(ホームページにあまりこういう文章は書きませんが、最近考えていることを「雑記」という形で書き残しておこうと思います。)

私は一人で膨大なことをやろうとしている人間です。そのことの長い道のりのことをよく考えます。どうして、このようなことをやっているかというと、一人で膨大なことをする人間がいなければならないと考えているからです。

例えば、様々な学問分野を繋げて考えるためには、一人の人間が複数の学問分野のことを学んでおく必要があります。しかし、「学者」と呼ばれる方々の多くは、自分の専門としている学問分野については詳しくても、他の学問分野については学んでいないことが多いです。

こういった研究スタンスでは、それぞれの学問の繋がりを理解することはできません。それに対して、異なる学問分野の繋がりを理解していくことで、物事の本質をより深く理解することはできます。

例えば、歴史と心理学を繋げて考えることによって初めて、我々は歴史を学ぶことを通して、我々の心に関する「本質」を学ぶことができ、「本質」を学ぶからこそ、我々は「教訓」を得ることができます。

我々人間に最も必要な知識とは「教訓」です。何故ならば、「教訓」は我々がより良い形で生きることを促す知恵だからです。言い換えると、良い「教訓」と共に生きることで、我々はより良い形で生きていくことがしやすくなります。

しかし、今の日本の歴史教育は学生が「教訓」を得ることを促すようなものではなく、出来事に関する情報を暗記するような方向性です。これはとても良くない教育だと思っています。

我々人間はより良い形で生きていくために学ぶべきです。そのことこそ、学ぶことの意義だと思っています。逆に言うと、教育とはより良い形で生きていくことを促すようなものでなくてはなりません。

最近は、様々なことと並行して、毎日20世紀の歴史のことを勉強するようにしています。何をしているかというと、一日一本はドキュメンタリーを観て、その映像を心理学的に分析している形です。映像という媒体こそ、歴史を肌で感じられる手段だと思っているので、映像作品を通して歴史を学んでいます。

非常に地道ですが、継続的に何年かこういう日々を過ごしていけば、歴史について理解の深い人間になることができると思っています。そして、我々が様々な膨大な歴史からどのような「教訓」を得ることができるのかを、このホームページに整理できるようになっていくと思います。

多くの歴史学者は心理学者ではないので、歴史を通して心理的な「教訓」を得ることは得意ではありません。だからこそ、心の理を研究することを徹底している自分のような人間が歴史を研究しなければならないと思っています。

そういう意味では、このまま適切に歴史のことを学び続けていければ、数年後に自分は「歴史学者」という肩書きも持つようになるのだろうと思っています。肩書きが増えることは好きではないのですが、肩書きを持つことは自分の立場に責任を持つことだと思うので、そういう責任を背負えるレベルまで到達したら、「歴史学者」の肩書きも増やすのだと思います。

自分は既に「芸術学者」という肩書きは背負っていますが、歴史は芸術とも密接な関係にあります。例えば、ショスタコーヴィチというソビエト連邦の作曲家がいますが、彼が残した音楽の「凄まじさ」は人類の音楽史上トップレベルのものです。なかには、非常に恐ろしい曲も多くあります。

かつて自分は、大学生の頃、ショスタコーヴィチを聴き続けたことによって精神を病む方向へ進んだ時期もあります。例えば、以下の曲などを当時よく聴いていました。
 


こういった音楽をイヤホンなどで大音量で聴きながら、自分の心と音楽の表現する精神を完璧に合わせていくと、非常に強く音楽の表現する精神性を感じることができます。これらの音楽は危険な精神性を表現していますから、当時は自ずと自分の心も危険な方向性へ向かった形になります。そういった時期があったからこそ、彼の音楽の「恐ろしさ」や「凄まじさ」を経験的によく知っています。

つまり、何かの「恐ろしさ」を理解するためには、その何かを通して「恐ろしい」経験をするしかありません。逆に言うと、そういう経験無くして、その対象の「恐ろしさ」を深い意味で理解することはできません。このような意味では、「恐ろしさ」を表現する芸術を理解する作業は非常に危険な行為でもあります。

音楽を聴くことによって精神を覚醒させ、その覚醒によって自分の心に大きな影響を与える、という行為は学問研究というよりも、精神修行と言われるべき領域のことです。そういった精神修行を行なうからこそ、その芸術の持っている意味合いをより深く理解することを実現し、その芸術が生まれるに至った歴史の持つ深い意味合いも見えてきます。その時、初めて、我々は重要な教訓を得ることを実現できます。

最近歴史のことを学ぶ中で、ショスタコーヴィチの置かれていた当時の状況を少しだけ知り、そのことを踏まえて、彼があれだけの「凄まじさ」と「恐ろしさ」のある芸術を生み出したということも納得ができるようになってきました。

いつか、このテーマに関しては、徹底的な分析をしていくことになるだろうとも思っています。それだけ、ショスタコーヴィチという芸術家の人生は、芸術と歴史の関係性を我々が学ぶ上で、非常に参考となるものだからです。つまり、ショスタコーヴィチを理解することを通して我々は大事な「教訓」を深く学ぶことができます。

このような研究を良い形で行なう歴史学者は、芸術学者でなければならないとも思っています。または、こういうことを研究する歴史学者は、ショスタコーヴィチを強く聴いて危険な精神性に入り込んだ後に、正常な精神性に戻すという精神修行を行なう人間でなければなりません。そういったことをやろうとする歴史学者がいるとは思えないので、自分がやるしかないと思っています。

日々観てきた様々なドキュメンタリー作品の中で、自身の戦争経験のことを話す人々のことも多く観てきました。彼らの話す様子を見ながら、歴史を学ぶこととは、学んでいる時にどれだけの涙を流せるかによるのだと分かってきました。以下のリンクは非常に素晴らしく、有り難いNHKの作ったウェブサイトなのですが、こういった場所から我々は戦争体験者の話を聞くことができます。

https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/

歴史とは誰かが生きた物語の集積です。我々人間は全ての人間が生きてきた物語を理解することはできないわけですが、それでも、一人でも多くの人生を知ることが歴史の持つ深い意味を学ぶことなのだと痛感しています。

そして、そういうことを学ぶ過程はただ情報を受け取るということでは全然不十分で、その人間の生きてきた人生をどれだけ思いやることができるのかにかかっています。情報を受け取るだけでは、その人間の生きてきた人生の重みを全く感じられず、そういった重みを感じることなしに、その人間の人生を理解することはできないからです。

本当に苦しい経験をしてきた人間に対して、真に思いやることができれば、自ずと涙が出てきます。このような意味で、歴史を学ぶこととは涙を流すことと密接な関係があるのだということが分かってきました。

そういった形で戦争の歴史を学んでいけば、戦争を肯定するようなことは自ずとできなくなります。戦争経験者の多くの経験が、我々人間の経験できる試練のレベルを超えていることを知るからです。言い換えると、乗り越え切ることがあまりにも難しい経験を戦争は人間にもたらし、その経験がその人間の魂に「闇」を植え付けるということです。

我々人間はより良い魂になるために生きています。だからこそ、魂に「毒」を植え付けてしまうような経験が発生することが起こらないようにする必要があります。もちろん、試練は魂に「強さ」を与えるきっかけでもあるからこそ、試練の無い人生は良いものではありません。だからこそ、我々の生きている人生には試練が起こるようになっています。

しかし、戦争がもたらす多くの試練は人間には大き過ぎるので、「強さ」を与えるものではなく、「毒」を与えるものであることが多いです。そういったことを、様々な戦争経験者の話を聞く中で、より深く理解できてきました。

こういった「教訓」を得るためには、良い「試練」とは魂に「強さ」をもたらし、悪い「経験」とは魂に「毒」をもたらすといった構造を事前によく分かっておく必要があります。そういった心の理を踏まえて、初めて確かな「教訓」を得ることができます。

そのような意味では、今までやってきた心理学研究や精神修行は歴史研究を始めるために必要な準備だったとも振り返って思えます。また、歴史研究を深める中で、心理学に関する知識もより良い形で説明できるようになるだろうとも思っています。歴史を心理学的に分析することを通して、心の理に関する「本質」もより深く理解できるからです。

大事な「教訓」をシェアするためには、大事な「教訓」を私自身が学び続ける必要があります。そういった「教訓」を学ぶことを今までもやってきましたが、最近になって、歴史を通して「教訓」を得るという新しい方法を実践している形になります。

将来的には、科学の分野も勉強することになるだろうと思っています。最近は新型コロナウイルスのこともあって、ウイルスに関するドキュメンタリーや本を読むこともあるのですが、科学的な知識が今は無さすぎるので、分析がしづらい状況があります。ただ、よく分かってきたこともあります。

新型コロナウイルスが地球にとって最も恐ろしい点は、人々が魂に「闇」を抱えることを促している点です。自分が感染してしまうことを恐れる「恐怖」や「不安」に加えて、収入に関する「恐怖」や「不安」など、そういった「恐怖」や「不安」から芋づる式に、「嫌悪」「怒り」「依存」といった他の「闇の気持ち」に墜ちやすくなります。

例えば、収入に関して「不安」を抱えている人は、政府にすがりたくなる「依存」へ墜ちやすくなり、政府が一世帯30万円の給付を発表したことによって「依存」は「期待」へと変わるのですが、詳細を調べると自分が対象に入らないことを知り「嫌悪」に堕ちるといった形です。

この流れは「不安」→「依存(期待)」→「嫌悪」というケースですが、他にも様々な形で人々は「闇」の心の流れに捕まりやすくなっています。例えば、外出禁止になっているヨーロッパの各国では家庭内暴力が非常に増えています。

Facebookなどで人々が何を思っているのかを分析することもあり、最近は政府に対する批判をする方も多いですが、一言に要約すると「いいから金出せ」というような投稿も少なくありません。批判とは「誰かのため」の批判であれば良い「指摘」になりやすいものなのですが、「自分のため」の批判はただの「文句」になりやすいものです。今は多くの人々が「不安」を抱えているので、それが膨大な「文句(嫌悪)」を生み出しています。

こういう時、世界は悪い方向へ向かいやすくなります。この点を最大に懸念しながら、世界の状況を見つめています。例えば、最悪の例を挙げると、人々がヒトラーのような危険な人物を国家のリーダーに選ぶことなどです。

かつて、ヒトラーは多くの人々が職を失っていた絶望的な当時のドイツの状況を解決することによって国民からの絶大な支持を得ました。つまり、人々の収入に対する「不安」や「恐怖」が、ヒトラーに対する「依存」へ転じ、その「依存」をヒトラーは実現したからこそ、「依存」は「信頼」へ変わりました。

人々が「闇の気持ち」に捕まれば、人々は「邪気(闇の気)」にコントロールされますから(「闇の気持ち」=「闇の気」+「持つ」の構造)、こういった悪い出来事が起こりやすくなります。つまり、「闇の気」を司る悪魔に地上をコントロールされやすくなります。

今回の新型コロナウイルスの最も恐ろしい点はこの点にあります。ただ、「気」のことを踏まえて世界を見渡すことを忘れてしまっている人類は、こういう危機にさらされていることを知りません。こういう時に「自分のため」「自分の国だけのため」といった心を選ぶと悪魔に動かされるので非常に危険なのですが、そういった構造を人々は知らないからこそ、心の選び方を誤りやすい状況があります。

このような意味では、これから確実に悪い出来事が地球で色々起こるのですが、そういった出来事とは地球規模のものから家庭単位のものまで大小様々です。自分が「光の気持ち」を選ぶことで、身近な問題が発生していくことを食い止めることがとても大事です。

まず最初に大事なことは、「不安」などに囚われそうな時に、そういう心に同調しそうな自分の心を止めることです。「不安」に囚われると「自分のため」を思う心に囚われるからです。そして、「不安」を止めた後に、「他者のため」を思い、「他者のため」に具体的に何ができるのかを考えることです。

そういうことの積み重ねの中で、自分が生きている環境の中で悪い出来事が起こることを止めていくことができます。そういうことが、周りに生きている人々を守る上で最も大事なことです。

今回の件が起こるまで、ウイルスが我々の生にどのような影響を与えるものなのか、自分は全然知りませんでした。きっと多くの人が同じだと思います。

今回の機会は、我々がウイルスの恐ろしさを学ぶことを促す良い機会にもできます。それを踏まえて、ウイルス研究やウイルスのワクチンを作ることに人生を捧げることを胸に誓って生きていく若者などが増えれば、とてもいいことだと思います。

また、今回の機会は、当たり前の日常が如何に有難いものなのかを知る上でも役立ちます。例えば、今は旅行に行くことさえできない世界になってしまいましたが、ウイルスが収束した後に海外旅行などに行けば、そのことの有り難みを我々は以前よりもずっと感じられると思います。

つまり、こういう機会は「不安」へ心を堕とす機会にもなり得ることですが、「感謝」へ心を導く機会にもなり得ることです。ある人がFacebookで、このようなことを書いてました。

「コロナに感染することのリスクを受けながらも会社へ行って働いてくれてるお父さんのおかげで、私達家族はこうやって食べていける。文句も言わずに頑張ってくれて、ありがとう。」

政府に対する「文句」ばかりが目立つタイムライン上で、夫に対する「感謝」を書いていたその人の言葉は本当に尊く感じました。この投稿を書いた人のように、清い心を保つことが、今一番必要なことだと思います。
 

【追伸】

昨日うちの猫が子供を産みました。猫の出産と子育てを度々支えてきましたが、母猫が一生懸命自分の子供達を守り育てようとする様を見つめることは、何ものにも代え難い程にとても喜ばしい瞬間です。そういった喜びをまた感じながら生きていけることを嬉しく感じています。

外出自粛の世の中ですが、こういう時にペットの存在は我々の心を本当に守ります。ですから、是非この機会にペットを飼い始めてみると、とてもいいと思います。