日本人の抱える孤独感の大きな原因の一つは、礼儀正しさにあると思っています。これは本当に本当に大きな問題だと思っているんです。

日本人は敬語を持ち、「本音と建前」という言葉が象徴するように礼儀正しさを重んじる民族です。それは言葉として、文化として、日本人に深く根付いています。逆に言うと、言葉に含まれてしまっているために、我々は礼儀正しさから逃れることができません。

しかし、大事なことは、現代の礼儀正しさは昔のものとは異なるという点です。礼儀正しさとは本来、一つの美学でした。美しさのために礼儀正しさはあったんです。

昔京都に行った時、ある年配の女性と話す機会があって、彼女の敬語を聞いた瞬間に分かりました。彼女の敬語は昔の日本を感じさせるようなもので、そして、それは本当に本当に美しかったんです。「これが、本来の礼儀正しさなのかー」と感動してしまいました。

戦後、日本は西洋的個人主義に大きな影響を受け、個人の意味が昔とはまるで異なってきました。どんどん「私」が大事になってきたんです。

しかし、日本人が持つ礼儀正しさはそのまま残ってしまっています。西洋化したからといって、英語のようにフランクな言語を我々は持っていません。

だからこそ、個人主義がどんどん深まるにつれ、礼儀正しさは美しさのためではなく、「私」のためのものとなりました。

あの人に私が良く思われたいから礼儀正しくする
私が事業を成功させるために礼儀正しくしなければならない
マナーのできていない人間だと私が思われたくないから礼儀正しくする

こういったことは我々の日常だと思います。ほとんどの礼儀正しさは「私」のためです。昔は個が現代人程強くないために、ここまで自分のためではありませんでした。

そして、礼儀正しさは相手との距離感を作ってしまいます。この点が本当に大きな問題です。「私のために」という発想自体がそもそも相手と私の距離感を深めているのに、敬語を使うことによって、より一層、相手との距離感を強めてしまいます。だからこそ、孤独が深まる。

つまり、日本人特有の礼儀正しさと西洋的個人主義の相乗効果により孤独が深まる、ということが日本では起きています。そのことが我々の感じる孤独の一つの大きな原因です。これは世界中どこを見ても、とても稀な現象です。

海外に出て、英語でコミュニケーションを取っていると本当に楽だし、素直になれるし、とても気分がいいです。逆に、日本語を使わないといけない場面がくると、本当に日本語にうんざりしてしまいます。

そして、言語は我々の意識状態そのものを作ってしまいます。日本人同士で日本語を使っている時の自分と、外国人相手に英語を使っている時の自分は全然違うんです。海外に出て、そういった自分の違いをよく実感してきました。

礼儀正しさという、この深い問題を乗り越えるための方法は二つしかありません。

一つは単純に、可能な限り敬語を使わないことです。早い段階で「ため口にしましょうか」と言ってしまうのがいい方法です。

もう一つは西洋的個人主義を弱めていくことです。敬語がどれだけ距離感を強めてしまっても、本当に他人のことを大事に思えることができたら、言い換えると、私とあなたがそんなに違わない存在だということに気付けたなら、敬語を乗り越えられるだけの優しさや愛は抱けるはずです。

礼儀正しさの問題は本当に大変な問題ですが、これも日本人に与えられた試練と思って、乗り越えていきたいところです。