪」が「欲望」に転じることによって「欲望」を社会全体で強めています。愚痴を減らしていくということは、本当にいい社会を実現させる上で絶対に日本人が行なわないといけない一つの課題です。

日本社会の生活リズムも「欲望」を強めやすい構造を持っています。多くのサラリーマンにとって平日は我慢の時間であって、我慢とは「嫌悪」と密接な関係にあります。そして、金曜日の夜から日曜までは平日の「嫌悪」などによって生まれる「不満」を発散させる時間であって、「欲望」に強く共感します。そして、また月曜になると我慢の時間になり、、、といった形で、「嫌悪」と「欲望」の間をずっと振れていく構造が生まれています。本当に好きな仕事をやっていれば「嫌悪」に堕ちることもないのですが、多くの人は自分が本当にしたい仕事をしているわけではないので、このような悪循環に捕まってしまっています(逆に言うと、好きなことをすることは「嫌悪」に捕まらないためにとても大事なことです)。

また、日本社会には様々な「欲望」を満たすための道具があります。様々な種類のお店があるので、食べたい物や欲しい物はお金があれば何でも手に入れられますし、携帯を開くだけで何でも買い物ができる社会です。こういった社会だからこそ、皆が自分が欲しいものを手に入れるためにお金に対する「欲望」を抱いているという状況が生まれます。

また、様々な商品広告は、我々の「欲望」をかき立てます。例えば、テレビコマーシャルでタレントが美味しそうにビールを飲んでいたらビールを飲みたくなります。広告にはそのような力があります。そして、道を歩いていても、電車やタクシーに乗っていても、テレビを見ていても、ネットを開いても、商品広告を見ないようにすることは不可能です。ですから、「欲望」を抱かないように心掛けない限り、何かしらの「欲望」を商品広告を通して抱いてしまいやすい構造があります。

さらに、テレビや歌や携帯などが「欲望」をどんどん助長している側面は強くあります。歌にしてもテレビ番組にしても携帯のアプリにしても、それを作る人の動機が「欲望」であれば、生まれてくるものも「欲望」となります。何故ならば、「欲望」で何かを作る人は何らかの「餌」をお客に与えることによって、自分が得る収入や視聴率を増やそうとするからです。そういった「餌」は「欲望」のもたらす「快楽」のことなので、そのようなものが流行ると、多くの日本人が「欲望」に同調することになります。

もちろん、昔から「欲望」に同調することを促すテレビや歌などはありましたが、この数十年でそういったものがどんどん増えています。その時代の精神は歌謡曲によく表れますが、10年前、20年前、30年前、40年前と比べると日本人がどんどん「欲望」に堕ちていっているということは、ランキングを見ると明らかです。また、携帯ゲームなどは20年前には無かったものですが、そういった新しい「欲望」の媒体が生まれることによって、日本人が「欲望」に堕ちることに拍車をかけています。

このように、日本社会は皆が「欲望」に堕ちやすい膨大な「問題」を抱えています。これを言い換えると、日本社会は「欲望」に堕ちやすい「罠」が多すぎるということです。

どうしてこのような「問題」と「罠」に満ちているかというと、そういったものを作る日本人が多いからです。しかし、彼らも悪意があってそういった「問題」と「罠」を作っているのではなく、ただ「自分のため」に作っているだけです。では、どうしてそういったものを日本人が作る傾向があるかというと、日本人が「欲望」の恐ろしさを知らないからです。我々が「欲望」について正しい理解をしていないことが、諸悪の根源にあることを知って頂けると幸いです。

「欲望」とは何なのかをちゃんと理解すれば、「欲望」の恐ろしさは自ずと理解でき、「欲望」と仲良くし過ぎないように気を付け始めます。しかし、日本人は心の成り立ちを考えなくなってしまっているので、「欲望」が何なのかを考えず、だからこそ「欲望」の恐ろしさを知らないまま生きることになってしまっています。

また、日本人が「愛」の「喜び」を見失っていることも「欲望」の「快楽」に堕ちてしまう一つの原因です。「愛」の「喜び」を感じたことがなく、「欲望」の「快楽」しか感じたことがなければ、人は「欲望」の「快楽」を目指し始めます。「喜び」と「快楽」は我々にとって「気持ちいい」ものです。誰しも「気持ちいい」ことを目指しますから、「喜び」を知らず「快楽」しか知らなければ「快楽」を目指してしまう部分はあります。

「愛」の「喜び」は「幸せ」そのもののことです。それに対して「快楽」は「幸せ」とは異なり、刹那的で虚しいものです。「幸せ」についてはここに詳しく書いています。

http://junashikari.com/emotion/幸せ/


【最後に】

「欲望」は「快楽」という「餌」と引き換えに、我々の心を「支配」する程の力がある「闇の気持ち」です。どうして我々の心を「支配」できるのかというと、「欲望」を求め続けさせることで我々を「支配」し、「欲望」が実現しないと「苦悩」で「支配」し、「真実」を見えなくし、「愛」を取り戻させなくするからです。このような意味で、「欲望」はどんどん我々を「不自由」にしていき、「欲望」と仲良くすればする程、「欲望」の奴隷となっていきます。

そして、「欲望」を選ぶのであれば、「自分のため」に何かをすることになるので、何かしらの「問題」を生み、意図せず他人を傷付けていくことに繋がります。それに対して、「愛」を選ぶのであれば、「相手のため」に何かをすることになるので、本当に素晴らしいものを生み、「問題」を解決し、他人を笑顔にしていくことに繋がります。

このような意味で、「欲望」は自分や他人を「幸せ」にするものではなく、自分や他人を「不幸」にするものです。日本人は他人を「不幸」にしたいと思っている人は少ないと思いますし、「幸せ」になりたいと思っている人がほとんどだと思います。これは日本人が「欲望」ではなく「愛」を選ぶべきだということを意味しています。我々日本人はこういった構造を理解していないが故に、「欲望」を選んでしまっているだけです。

なんとか、御自身の人生の中で「欲望」をできるだけ選ばずに「愛」を選んで生きていって頂ければ、と思います。つまり、「自分のため」ではなく「相手のため」を選び、「許さない」のではなく「許す」ことを選んで頂ければ、と思います。そのことによって、御自身も御自身の周りの人も「幸せ」になっていくことができます。「愛」が小さい社会なので、こういった社会でちょっとした「愛」を実践することが他人の人生を大きく支えます。

例えば、私の家の近くにとても「愛」の強いコンビニの店員がいたのですが、その人はコンビニの接客の中で、何気ない会話を交わしながら皆を笑顔にし、「愛」を広げていました。疲れ切って家に帰る時に、本当の「愛」を抱いて自分に接する人がいることはとても嬉しいことです。それにコンビニは結構な数の人が利用する場所です。だからこそ、このコンビニの店員さんはかなりの人の人生を支えていたことは間違いなく言えます。

ほとんどの人は、コンビニでアルバイトができると思いますが、このことはほとんどの人にはかなりの「愛」の実践ができるということを意味しています。それに、友人や職場の人に「愛」を持って接するということは今日からできることです。そういった積み重ねの中で、人は「愛」のもたらす「喜び」の方が「欲望」のもたらす「快楽」よりも素晴らしいということを経験として理解できます。

我々が「愛」よりも「欲望」を選んでいるのは、「愛」の価値を学ぶことができる体験が少ないからです。「愛」を実践する人が少ないと「愛」を経験することができなくなっていくので、このような状況になっていきます。だからこそ、他人に対して「愛」を実践することは、とても大事です。

このような「愛」の流れを我々が作っていければ、「欲望」に突き進む現代の流れを少しでも止められるはずです。しかし、御自身が「愛」を実践するかどうかは、御自身の「意志」次第です。日常生活の中で「欲望・嫌悪」を選ぶか「愛」を選ぶかという局面は多くあると思いますが、そういった局面で、「欲望・嫌悪」を選ぶのをなんとか踏みとどまり、「愛」を選んで頂ければ、と思っています。

このページを通して「欲望」の恐ろしさを理解して頂き、少しでも「愛」を実践する機会を増やそうと思って頂けると幸いです。


※「欲望」には様々なものがあり、「食欲」「性欲」「物欲」「金欲」「睡眠欲」「権力欲」「支配欲」「自己顕示欲」といったものがありますが、それぞれの「欲望」については別のページで詳しく書きます。