最近になって一年半以上続いていた修行がようやく終わりました。

今朝は近所のパン屋で栗のパイを買って、コーヒーを買って、朝の太陽の光を浴びながら音楽と一緒に散歩していました。すると、シャッフル再生していたiPhoneからAimerの『Precious』が流れてきました。
 


朝の太陽の光、美しい音楽、パンとコーヒーの味。「なんて幸せなんだろう」と思いました。実はこの修行中ずっと夜型生活をしていたんです。だから、朝の太陽の光を浴びることができたのは本当に久しぶりのことでした。

この一年半は五年くらいの長さに感じています。だから、こんな当たり前の幸せをもう何年も感じてなかったように思いました。それを思うと自分の体を借りて神々が泣き始める。けれども、それを自分は反射的に止めてしまう。そうすると、空からポツポツと雨が降る。

どうして神々はこのことについて涙を流すのかというと、自分の経験してきた修行を本当はしたくなかったからです。彼らはこの修行をしたいからしたのではなく、必要だったから行なってきたに過ぎません。拷問のような修行だったので、自分のことだけを考えるのであれば神々はこの修行をしたくはなかったのですが、自分に「闇」の本質や「光」の本当の価値を理解させ、そういった学びを私を通して人間に伝えていくためにはどうしても必要だった形になります。

当たり前を奪われた状態を生きるならば、深い地獄を経験するならば、現実を深く知るならば、当たり前のことの価値を本当に理解できます。この修行の中で自分は当たり前を失い、誰にも理解されない日々を生き、深い地獄を経験し、現実をより深く知りました。だからこそ、今は当たり前のことの価値を強く感じます。

心配や誤解をされそうだったので当時はアップすることもありませんでしたが、一年前の今頃の写真を貼り付けておきます。一年半前が一番過酷だったのですが、この写真の頃も地獄を経験していて、自分の肉体のことを牢獄のように感じていました。

身体に「闇の気」を大量に抱えるのであれば、自分の心に絶えず不愉快な「闇の気持ち」と「闇のアイデア」が起こります。所謂「統合失調症」という状態はそういった状態のことを意味します。この写真の当時、私は神々からの大量の「闇の気」を抱えていたので、心の中は地獄でした。だからこそ、肉体が牢獄のように感じていた形になります。また、そういった心理状態にあっただけではなく、様々な地獄のような経験をしていました。どういったことを経験していたのかということはとても分かりづらいことなので、ここでは説明を控えさせて頂きます。

とにかく、そういったことをこれらの写真から感じて頂けると思います(今の私はこのような状態ではありません)。
 


「光」の価値を知るために、この世界に「闇」はあります。今はこの真実の重さをきっと誰よりも感じています。私は「光」と「闇」のことを人に説明する立場の人間です。だからこそ、誰よりも強い「光」と強い「闇」を経験する必要があり、その「闇」の方向性を今回の修行で強く経験した形になります。

人間という立場は幸せ者です。我々はいつも支えられているからです。誰かからの「愛」に支えられることはとても喜ばしいことです。しかし、我々人間は自然に「意志」がないと思ってしまったが故に、支えられていることを見失い、自分が幸せであることを見失っています。

そんな当たり前の幸せをとても久しぶりに経験し、こんなことを思った今日は911です。午後はクリストファー・ノーランの戦争映画である『ダンケルク』を観ました。
 


私は十代の頃からクリストファー・ノーランの作品は全て映画館で観ています。『バットマン ビギンズ』に始まり『プレステージ』『ダークナイト』『インセプション』『ダークナイト ライジング』『インターステラー』『ダンケルク』まで、福岡・東京・台湾という別々の場所でこれらの作品を映画館で観てきました。私の人生の中でこれ程までに映画館で観続けた映画監督は他にはいません。

クリストファー・ノーランは「水の気持ち」=「愛の実践のために問題解決をする気持ち」を描き続けています。そして、私も「水の気持ち」を実践する役割を持っています。だからこそ、神々は私がクリストファー・ノーランの作品を映画館で観ることを導いてきた形になります。

『ダンケルク』は最後にこんな台詞があります。

「我々は戦い続ける」
「新時代の大きな力が旧時代を救済するその時が来るまで」

『ダンケルク』は第二次世界大戦の一部を描いた作品ですが、この最後の言葉は現代までの繋がりを示唆しています。私はこの言葉を監督のクリストファー・ノーラン自身の強い「意志」として感じました。クリストファー・ノーランは本当に強い「水の気持ち」でこの世界のために映画を作り続けているからです。

私も全力で生きてきました。極限の状態も多く経験してきましたが、屈することなく生き抜いてきました。だからこそ、この映画の最後の言葉は自分の胸に最も響く言葉で、同じ志を持つ人間の言葉として感じられました。

世のために人生をかけて本気で生きることができる人間が一人でも多く現れることを願いながら生きています。しかし、実際はそんな人間はとても少なくて、人間の心の弱さを思い知り続けている日々です。それでも、人間のことを信じています。

それぞれの人間が「新時代の大きな力」の一部になるかどうかは一人一人の「意志」に依ります。我々人間はこの世界のために本当に必要な行動を起こすこともできれば、誰にも非難されない無難な生き方をすることもできます。

人間が自分にできる可能な限りの大きな「愛」を実践していけば、この世界は良くなっていきます。それは『ダンケルク』の中で誰からの指示でもなく、自ら仲間を助けに行った船乗り達の姿そのものです。彼らの姿は映画の中でとても勇ましく描かれます。イギリスではそういった気持ちのことを今でも「ダンケルクスピリット」と言います。

「新時代の大きな力」とはそういったことであることを知って頂けると幸いです。そして、誰からの指示でもなく、自らの「意志」で自分がすべきだと思うことをして頂けると幸いです。