「闘いの心」と「嫌悪」
2017.11.03 心の成り立ち(基礎:気持ちの種類)
相手のことを「許せない」と思うことにも「誰かのため」と「自分のため」という二つの方向性があります。
大事な者を傷付ける存在を「許せない」と思うことは「闘いの心」であって、「誰かのため」の「許せない」という「光」の方向性です。自分を傷付ける存在を「許せない」と思うことは「嫌悪」であって、「自分のため」の「許せない」という「闇」の方向性です。
「自分のため」に相手のことを「許せない」と思う「嫌悪」の方向性は誤っています。それは不必要な対立を生みますし、ただ自分が「許す」ことができればいいだけだからです。それに対して「誰かのため」に相手のことを「許せない」と思う「闘いの心」の方向性は正しいこともあります。大事な者を守るために、「闘いの心」が必要な時もあるからです。
ただ、「闘いの心」は使うべき時に使わなければ、「闘いの心」の乱用であって、不必要な対立を生み出します。そういった乱用を防ぐためには、「闘いの心」をどのような時に使うべきかという判断ができるだけの「賢さ」と「知識」が必要です。
「許せない」と思うことに関して、このような構造があることを理解して頂き、日々の日常で御自身が誰かのことを「許せない」と思った時に、自分がどの部分に該当しているのかを見定めて頂けると幸いです。特に、「自分のため」の「許せない」という「嫌悪」の方向性に堕ちないように注意して頂ければ、と思っています。
日々様々な人の心を分析していますが、現代の日本人は簡単に「自分のため」の「嫌悪」に堕ちてしまっています。「マジ、この前アイツにこういうことされたんだけど、本当許せないんだよね」といった会話は現代の日本に少なくないと思います。これは「嫌悪」の発言であって、「自分のため」の「許せない」という「闇」の方向性です。
生きていれば、酷いことを誰かからされることもあります。けれども、その時にその相手を「許す」か「許せない」かを決めるのは自分自身であって、酷いことをされたらその相手を「許せない」と思うのが当然というわけではありません。同じような酷いことをされたとしても、ある人は「許す」ことを行ない、ある人は「許せない」という方向性を選びます。
そういった時に相手を許すためには「愛」や「強さ」が必要です。「愛」が無ければ相手を「許す」ということをしたいとも思わないですし、心が「弱さ」を持っていると、「許さない」という気持ちが「許す」という気持ちに負けてしまうからです。そもそも、大きな「愛」を持っている人は何をされても自然と「許す」ことを行なっています。
逆に「欲望」や「弱さ」があると相手を「許さない」と思いやすい人間になります。「欲望」があると自分の「利益」のために生きていくので、自分に「不利益」を与えた存在はただただ自分にとって迷惑な存在と感じるからです。その相手に対する「愛」も欠けているので、そういった「嫌悪」の気持ちを抑えることができる「愛」も心の中にありません。このような意味で、大きな「欲望」を持っている人は何をされても自然と「許せない」ことを行なっています。
「許せない」という心の動きには「誰かのため」と「自分のため」の二つの方向性があることに加えて、「許す」と「許せない」という対立構造についても、理解を深めて頂けると幸いです。「許す」と「許さない」という心の動きは、心にとってとても基本的な心の動きであって、我々が無意識にいつも行なっていることですから、こういったことを理解して生きていくことは生きていく上で絶対に必要な知識です。
「許す」と「許せない」の対立構造については、ここにも少し書いています。
http://junashikari.com/mind/「許す」⇔「許さない」/
また、実際はこのページの文章は『闘いの心』の解説ページの補足説明です。「闘いの心」についてもこちらのページから理解を深めて頂けると幸いです。
http://junashikari.com/emotion/火の気持ち(闘いの心)/