ここでは、どのように芸術制作に神々や悪魔が関与するのかということを書きます。これは芸術を鑑賞する側にとっても、創る側にとっても大変大事なことですから、読んで頂けると幸いです。また、神々や悪魔がどのようなメッセージをその作品に残したのか?ということを分析する上でも必要な観点です

また、これらの説明は芸術分野だけでなく、我々の生活一般に言える事柄も多く含んでいますので、読んで頂ければ勉強になると思います。

 

1、「アイデア」について

芸術制作において、最も重要な要素は「アイデア」です。神々や悪魔は人間に「アイデア」を落とすことを通して芸術制作に関わります。例えば、映画について言えば、どういうストーリーにするのか、どういった俳優を使うのか、どういった音楽を使うのか、どういった形で撮影するのか、といった「アイデア」を要求される瞬間ばかりです。絵画であっても、この部分をこの絵の具とその絵の具をどのような配合にするかなどは無限に「アイデア」を抱くことができます。

そういった「選択」の時に我々が必要とするのが「アイデア」です。人間は自分で全ての「アイデア」を抱いていると思いがちですが、「アイデア」は自分の「意志」を超えています。なぜならば、その「アイデア」を思い浮かべようと思って、その「アイデア」を思い浮かべるのであれば、それはもはや「アイデア」ではないからです。「アイデア」はどこからか降ってくるものです。


・アイデアと気について
http://junashikari.com/energy/アイデアと気(エネルギー)について/


 

2、「好み」について

また、そういった「選択」の時、「こっちの方がいい気がする」という「好み」や「直感」は芸術家の「意志」を超えています。我々は自分の「好み」や「直感」を自分自身で決められないものです。そういった、「好み」や「直感」というものはいつも自分の「意志」の前にあるものだからです。

例えば、インドカレーが好きという人がいたとして、その人は自分の「意志」でインドカレーを好きになっているわけではありません。気が付いたらインドカレーが好きだったわけで、そういったことを「好み」と言います。

では、どのようにして「好み」は決定されるかというと、その人間の魂や身体が抱えている気によって決定されます。例えば、いい人はいい人と集まり、性格が悪い人が性格の悪い人と仲良くなりますが、それは、光の気を抱える人々は光の人々を求め、闇の気を抱える人々は闇の人々を求めるからです。基本的に、光は光を求め、闇は闇を求めます。

そして、光の気を司っているのが光の神々であり、闇の気を司っているのが悪魔です。彼等が我々の「好み」に関与しています。何故ならば、それぞれの気とはそれぞれの気を司っている魂の心の反映であるからです。

例えば、光の気の一つである「火の気(元気・笑い)」を魂に多く持っている人がいたとします。そういう人は明るく元気で面白い人が多いです。太陽系の「火の気(元気・笑い)」は基本的に太陽神様に支えられていますから、そういった「火の気(元気・笑い)」を魂に多く持っている人とは太陽神様の「好み」と似てきます。そうすると、太陽神様と繋がって歌を歌っている桑田佳祐の歌が好きになったりします。

太陽系は「水、火、風、土、金」の5つの光の気によって成立していますが、どのような形で成立しているのかを御理解していない方は以下を読んで下さい。


・太陽系について
http://junashikari.com/solar-system/太陽系について/

 

3、「直感」について

「直感」とはより強い「好み」だと思って頂くといいと思います。「直感的にこっちにしようと思う」などと言いますが、「直感」とは「好み」をより強くしたものです。神々や悪魔は人間に与える気の量を変えることができますから、「ここぞ」という時は強い「好み」を感じるように人間に気を与え、それを人間の側は「直感」と呼んでいます。

例えば、バイオリン奏者になるために生まれてきた人がいたとします。そういった人は幼い頃にバイオリンの音色を聞いた時にどうしてもバイオリンが始めたくなったりします。これがここで言う「直感」です。単純に「バイオリンの音が好き」という「好み」ではなく、「バイオリンを始めたい」と思う程の強い気持ちのことです。

芸術制作過程においても「ここはどうしてもこうしたい」と思うようなことはあると思います。それを「直感」と言います。余談ですが、「直感に従いながら生きる」などと言いますが、自分が清い気持ちの時の「直感」は良きもの、自分が汚い気持ちの時の「直感」は悪いものです。なぜならば、清い気持ちの時は神々から「直感」をもらい、汚い気持ちの時は悪魔から「直感」をもらうからです。

光の神々のそういった「直感」を「導き」と言い、悪魔や闇の神々のそういった「直感」を「コントロール」と言います。

光の神々はこの世に光の気が増えて、皆が「幸福」になることができるように、その人間に「直感」を与えます。光の気が「幸福」の原因であるからです。ですから、この「直感」とはとてもいいものであり、「導き」です。誰かのための「直感」を「導き」と言います。
 

・幸福とは何なのか?
http://junashikari.com/emotion/幸福について/


それに対し、悪魔や闇の神々はこの世に闇の気が増えて、より悪魔が人間を支配しやすい環境を作ろうとします。悪魔達は基本的に自分達の「快楽」のことを考え、この宇宙を自分達のおもちゃのように考える存在です。気を司れば、人間をおもちゃのようにコントロールすることは容易いことです。彼等は闇の気を司っていますから、闇の気が人間の中に増えると人間を支配しやすくなります。悪魔達自身のための「直感」を「コントロール」と言います。

 

4、「選択」「意志」「共感」について

ですから、「アイデア」は選択肢を増やす行為、「好み」はその選択肢の中でどれを選ぶかということに関わり、「直感」は決定力を増します。

芸術制作はいつも「選択」の連続であって、その「選択」の連続の完成形が作品です。そして、我々の「選択」に「アイデア」「好み」「直感」は関わり、「アイデア」「好み」「直感」とは神々や悪魔の我々への関わりのことです。

そして、「選択」とは我々自身の「意志」のことです。それぞれの選択肢の中から一体どれを選ぶのかということは最終的には我々の「意志」によって行なわれます。もちろん、その「意志」に神々や悪魔が関わることもありますが、最終的には我々が彼等の「意志」に「共感」しない限り、彼等の「意志」通りにはなりません。

そういった意味で、芸術制作とは神々や悪魔との共同作業によって行なわれています。

芸術家がどのような存在から「アイデア」「好み」「直感」をもらうのかということは、その芸術家が自身の身体にどのような気を抱えているかということによって決定されます。その気の担当者(神々・悪魔)の気がその人間の身体の中に入っている場合、その担当者(神々・悪魔)は「アイデア」「好み」「直感」を与えることができます。ですから、当然彼等(神々・悪魔)が関与したい芸術家には、彼等は外部から芸術家の身体に気を入れようとします。
 

また、神々や悪魔から「アイデア」をもらったとしても、そこに「共感」が生まれない限り、その「アイデア」は使われることがありません。その時に問題となるのが、どのような気がその芸術家の魂に入っているか、ということです。

例えば、水の気を魂に抱えていない魂を持った人に、太陽系の水の気を支えている水星神様が関与しようとしても、それは基本的には難しいことです。水星神様からの「アイデア」「好み」「直感」に「共感」するためには、自身が水の気を魂に持っていないといけないからです。何故ならば、それぞれの気はそれぞれの気を司っている存在の心の反映だからです。

つまり、「共感」が生まれるためには、同じ「好み」を持っていなければなりません。そして、どのようにして「好み」の一致が行なわれるかといえば、その「アイデア」を落とした神様や悪魔と同じ種類の気を、その芸術家の魂が持つことによって実現します。ですから、「共感」が生まれるためには、その「アイデア」「好み」「直感」を落とす存在と同じ種類の気を自分の魂に持っていなくてはなりません。
 

※どういった神々や悪魔がどういった気を司っているかについては別で書きます。

 

5、計算(神々・悪魔のサイド)

また、「なんとなくこうしてみようかな」と思ってやってみたことが結果的に非常にいい形に繋がることもあります。神々や悪魔というものは我々よりも圧倒的に「計算」ができる存在ですから、先を見越して今この時点では我々に「こうさせよう」と思い、それをやらせたりします。それが我々人間にとっては「なんとなくこうしてみようかな」という気分としてやる行動であったりします。

こういったケースはもちろん「偶然」もあります。ですから、我々人間にはそれが神々・悪魔による「計算」なのか「偶然」なのかは分かり得ません。

先を見越して計算ができる神々や悪魔とは我々人間が持っている選択肢よりも既に本当に多くの選択肢を持っているのです。そして、彼等が我々に行ってほしいと思う方向性に向けて、我々は無意識に進まされていることも芸術制作においては非常に多くあります。

例えば、映画製作において、最後はこの結論で終わらせたいと神々または悪魔が思っていたとします。しかし、その結論に辿り着くためにはその前に三段階くらい踏まないといけなかったりします。彼等は計算が我々よりもできるので、その三段階のことが一瞬で見えたりします。ただ、人間はそんなに計算ができませんから、その三段階を進む内にその映画の最後の結論が見えたりします。「なんとなく」という気持ちでその三段階を進んでいく内に、人間にはその結論が見えるようになるのです。

こういった形で、我々がその結論のことを目指したというよりか、その結論に向かって「導き」または「コントロール」を受けたということはあります。

神々や悪魔の「計算」の能力が我々人間よりも優れていること、そのことを踏まえて芸術制作と向き合うのであれば、作品制作はよりスムーズになっていきます。

 

6、「吟味」「分析」

神々や悪魔が我々にもたらす選択肢がいつも一つとも限りません。時に複数の選択肢をもたらすこともあります。そのような時に芸術家に必要な能力が「吟味」の力です。

例えば、作曲家が作曲をしている時に、「ここはこういう風な流れにしようか、それともこういう風な流れにしようか」と考える場面があるとします。そういう時に、適切な判断を行なうためにはそれぞれの選択肢の意味を「吟味」しないといけません。

「吟味」を行なうためにまず必要なのが、それぞれの選択肢の「分析」です。そのフレーズをまず一度それぞれ弾いてみて、その時の自分の心の動きを「分析」しなければなりません。芸術とは感情を動かすものですから、芸術家はその芸術がどのように人の心を動かすのかということをいつも「分析」すべきです。そのためにはまず最初に、その芸術を自分の心で感じ、自分が何を感じているのかを「分析」する必要があります。

今の人間は自分の心を見ることに関してとても能力が下がっています。自分が一体何を感じているのかがよく分からない状況です。気になる異性がいたとして、自分は今この瞬間に目の前の人に「愛」を感じているのか、それとも「欲望」を感じているのかがよく分からないのです。

このケースで言うと、「愛=光」「欲望=闇」ですが、我々が光を選ぶのか闇を選ぶのかということを行なうためには、まず最初に自分が何を感じているのかを知らなければなりません。これが「分析」です。

どうしてそういった「分析」ができないかというと、「愛」や「欲望」の意味を知らないからかもしれません。また、その気持ちが「欲望」であるのに「愛」だと思い込んでいる人がいたとしたら、「これは愛だと思う」という自分の「欲望」に負けてしまっているかもしれません。闇はいつも自分のことを見たいように(欲望)しか見させなくしてしまいます。

そういった形で、我々は心の見方=「分析力」を忘れています。「分析力」についてはまた別で書きます。

その上で先程の話に戻ると、作曲家がその二つの選択肢で悩む時、その二つの選択肢が一つは神々からのもので、もう一つは悪魔のもの、または一つが神々からのもので、もう一つはいつも自分がやっているパターンといったものだったりします。そういう時、もし光の曲を創りたいのであれば、神々からのアイデアを取らなければなりません。そのためには「吟味」「分析」を全力で行なわなければなりません。

少しでも「まあ、ここはこっちでいいかな」という「甘さ」の気持ちだったり、「めんどくさいから、こっちでいいや」という「怠惰」の気持ちがあると、選択肢を誤っていきます。芸術家の魂の状態が「甘さ」や「怠惰」に傾いていくならば、次々と来る「選択」の瞬間に闇を選び続けさせられることになり、その作品が闇の作品となっていくからです。少なくとも、完璧な光の作品ではあり得なくなります。

ですから、芸術家は自分の心を絶えず「分析」できるようにしておかなければなりません。そして、一体どういった感情が光の感情で、どういった感情が闇の感情かを理解しておかなければなりません。ちなみに、闇の感情は他の闇の感情に転じます。


こちらは感情一覧です。
http://junashikari.com/energy/感情一覧(光・闇・中立)/
 

時に中立の感情を使うことはあっても、基本的に、光の芸術家は自分の魂の状態を光に保ち、闇の芸術家は自分の魂の状態を闇に保つべきです。そのことにより、光の芸術家の作品はより光を強くし、闇の芸術家の作品はより闇を強くします。

 

7、「動機」

芸術制作を行なう時、「自分が何故それを創ろうと思うのか?」ということが最も重要な要素になります。何故ならば、その「動機」とはその芸術制作全体を支えるものになるからです。

例えば、「他人から賞賛されたい」「この作品で一儲けしたい」といった「動機」は「欲望」などであって、闇の感情です。「何か創らないとなー」というような気持ちは「嫌悪」ですから、これも闇の感情です。そういった「闇の動機」で作品制作を始めると、その制作過程全体が闇の「選択」ばかりになり、闇の芸術となります。

もし芸術家が光の作品を創りたいと思うのであれば、「この作品を通して大事なことを伝えたい」「この作品を観た人達に幸せになってほしい」といった「光の動機」で創る必要があります。また、創る前に神々に向けて「この作品を通して、この世を良くしたい。どうか私を光の方にお導き下さい」と祈るのもいいでしょう。その祈りは完璧な光の気持ちでなければなりません。少しでも自分の欲望などがあるとその祈りは成立しなくなります。また、神々に頼り過ぎるのは「依存」という闇の感情ですから、そこに堕ちないようにも気をつけないといけません。少しでも、その芸術家の心に闇の部分があると、神々は関与が難しくなります。光の芸術家はその制作過程全体において、完璧な光の「動機」を保つ必要があります。

 

8、神々や悪魔からの「評価」

神々や悪魔は全ての芸術家に関与しているわけではありません。彼等が関与したいと思う芸術家に彼等は関与しています。ですから、彼等が関与したいと思うだけ能力を上げていかないといけません。

例えば、自分が何を感じているのかも分からない芸術家(「分析力」の無い芸術家)に彼等が関与することはないでしょう。何故ならば、そういった芸術家が良き「選択」を行なうことは不可能だからです。光の芸術家にとっても闇の芸術家にとっても、「分析力」などは必須の能力になります。

その他様々な芸術家の能力を見て、神々や悪魔は関与するかどうかを決めています。

 

9、神々や悪魔から関与されずに素晴らしき芸術を創るためには?

神々や悪魔が関与しようと思わない芸術家は彼等自身がその芸術を創ることになりますが、「好み」という点では、神々や悪魔の影響を受けることになります。この「好み」という点で神々や悪魔からの影響を受けずに作品を創ることはとても難しいことです。

ここで話したいのは、神々や悪魔が関与したいと思っているにも関わらず、神々や悪魔の関与を受けずに作品を創ることについてです。

光の立場で作品を創るということは、基本的にはこの世のために作品を創るということになります。そして、真に光のスタンスの芸術家の気持ちは「自分だけがその作品を創っているかどうか」ということよりも、「この作品によって、この世全体が良くなるかどうか」ということを優先します。自分よりも他者のことを思うのが、光のスタンスだからです。

しかし、場合によってはこういったケースもあり得ます。「私はいつもあなた方(神々)に支えられながら芸術を創ってきた。しかし、今回の芸術制作は私の魂の進歩のための修行と思って、自分の力だけで行ないたいと思う。だから、どうか今回は関与しないで頂けないでしょうか?」と神々に頼むようなケースです。心の中で彼等に語りかけるだけで、彼等には届きますから、自身の魂の進歩を本当に願うのであれば、こういった頼み事は実現してくれるはずです。ただ、その制作を行なう時は毎回頼んでおく形が無難です。日によっては、一回目にその頼み事を言った時に聞いていた神様とは異なる別の神様が関与するかもしれないからです。

ただ、光の芸術家にしても闇の芸術家にしても、こういった形で頼む場合、決して悪魔には頼んではなりません。悪魔に何かを頼む場合は、必ず我々は何かを奪われたり何か余計な闇の気を入れられたりします。闇のスタンスは「ギブ&テイク」だからです。

闇の芸術を創りたいと思っていて、それでも悪魔からの関与を受けたくないと思う芸術家がいたとしたら、その芸術家は悪魔以上に強い闇を抱えることで自分自身だけの力によって芸術を創ることができるかもしれません。

我々は輪廻転生をしています。本当に素晴らしき芸術家は死後、芸術の神などになり、神々の国で芸術制作を行なうことになります。その時は、自分自身のみの力で芸術制作を行なうことになりますから、人間の内は神々や悪魔との共同作業の中で芸術制作をすることを通して、勉強してもいい時期と考えてもいいのかもしれません。実際、今人間の世界で名のある芸術家のほとんどは何らかの神々や悪魔と共に芸術を創ってきた方々ばかりです。

闇の芸術を創る芸術家であっても、本当に素晴らしき闇の芸術を創ることができるのであれば、死後は闇の芸術神として活躍することになります。芸術は光も闇も広げますが、基本的に闇を広げた存在とは死後地獄に行きます。ですから、中途半端に闇の芸術を創る芸術家は死後地獄に行くことが多いです。もちろん、芸術活動以外のことも人は行なっていますから、その他様々な点も考慮されながら、あの世のどこに行くかは決定されます。

闇の芸術神になるのは本当に一握りの存在ですから、それになるためには相当な覚悟が必要となります。

 

10、光の神々や闇の神と繋がっている芸術家について

芸術を創るために生まれてきた人間とはいます。その中には、ある神様に繋がっている人間もいます。そういった人間は芸術制作において、特定の神様と共に働くことになります。

例えば、映画監督のクリストファー・ノーランは水星神様と繋がった芸術家であり、彼は非常に構造的な作品を創ります。それは水星神様が構造的な芸術を好むからに他なりません。

映画監督のラース・フォン・トリアーは或る闇の神様と繋がった芸術家です。ですから、彼の作品は非常に強い闇に満ちています。先程、本当に素晴らしい闇の芸術家を除いて、闇の芸術を創った人間の多くは死後地獄に行くという話をしましたが、ラース・フォン・トリアーはそもそも闇の芸術を創ることを人生の役割として持っていますから、死後は地獄には行きません。このように、それを役割としている場合は、闇の芸術家になったとしても死後地獄には行くことはないです。また、ラース・フォン・トリアー程の強烈な闇の芸術家は死後、闇の芸術神となり、闇の芸術を支えることになります。

※この文章においては闇の気を司っているのは悪魔ということで統一してきましたが、闇の神様と繋がっている芸術家は基本的に悪魔ではなく、闇の神様から気をもらいながら芸術制作を行なうことになります。

 

 

以上、芸術制作にどのように神々と悪魔は関わるのか、ということについて書きましたが、それぞれの芸術ジャンルによって彼等(神々・悪魔)の関わり方は異なります。そういった事に関しては、別で文章を書きます。