「嫌悪」について(2017/7/12更新)
2017.07.09 心の成り立ち(基礎:気持ちの種類)
「嫌悪」についての解説録音はこちらです。文章よりも音声解説の方が分かりやすいと思いますので、聴いてみて頂けると幸いです。
ここでは「嫌悪」の概要を書きます。我々にとって「嫌悪」はとても身近な気持ちなので、このページを通して理解を深めて頂けると幸いです。
【「嫌悪」とは何か?】
「嫌悪」とは「自分が不利益を得ることを嫌がる気持ち」であって、言い換えると「何かを嫌がる気持ち」です。だからこそ、その状態から脱することを「欲望」することに繋がりやすい性質を持っています。
例えば、誰かから文句を言われて、そのことを通して「嫌悪」を感じると、人はその「嫌悪」を紛らわせるために、お酒やグルメといった「欲望」に逃げていきやすくなります。つまり、文句を言われるという「不利益」を得たことを「嫌悪」するからこそ、何か「利益」を「欲望」することに繋がりやすくなります。このような意味で「嫌悪」は「欲望」に繋がりやすいものです。
また、「嫌悪」と「苦悩」は密接な関係にあります。例えば、人から文句を言われても、そのことを「嫌悪」しなければ人は「苦悩」をしません。このような意味で、我々が何かしらの気持ちによって「苦悩」を感じる根本的な原因が「嫌悪」であることを理解すると、心の成り立ちについての「真実」が見えてきます。
「嫌悪」には様々なものがあります。例えば、「劣等感」も一種の「嫌悪」です。「劣等感」は「自分が劣っている何かを嫌がる気持ち」だからです。もし、「自分が劣っている何か」を「嫌悪」しないのであれば、「劣等感」を感じることにはならないとも言えます。このことは他の多くの「闇の気持ち」についても同様に言えます。
例えば、「絶望」は「希望がないことを嫌がる気持ち」です。希望が無くても、希望がないことを「嫌悪」しないのであれば「苦悩」はしなくなり、「絶望」ではなく「諦め」を抱くことになります。「諦め」は希望がないことを「嫌悪」するのではなく、希望がないことを受け入れ、希望を抱くことに対して「諦め」を抱くので、「絶望」よりは楽です。「諦め」は「嫌悪」も「欲望」も内に含まれず、「愛」を実践する人にとっても「欲望」を実践する人にとっても平等に時に必要で有効な気持ちだからこそ「中立の気持ち」です。
一般的に「嫌悪」や「欲望」と言われていない気持ちの中には「嫌悪」と「欲望」に関連するものが多くあるので、ここでは「嫌悪」に基づく「闇の気持ち」を列挙したいと思います。
「怒り」=「相手自体や相手の言動」を「嫌悪」→「相手を攻撃すること」を「欲望」
「絶望」=「希望がないこと」を「嫌悪」
「恐怖」=「怖いこと」を「嫌悪」(人によっては「怖いこと」を「欲望」例:お化け屋敷)
「疑い」=「相手を信じること」を「嫌悪」→「相手を疑うこと」を「欲望」
「不安」=「少し怖いこと」を「嫌悪」
「依存」=「相手に頼れないこと」を「嫌悪」→「相手に頼ること」を「欲望」
「後悔・罪悪感」=「自分がしたこと」を「嫌悪」
「比較の闇(劣等感)」=「自分が劣っていること」を「嫌悪」→「自分が優れること」を「欲望」
「怠惰」=「何かをすること」を「嫌悪」→「何もしないこと」を「欲望」
「苛立ち」=「イライラすること」を「嫌悪」
「憂鬱」=「漠然とした嫌悪」を「嫌悪」
「嫉妬」=「自分に実現できないことを他人が実現すること」を「嫌悪」
「頑固」=「考えを変えること」を「嫌悪」→「考えを変えないこと」を「欲望」
「負けず嫌い」=「負け」を「嫌悪」→「勝ち」を「欲望」
「逃げ」=「現状に身を置くこと」を「嫌悪」→「現状から逃げること」を「欲望」
「焦り」=「間に合わないなど」を「嫌悪」→「間に合わせることなど」を「欲望」
「被害妄想」:「誰かに悪く思われること」を「嫌悪」
「混乱」:「理解ができずに、混乱すること」を「嫌悪」
これらは全て「闇の気持ち」ですが、様々な「闇の気持ち」がこのような意味で「嫌悪」と「欲望」を基本感情とすることを理解して頂けると幸いです。そのことによって、「闇の気持ち」の本質が見えてきます。
このホームページでは、狭い意味では「嫌悪」と「劣等感」などは別のものとして書いています。何故ならば、分けて説明した方がより厳密に理解できるからです。しかし、本質を見るためには、「嫌悪」と「劣等感」はあまり差がないものとして考えて頂くことが大事だと思っています。
結局は「嫌悪」の対象が何かによって呼び方を変えているだけだと理解して頂けると幸いです。「人から文句を言われること」といったことを「嫌悪」する場合は「嫌悪」と呼び、「自分が劣っていること」を「嫌悪」する場合は「劣等感」と呼んでいるに過ぎません。上の一覧はその「嫌悪」の対象を整理したものだと理解して頂ければ、と思います。
【「嫌悪」と「問題解決の心・闘いの心」の違い】
「闇の気持ち」の「嫌悪」は「自分のため」の「嫌悪」です。例えば、人から文句を言われることに関して「嫌悪」をするのは、「誰かのため」ではなく「自分のため」です。
それに対して「光の気持ち」の「嫌悪」は「誰かのため」の「嫌悪」です。例えば、「問題解決の心(水の気持ち)」は「問題」に対して「嫌悪」を抱き、「闘いの心(火の気持ち)」は「敵」=「愛する人を傷つける存在」に対して「嫌悪」を抱きます。だからこそ、「問題解決の心」を抱くと問題を解決しようとし、「闘いの心」を抱くと愛する人を傷つける存在を倒すことに繋がっていきます。
例えば、人の愚痴ばかり言っている人に対して「嫌悪」を抱くことは「問題解決の心」または「闘いの心」です。何故ならば、愚痴を言うことを間違っていると考えることは多くの場合「自分のため」ではなく「誰かのため」だからです。誰かが誰かの文句を言うことは、様々な誤解を生むきっかけにもなりますし、直接その相手に言う行為ではないので相手のためにもなりません。他にも愚痴を言うことは様々な意味で間違っています。とにかく、愚痴に対して「嫌悪」している人は愚痴が間違っていると考える何らかの理由によって、「問題解決の心」や「闘いの心」で「嫌悪」している形になります。もちろん、自分が愚痴の対象となるのが嫌が故に、愚痴に対して「嫌悪」を抱く場合は「自分のため」なので、「闇の気持ち」の「嫌悪」です。
現代の日本は物事に対して否定的に捉えること自体が間違っているように捉えられがちなところがあります。しかし、実際は何らかの問題を乗り越えていくためには、その問題自体を否定することは必要なことです。もし、その問題を肯定してしまうのであれば、問題とは捉えられなくなるからです。我々はそれが間違っていると思うからこそ、それを問題だと思い、問題だと思うからこそ、その問題を乗り越えようとしていきます。我々が問題を乗り越えていく時の心の動きは必ずこういうものなので、何かを否定的に捉えることはより良い世界や環境を作っていく上で必要不可欠なものです。だからこそ、間違っているものに対して「嫌悪」することは「自分のため」の「嫌悪」とは真逆のものであって、「光の気持ち」の「嫌悪」です。
我々は生きている間に様々な「嫌悪」を抱いていますが、大きく分けて「自分のため」の「嫌悪」と「誰かのため」の「嫌悪」があると理解して頂けると幸いです。そして、「自分のため」の「嫌悪」には上に列挙したように様々な種類があり、「誰かのため」の「嫌悪」には「問題解決の心」と「闘いの心」の二種類があると理解して頂ければ、と思います。
自分が抱いている気持ちが正しいものなのか間違ったものなのかを自分自身の力で吟味できるようにすることはとても大切なことです。そのためには、様々な気持ちについて理解を深める必要があります。「嫌悪」に関する様々な気持ちは一番数が多いので、一番混乱や誤解が生まれやすい部分です。例えば、「問題解決の心」の「嫌悪」は必要なものなのに、「嫌悪」が間違ったように感じると「問題解決の心」を抱くことを止めてしまいます。
そういった誤った判断をしないために、「嫌悪」に関連する様々な気持ちについて理解を深めて頂けると幸いです。
【「嫌悪」がいかに悪しきものなのか】
「闇の気持ち」の「嫌悪」を抱かないようにする上で最も大事なことは、「嫌悪」を抱くことがどのような形で自分や他人に害を与えることを知ることです。
自分が経験する「苦悩」の原因が「嫌悪」だということを知れば、「苦悩」しないために「嫌悪」を抱かないようにしようと思えます。誰にとっても「苦悩」することは嫌なことだからです。現代社会は「苦悩」の原因が「嫌悪」であることを理解していないからこそ、自ら「嫌悪」に足を踏み入れ、そのことによって「苦悩」を経験しています。
そして、「嫌悪」は発散の方向性へ向かいますが、そのことが自分や他人に害を与えていきます。例えば、誰かに対して「嫌悪」を抱くと、その相手に対して嫌な接し方をすることを「欲望」することによって発散を目指したりしますが、そのことで相手に不愉快な思いをさせたりすることに繋がります。また、誰かを「嫌悪」すると、その人と過ごす時間が自分にとっても嫌な時間となります。ですから、他人に対して「嫌悪」を抱くことは「相手のため」にも「自分のため」にも良くないことです。こういったことを踏まえて、可能な限り人に対して「嫌悪」を抱かないようにするということは、我々が「幸せ」に生きていく上で大事なことです。
「嫌悪」は絶対に自分にとって不愉快な感覚を与え、その「苦悩」が自分を苦しめます。また、その「苦悩」を紛らわせるために「欲望」で発散するのであれば、自分の心は少し「欲望」を強め、そのことによって「愛」が相対的に弱まります。何故ならば、「愛」と「欲望」は「相手のため」と「自分のため」で相反するものだからです。「欲望」が強まると「相手のため」よりも「自分のため」を考えやすくなります。そして、「愛」が弱まると「愛」から生まれる「喜び」も弱まるので、「幸せ」から遠ざかっていきます。「幸せ」は「愛」の生む「喜び」のことだからです。
ですから、「嫌悪」を抱くことに何もいいことはなく、自分や他人を「不幸」にしていくことに繋がっていくだけです。我々現代人は心の成り立ちのこういった基本的なことを知らないが故に「嫌悪」を抱きがちなだけであって、本当にこのことを理解したならば、「嫌悪」を抱きたいとは誰も思わないようになります。だからこそ、こういったことを知ることはとても大事なことです。知るということは、心の動きを大きく変える力を持っています。
何らかの「嫌悪感」が迫ってきた時に、その「嫌悪感」に対して心の中で闘うことができれば、その「嫌悪感」はおさまっていきます。逆に言うと、その「嫌悪感」に対して心の中で同意した時に「嫌悪」は成立してしまいます。我々はいつも自分がどういう気持ちを抱くのかということを心の中で選んでいるので、このような段階分けがあります。
「嫌悪感」に同調しないためには、「嫌悪感」と闘う必要があり、そういった闘いを行うためには、如何に「嫌悪」が悪しきこういった知識を持つことがとても大事です。そういった知識が「嫌悪感」に同調してはいけないという強い気持ちを作っていくからです。