ここでは「土の気持ち」について書いていきます。


【「土の気持ち」=「忍耐・勇気」】

「土の気持ち」とは「自分が正しいと信じることをやり続ける気持ち・やり始める気持ち」のことを意味し、「忍耐・勇気」のことを意味します。どうして、このように整理されるかというと、以下のような意味を持っているからです。

「忍耐」=「信じることのために何かをやり続ける気持ち」
「勇気」=「信じることのために何かをやり始める気持ち」

また、「信念」という言葉は「正しいと信じる自分の考え」のことなので、「土の気持ち」とは、自分の「信念」のために行動する気持ちのことを意味します。

「光の気持ち」の中で「土の気持ち」に最も特徴的な点は、「土の気持ち」自体には「愛」が含まれていない点です。「水・火・風の気持ち」には「愛」が含まれていますし、「金の気持ち」は「愛」そのものです。しかし、「土の気持ち」は「愛」が一切含まれていません。だからこそ、「土の気持ち」を抱いているその瞬間は「愛」という動機を持ちません。そのことが「忍耐」と「勇気」という言葉に表現されています。

「愛」があれば、自然と「忍耐」も「勇気」も出てきます。「相手を助けたい(問題解決の心)」「相手を元気にしたい(元気・笑い)」「相手を守りたい(闘いの心)」「相手を支えたい(優しさ)」といった形で「愛」の動機がまず最初にあり、その気持ちが自然と「忍耐」にも「勇気」にも繋がるからです。つまり、「愛」があると自然と「〜したい」という気持ちが出てきますし、「愛」が大きければ大きい程、その「〜したい」という気持ちも大きくなるので、「〜し始めたい」=「勇気」、「〜し続けたい」=「忍耐」という気持ちにも繋がっていきます。

それに対して、「土の気持ち」の動機は「愛」ではなく「自分が正しいと信じるもの」です。だからこそ、「土の気持ち」の場合は「〜したい」というよりも「〜すべき」という心の動きが生まれます。我々人間にとって、自分が「〜したい」と思うことをすることは楽ですし、自然と力も生まれます。例えば、自分の幼い子供が誤って車道に飛び出していくと、「助けたい」という気持ちが出てきて、その気持ちが力を生み、「勇気」も生みます。それに対して、「〜すべき」と思うことをすることは心の動き方が異なります。例えば、自分が全く「愛」を感じない幼い子供が誤って車道に飛び出していった時に、「子供は絶対に大人が守ってあげる必要がある」という信念だけで助けに行く形になります。こういった姿勢が「土の気持ち」の基本的な心の動き方になります。この場合は「〜したい」ではなく「〜べき」なので、「愛(守りたい)」を使う場合よりも力が生まれにくいです。そういった心の状況の中でも助けに行くのであれば、「愛」から生まれる「勇気」ではない「勇気」が必要となります。そういった「勇気」が「土の気持ち」の「勇気」です。

つまり、「勇気」には二種類あり、「〜したい」という気持ちから生まれるものと「〜すべき」という気持ちから生まれるものがあります。「愛」も「欲望」も「〜したい」という気持ちから生まれる「勇気」を作り、「土の気持ち」だけは「〜すべき」という気持ちから生まれる「勇気」を生み出します。

この構造は「忍耐」についても同様の意味を持っています。「愛」や「欲望」は「〜したい」という気持ちに繋がるので、自然と「忍耐」も出てきますが、「土の気持ち」は「〜すべき」という気持ちから耐えることになるので、「愛」や「欲望」を使う場合の「忍耐」とは異なる「忍耐」に繋がっていきます。

このような意味で、「土の気持ち」の「忍耐」と「勇気」は他の「光の気持ち」や「闇の気持ち」から生まれる「忍耐」や「勇気」と質的に異なる「忍耐」と「勇気」を意味します。「土の気持ち」を抱いている時間は、「相手のため(愛)」でも「自分のため(欲望)」でもなく、「自分が正しいと信じることのため」に様々な行動を行うことに繋がっていくからです。「愛」が強ければ強い程、「愛する相手のため」であれば、いくらでも力は出ますし、「欲望」が強ければ強い程、「自分の快楽のため」にいくらでも力は出ます。しかし、「土の気持ち」はそういった方向性ではないので、よりストイックな心の動きとなります。

「土の気持ち」のことを理解する上でとても参考になるのが、Mr.Childrenとスガシカオの歌です。以下の二つの音楽を聴いて頂けると幸いです。この二つの歌はどちらも「前に進むこと」を信じている歌であって、「自分が成長したり、前に進んでいくことは正しいはず」という「信念」を歌った歌です。
 

・Mr.Children『終わりなき旅』
 


※この曲は「土の気持ち」を表すからこそ、映像の中でMr.Childrenは土の中で演奏しています。


・スガシカオ『progress』
 


多くの人は、この二曲の両方から「信念」から生まれる「忍耐」と「勇気」を感じ、「愛」や「欲望」を感じることはないと思います。こういった感情が「土の気持ち」だと理解して頂けると幸いです。

我々日本人にとって、「土の気持ち」はそれ程馴染みがない感情ではなく、多くの人が抱いたことがある感情です。何故ならば、自分が信じることのために頑張った経験がある人は多いからです。また、この二曲はとてもヒットした歌ですが、多くの人がこれらの歌の感情に共感できたからこそ、この二曲はヒットしています。共感するためには、自分の中にこれらの歌と通じる部分が前もってある必要がありますが、多くの日本人が「土の気持ち」を少しでも抱えていたからこそ、この二曲は売れています。


【「土の気持ち」の「信念」について】

「土の気持ち」を抱く上で最も重要なことは、正しいことを信じることです。もし、間違ったことを「信念」に持つのであれば、「土の気持ち」は本当に恐ろしい「光の気持ち」となります。例えば、「世界は光と闇のバランスで成り立っているのだから、闇を実践する人間も必要だ」ということを信じるのであれば、「土の気持ち」は恐ろしい凶器となります。この「信念」によって、様々な「闇」を実践していくことに繋がるからです。それに対して、「今の世界の状況は光よりも闇が圧倒的に強いのだから、光を増やすべきだ」ということを「信念」に持つのであれば、「土の気持ち」はとても有効な感情となります。この「信念」によって、様々な「光」を実践していくことに繋がるからです。

この例が示すように、「土の気持ち」を実践する上で重要なことは、何が正しいかを見極めることができるだけの「賢さ」です。「世界は光と闇のバランスで成り立っているのだから、闇を実践する人間も必要だ」という発想は現代の時代状況を考えるのであれば、明らかに間違っています。何故ならば、今は圧倒的に「光」よりも「闇」が強く、そのような状況の時に「闇」を増やすべきではないからです。そういったことをしっかりと見極められるだけの「賢さ」が必要なのですが、そういった「賢さ」を持つことはそんなに簡単なことではありません。何故ならば、物事を正しく判断するためには、様々なことを理解しておく必要があります。

例えば、『風の谷のナウシカ』を例に挙げると、ナウシカは腐海の森が世界を浄化していることを知っているからこそ、腐海の森を焼き払うことは間違っているという判断をしますが、クシャナは腐海の森が人間を苦しめる悪しき存在だと思っているからこそ、腐海の森を焼きはらおうとします。そして、映画『風の谷のナウシカ』で登場するほとんどの人物はクシャナと同様に腐海は悪いものだと思っています。ですから、こういった状況で「土の気持ち」を使うのであれば、「腐海は焼き払うことが正しい」という判断をしやすいです。しかし、実際は間違った判断を行なっています。

『風の谷のナウシカ』は我々は客観的に横から見れるので、ナウシカ以外の人物が間違っていることをすぐに理解できます。しかし、自分がその世界の当事者だと、自分が間違っていることに気付くことは本当に難しいことです。そして、実際に、現実のこの世界を生きる我々人間は多くの「真実」を見失っています。例えば、我々人間は死後に人間がどうなるのかを本当に理解している人は本当に少ないです。しかし、死後に自分がどうなるのかを踏まえない限り、人生で何をすることが正しいのかを判断することは難しいです。

つまり、何が正しいのかを判断する上で重要なことは、何が「真実」なのかをよく理解することです。そして、今の時代は多くの「真実」を見失っている時代なので、何が正しいのかを判断することは容易ではありません。だからこそ、現代においては「土の気持ち」はかなり危険な「光の気持ち」であると言えます。

そういったことを表現しているのが『エヴァンゲリオン』の碇ゲンドウです。碇ゲンドウは「人類補完計画」という、「全ての魂を一つの魂にする計画」を正しいと信じ、その「信念」から生まれる「土の気持ち」を実践しています。しかし、実際はこの「信念」は間違っているので、碇ゲンドウは世界を悪い方向へ導く凶器となっています。

「土の気持ち」は「愛」がその内に無いので、自分の「信念」のためであれば、他人に酷いこともできます。ですから、碇ゲンドウは自分の「信念」のために、我が子を傷付けることさえもできています。そういった「土の気持ち」の本質を碇ゲンドウは表現しているので、我々日本人が「土の気持ち」を理解する上で最も優れた題材が碇ゲンドウだと思って頂ければ、と思います。


【「土の気持ち」の長所と短所】

「土の気持ち」は他の「光の気持ち」が「愛」を持っているが故にできないようなことをするために存在する「光の気持ち」です。「愛」があると実践することができないけれども、「光」のために実践する必要があることはあります。

例えば、戦国時代の日本で剣術を教えている先生がいたとしたら、自分の可愛い弟子の成長のために、その弟子に本当に酷いことをする必要があることもあります。苦しい状況を乗り越えてこそ、魂は「強さ」を獲得するからです。しかし、「愛」があると自分の可愛い弟子に酷いことをすることは苦しくてしょうがなく、本当に酷いことをすることはできません。そういった時に「土の気持ち」であれば、酷いことを弟子に対してすることができます。「土の気持ち」であれば、「それをしたくない」という「愛」を防ぎ、「それをすべきだ」という「信念」で打ち勝つことができるからです。

弟子に苦しい課題を与えることは「水の気持ち(問題解決の心)」や「火の気持ち(闘いの心)」でもできます。しかし、本当に度が過ぎたような課題を与えることは「水の気持ち」や「火の気持ち」にはできません。また、「闇の気持ち」を使えば、相手に酷いことをしたいと思うこともできますが、それでは先生の魂が「闇」へ少し寄ってしまいます。だからこそ、こういうケースは「土の気持ち」で弟子と向き合うことが最も有効だと言えます。

このような意味で、「土の気持ち」は「愛」の実践のために、自分が愛する相手に対して、酷いことをする必要がある時に使うべき「光の気持ち」です。「土の気持ち」は他の場面でも使うことができるものですが、他の「光の気持ち」に行なうことができないものの中で、最も重要な「愛」の実践方法はこの形になります。こういったことが「土の気持ち」の長所です。

「土の気持ち」の長所は「愛」が無いことによってできることがある点なのですが、短所もまた「愛」が無いことによって生じるものです。「愛」が無いと、目の前の人や周囲の人を大事にしたいと思えないので、その点が「土の気持ち」の短所になります。また、「愛」が無い分、他の「光の気持ち」よりも「欲望」や「嫌悪」に堕ちやすいという性質もあります。

他の「光の気持ち」は「愛」によって、自分の心が「欲望」や「嫌悪」に堕ちることを防ぎます。しかし、「土の気持ち」は「信念」によって支えられている気持ちなので、自分の心が「欲望」や「嫌悪」に堕ちることを「信念」によって防ぐ必要があります。

以下、「土の気持ち」が堕ちやすい「闇の気持ち」について書いていきます。


【「土の気持ち」と近い「闇の気持ち」】

・「欲望」

「愛」があると「相手のため」という気持ちによって、「自分のため」という「欲望」に堕ちることをかなり防ぐことができます。何故ならば、「相手のため」と「自分のため」という二つの感情は矛盾し、対立し合うものだからです。

しかし、「土の気持ち」は「信念」であって、「信念」と「欲望」の関係性は「愛」と「欲望」の関係性よりも近いですし、相反するものでもありません。だからこそ、他の「光の気持ち」と異なり、「欲望」に堕ちやすい性質を持っています。


・「嫌悪」

「愛」が無いと「嫌悪」にも堕ちやすくなります。例えば、ある人に対して「愛」があると、その状態からその相手に対する「嫌悪」に堕ちることは難しいです。しかし、元々相手に対する「愛」が無いと、ちょっとしたことで「嫌悪」に堕ちることができます。こういった性質があるからこそ、「土の気持ち」は「嫌悪」に堕ちやすい性質を持っています。


・「怒り」

「嫌悪」と同様に「愛」が無いと相手に対する「怒り」にも堕ちやすくなります。「愛」があると相手に対する「怒り」が出てきても、「愛」によって抑えることができるのですが、元々「愛」が無いと「愛」を使って「怒り」を封じることができなくなるからです。

また、「土の気持ち」を抱いていると、相手への「愛」よりも自分の「信念」を優先して考えるので、相手が自分の「信念」を邪魔するような場合は簡単に「怒り」に堕ちやすくなります。


・「絶望」

自分の「信念」が実現されなくなると、「土の気持ち」は「絶望」に堕ちやすくなります。自分が正しいと信じることができないと思うと「希望」を失うからです。


・「不安」「焦り」「苛立ち」

自分の「信念」が実現している時は「土の気持ち」は充実感に繋がりますが、自分の「信念」が実現していない時は「不安」「焦り」「苛立ち」といった「闇の気持ち」に繋がりやすくなります。


・「頑固」

自分の「信念」を持つということは「頑固」にも堕ちやすくなります。「頑固」は「柔軟性」に欠ける姿のことを意味し、「自分のため」に考えを変えない「闇の気持ち」を意味します。本当に何が正しいのかということを明らかにしようと思うのであれば、必ず「柔軟」になるのですが、自分の「信念」を変えたくないと思うと「頑固」に堕ちていきます。「土の気持ち」から「頑固」に堕ちるケースは、自分の考えが間違っていると分かっているにも関わらず、その考えを変えようとしない時です。


・「執着」「依存」

また、「頑固」と似た形で、自分の「信念」に「執着・依存」するようなケースも多くあります。「執着」とは「自分のため」に何かしらのものにこだわり続ける感情を意味し、「依存」とは「自分のため」に何かしらのものに頼り続ける感情を意味しますが、自分の「信念」が間違っているということを分かっていながらその「信念」にすがり続けるのであれば、「執着」や「依存」に堕ちます。

「信念」に対して、それが正しいと本当に自分が思っている内は「土の気持ち」に繋がるのですが、「信念」に対して、本当は間違っていることを分かっているのに、その「信念」が間違っていることを認めないのであれば「頑固」であって、その「信念」が本当は間違っていることを分かっているのに、その「信念」にすがる場合は「執着」「依存」に堕ちると理解して頂ければ、と思います。

また、これらの説明から「頑固」と「執着・依存」は非常に密接な関係を持っていることを理解して頂けると幸いです。


・「咎める心」

「土の気持ち」は「愛」が含まれていないので、相手が自分の「信念」を邪魔するようなケースになると、相手のことを「咎める」ことを行いやすくなります。