ここでは、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』について解説をします。短いですので、一度普通に『蜘蛛の糸』を読んで頂ければ、と思います。その後に解説を全文行ないます。

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【本文】


 ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池はすいけのふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いているはすの花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色きんいろずいからは、何とも云えないにおいが、絶間たえまなくあたりへあふれて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。
 やがて御釈迦様はその池のふちに御佇おたたずみになって、水のおもておおっている蓮の葉の間から、ふと下の容子ようすを御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄じごくの底に当って居りますから、水晶すいしようのような水を透き徹して、三途さんずの河や針の山の景色が、丁度のぞ眼鏡めがねを見るように、はっきりと見えるのでございます。
 するとその地獄の底に、ガンダタと云う男が一人、ほかの罪人と一しょにうごめいている姿が、御眼に止まりました。このガンダタと云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛くもが一匹、路ばたをって行くのが見えました。そこでガンダタは早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗むやみにとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
 御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、このガンダタには蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をしたむくいには、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、翡翠ひすいのような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮しらはすの間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御おろしなさいました。

 


 こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていたガンダタでございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつくかすか嘆息たんそくばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦せめくに疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊のガンダタも、やはり血の池の血にむせびながら、まるで死にかかったかわずのように、ただもがいてばかり居りました。
 ところがある時の事でございます。何気なにげなくガンダタが頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛くもの糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。ガンダタはこれを見ると、思わず手をって喜びました。この糸にすがりついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。
 こう思いましたからガンダタは、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。
 しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくらあせって見た所で、容易に上へは出られません。ややしばらくのぼるうちに、とうとうガンダタもくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。
 すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。ガンダタは両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限かずかぎりもない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるでありの行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。ガンダタはこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、莫迦ばかのように大きな口をいたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえれそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数にんずの重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中でれたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎かんじんな自分までも、元の地獄へ逆落さかおとしに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよとい上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。
 そこでガンダタは大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。お前たちは一体誰にいて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」とわめきました。
 その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急にガンダタのぶら下っている所から、ぷつりと音を立ててれました。ですからガンダタもたまりません。あっと云うもなく風を切って、独楽こまのようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。
 後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。

 

 御釈迦様は極楽の蓮池はすいけのふちに立って、この一部始終しじゅうをじっと見ていらっしゃいましたが、やがてガンダタが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、ガンダタの無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着とんじゃく致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足おみあしのまわりに、ゆらゆらうてなを動かして、そのまん中にある金色のずいからは、何とも云えないい匂が、絶間たえまなくあたりへあふれて居ります。極楽ももうひるに近くなったのでございましょう。

(大正七年四月十六日)

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【解説】

芥川龍之介は悪魔と共に文章を書いていた小説家です。どうして芥川龍之介が悪魔と共に小説を書いていたと言えるかということを『蜘蛛の糸』を通して解説します。

天国(極楽)や地獄のことを日常会話で話すことは、日本人にとって普通のことではないですし、むしろあまり好まれない話題だと思います。しかし、こういった形で物語として読むのであれば、日本人は受け入れられます。

どうして日本人の心はこのように心が動くかというと、「物語はあくまでも架空の話だから」という認識があります。しかし、この認識が大きな罠となっています。『蜘蛛の糸』はこの認識を利用した悪魔が用意した罠になります。

物語を読むということは、その人間の物事に対するイメージを知らず知らずの内に変更します。我々人間はお釈迦様に会ったこともないですし、天国や地獄のことも覚えていません。しかし、こういった作品を読むのであれば、知らず知らずの内に、お釈迦様や天国や地獄のイメージがこの小説で描かれているものに書き換えられます。

特に、お釈迦様や天国や地獄のイメージを元々持っていない方はこの『蜘蛛の糸』を読むだけで、お釈迦様や天国や地獄のイメージが『蜘蛛の糸』の中で描かれているものにそのまま置き換えられます。そこに大きな罠がありますし、悪魔は元々このようなことを狙って芥川龍之介に『蜘蛛の糸』を書かせています。もし、この『蜘蛛の糸』で描かれるお釈迦様や天国や地獄のイメージが正しいものであれば全く問題ないです。しかし、それらのイメージが間違ったものであれば、間違ったイメージを信じることになります。

イメージにしても、宗教の教えにしても、友達から聞いた噂にしても、間違ったことを信じることは、その魂に対する「呪い」となります。例えば、「カップラーメンが健康にいい」と間違ったことを信じ、カップラーメンを食べ続けるならば、その人は体がどんどん体が悪くなります。これは極端な例と思われてしまうかもしれませんが、本当にこれとあまり変わらないことを人はやってしまっています。

人に対して間違ったイメージを抱くことによって、どういったことが起こるかというと、その人を正しく見えることができなくなります。例えば、人づてにある人に関する間違った噂を聴き、その悪い噂を信じるのであれば、その人に対して元々「疑い」の気持ちなどを持って接することになります。そうすると、その人自身をありのままに見ることはできなくなってしまいます。日本人は噂の真偽を確かめず、信じてしまう傾向があるので、これは「カップラーメンが健康にいい」と信じることと同じような例と言えます。このように、我々は見えないところで自分達の首を絞め合っています。

この芥川龍之介の『蜘蛛の糸』でも同様の罠を悪魔が仕組んでいます。悪魔がこの『蜘蛛の糸』を通して我々にかけたい「呪い」とは、神々に対するイメージの操作です。それは悪い噂をある人が信じてしまうことと全く同じ意味を持っています。

この『蜘蛛の糸』で描かれている世界では、神々が罪人を苦しめるために地獄を用意し、神々はのほほんと極楽に生きているという世界設定がありますが、この世界設定が間違っています。だから、この物語を読むことで、この世界設定を自分の中になんとなくイメージとして定着させてしまうのであれば、そういった読者は『蜘蛛の糸』によって「呪い」をもらうことになります。

しかも、この世界設定が正しいかどうかがあまり吟味されないように巧妙にこの小説は書かれているが故に、ほとんどの読者はこの世界設定自体を問うことはありません。悪魔はその部分を問うことを回避させるように、膨大な計算を行ないながら、芥川龍之介の文章の書き方に関与しています。また、物語を読むということが我々の物事に対するイメージを操作するということを意識化していないことも、こういったことを問わない一つの原因です。

神々が罪人を苦しめる為に地獄を用意しているわけではないということの根拠ですが、それは神々が「愛」に満ちた魂だからです。「愛」に満ちた魂はどんな人間に対しても強い「愛」を抱いています。だから絶対に人間に「罰」を与えることはありません。「罰」を与えるという発想は「嫌悪」から生まれるものだからです。「嫌悪」と「愛」は相反する感情であって、神々は「愛」に満ちた魂達だからこそ、「嫌悪」から生まれる「罰」という行為は絶対にしない形になります。

では、どうして神々が「愛」に満ちた魂と言えるかということですが、それは太陽=お天道様を拝んでいるだけで分かります。太陽を浴びていると「気持ち」が良くなるのは、太陽神様がいつも我々に「火の気」を与えているからです。太陽神様は太陽系が出来た頃より、ずっと地球に生きる全ての魂のために、「火の気」を与え続けています。そういった存在が「愛」に満ちていないわけがありません。神々が「愛」に満ちた存在であることは、このホームページの様々な文章を読んでいくとよく分かって頂けると思います。

しかし、地獄という場所はあります。それは神々の「愛」の実践のために必要だったからです。「闇」を選ぶ魂はその「闇」が好きだからこそ、「闇」を実践します。しかし、「闇」を実践している内は絶対に「幸せ」になれません。何故ならば、「幸せ」は「光の気持ち」であって、「闇の気持ち」は「快楽」しかないからです。神々はその人間に対する「愛」が故に、その人間を「幸せ」にしたいからこそ、その人間が好きな「闇」を嫌わせるために地獄を用意しています。

地獄に行って人は何を経験するかというと、その人間が好きな「闇」を嫌わさせる為のことを経験させられます。例えば、盗みが好きだった人間はずっと自分の物を盗まれるということを経験します。こういったことを経験すると、盗みという行為自体を魂が嫌うようになるので、来世で盗みを辞めます。他にも、例えばずっとグルメに生き続けた人間が地獄に行くとしたら、長期に渡ってずっと食べ続けることを経験します。そうすると、食べること自体が嫌になり、来世でグルメに生きることはしなくなります。

地獄とはこのような形で、一人一人の人間が持っている「闇」に合わせて、最善の経験が与えられる場所です。このように考えるのであれば、「愛」の実践のために地獄があるということも理解できると思います。ちなみに、地獄の姿を描く為に神々が創った映画が『セブン』です。デヴィット・フィンチャー監督は神々と共に「闇」を描いている監督になります。

ですから、この『蜘蛛の糸』で描かれている地獄の姿も間違ったイメージを人間に与えるために悪魔が昔から用意している一つの「アイデア」です。血の池や針の山などを「愛」に満ちた魂が創るわけがないということは納得できると思います。悪魔としては、「神々はひでえ奴らなんだぜ」という嘘を信じ込ませる為に誤った地獄のイメージを創り、そこから間接的に神々に対する悪いイメージを定着させようとします。

悪魔が神々のことを下げるためにこういったことをやっていることは我々の日常です。例えば、2016年の流行語大賞は「神ってる」ですが、この言葉にも悪魔が神々を下げようとしていることはよく分かります。「すごい」ということを「神ってる」と表現すると、知らず知らずの内に「神」を下げて考え始めます。何故ならば、その言葉に対してどのようなイメージを抱いているのかということは、その言葉をどのように使っているのかということにかなり影響されるからです。

また、神々が暇そうにしているというイメージも『蜘蛛の糸』を読むと知らず知らずの内に抱えてしまいます。冒頭の「極楽は丁度朝なのでございましょう」と最後の「極楽ももう午に近くなったのでございましょう」という言葉の間に地獄の中で必死にもがいている人間達の様子が描き、そのコントラストによって神々の世界が時間に余裕があるように思わせています。このことで、神々は全然働いていないというイメージを与えます。

実際は神々はいつも全力で働いています。何故ならば、彼らは地球に生きる魂達に対する強い「愛」があるからです。「愛」が強い魂は、自分が愛する魂のために身を粉にして働きます。何故ならば、その相手が大事だからです。そして、今地球上で苦しんでいる魂達は膨大です。ですから、神々が苦しんでいる魂達のために自分の時間も惜しんで全力を尽くしていることは間違いなく言えます。ですから、この『蜘蛛の糸』で描かれているお釈迦様の姿は間違っています。

また、地獄とは正反対に神々はいい思いをしているというイメージも、『蜘蛛の糸』を読んでいると抱えてしまいます。このイメージも悪魔の罠になります。「愛」が強い魂にとって、自分にとって大事な誰かが苦しんでいることは本当に苦しいことです。だから、神々がいい思いをしていることはなく、むしろいつも苦悩をしています。

この『蜘蛛の糸』が間違ったイメージを膨大に抱えている根拠は神々の「愛」が強いという点にあります。そして、「愛」の性質を分析をしていくことが重要になります。

そのようなことを理解して頂いてから、全文の意味を非常に大雑把に解説付きで載せるので、もう一回読んで頂けると幸いです。そうすると、以下にこの『蜘蛛の糸』が悪魔の罠だらけであるのかということが分かって頂けると思います。

 

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ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池はすいけのふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。


※「神々は暇」という嘘。
 


池の中に咲いているの花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色きんいろずいからは、何とも云えないにおいが、絶間たえまなくあたりへあふれて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。


※「神々がいい場所にいて、いい思いをしている」という嘘をほのめかす表現。

 



やがて御釈迦様はその池のふちに御佇みになって、水のおもておおっている蓮の葉の間から、ふと下の容子ようすを御覧になりました。

※「神々が地獄の様子をたまにしか見ていない」という嘘。神々の認識能力は人間と異なり、一つの時間に膨大な数の認識ができます。そして、「愛」が強い魂はいつも全員と向かい合おうと思うので、地獄の様子を神々はいつも知っています。



この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当って居りますから、水晶すいしようのような水を透き徹して、三途さんずの河や針の山の景色が、丁度のぞ眼鏡めがねを見るように、はっきりと見えるのでございます。


※これは嘘のデザインであって、神々の地獄にいる人間に対する「愛」がないということをほのめかすためのもの。



するとその地獄の底に、ガンダタと云う男が一人、ほかの罪人と一しょにうごめいている姿が、御眼に止まりました。


※神々はいつも地獄の全員を見ているので、この描写も嘘です。
 



このガンダタと云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、路ばたをって行くのが見えました。そこでガンダタは早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗むやみにとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
 御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、このガンダタには蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をしたむくいには、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。


※これは一見いいエピソードのように見えますが、実際は神々が罪人に「罰」を与えるために地獄を用意しているという設定を示す文章です。このように、悪魔はいい話を利用して、間違った情報を読者に問わせないようにします。


 

幸い、側を見ますと、翡翠のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮しらはすの間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御おろしなさいました。


※蜘蛛は「闇」のデザインであって、だからこそ、神々の世界にこのように蜘蛛がいることはありません。蜘蛛というものが「光」に思わせる為に悪魔が用意している嘘。



こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていたガンダタでございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつくかすか嘆息たんそくばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦せめくに疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊のガンダタも、やはり血の池の血にむせびながら、まるで死にかかったかわずのように、ただもがいてばかり居りました。


※地獄に対する間違ったイメージを定着させる為の描写。

 


ところがある時の事でございます。何気なくガンダタが頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛くもの糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。ガンダタはこれを見ると、思わず手をって喜びました。この糸にすがりついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。
 こう思いましたからガンダタは、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。

 

※一般にサクセスストーリーはどんなストーリーであっても、人に共感をもたらしやすいものです。だから、どうしようもない状態の人間に希望がもたらされるようなストーリーは多くの人の共感を得られます。そういった意味で、悪魔が人々に「面白い」と思わせることを狙った描写。



しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくらって見た所で、容易に上へは出られません。


※神々が酷いことをする(ものすごい距離を登らせようとしている)ということをほのめかす文章。

 


ややしばらくのぼるに、とうとうガンダタもくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。
 すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。ガンダタは両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限かずかぎりもない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるでありの行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。ガンダタはこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、莫迦ばかのように大きな口をいたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえれそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数にんずの重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中でれたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎かんじんな自分までも、元の地獄へ逆落さかおとしに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよとい上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。
 そこでガンダタは大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。お前たちは一体誰にいて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」とわめきました。
 その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急にガンダタのぶら下っている所から、ぷつりと音を立ててれました。ですからガンダタもたまりません。あっと云うもなく風を切って、独楽こまのようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。
 後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。

 御釈迦様おしゃかさまは極楽の蓮池はすいけのふちに立って、この一部始終しじゅうをじっと見ていらっしゃいましたが、やがてガンダタが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、ガンダタの無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。

 

※神々が「闇」を犯した人間に「罰」を与えるということを直接的に表現している文章です。ガンダタは「罰」を受けて当然だと読者に思わせるための構造を悪魔は用意します。こういった「罰」は当然という気持ちを抱かせやすい構造を持たせることで、読者は知らず知らずの内に神々が罪人に「罰」を与えるということを信じてしまいます。「酷い人間をよく描写→神々が罰する」という流れを用意することで「神々が罰する」ということをスムーズに捉えさせています。人が何かを受け入れる時にその大きな要因となるのは何らかの共感です。逆に言うと、共感さえしてしまえば、その信じている内容自体を吟味することはかなり減ります。また、物語はその世界に没頭してしまうので、問う能力が失われてしまいます。この部分の表現も人間程の「愛」の大きさだったら、こういった罪人には「罰」を与えて当然だけれども、神々程の「愛」の大きい魂だったら果たしてどのように振る舞うだろうかという問いが本当は必要です。しかし、物語に没頭させることにより、そのことを問う能力を奪います。


 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足おみあしのまわりに、ゆらゆらうてなを動かして、そのまん中にある金色のずいからは、何とも云えないい匂が、絶間たえまなくあたりへあふれて居ります。極楽ももうひるに近くなったのでございましょう。


※地獄と極楽のコントラストを使うことで、神々が如何にいい思いをしていて、楽に生きているのかを表現する為の描写。実際は嘘になります。また、「極楽は丁度朝なのでございましょう」と「極楽ももうに近くなったのでございましょう」という二つの文を使うことで、文章自体のかっこよさを演出しています。そして、こういった芥川龍之介が使う「かっこよさ」を好きになるのであれば、芥川作品全般を読みたいと思うので、悪魔は芥川作品によって読者により多くの「呪い」を与えることができます。

 

【最後に】

このような形で、芥川龍之介の作品は悪魔の罠に満ちています。そして、こういったものを読むことで自分の中のイメージを変更されるということを意識化しない限り、単純に「面白いから」といった理由で読んでしまうことになります。小説を読むということが我々の様々なものに対する「イメージ」を変更する行為であることの危険性を理解して頂けると幸いです。

悪魔はこういった文章を読ませることで「面白さ」を読者に与えます。そして、その代わりに様々な形で間違った情報を読者に植え付け、「呪い」を抱えさせていきます。芥川龍之介はそういったことを悪魔がするために利用された作家です。

残っている写真にもよく表れているように、芥川龍之介は「優越感」=「ナルシスト」に囚われていた作家です。だからこそ、芥川龍之介の文章は「かっこよさ」がありますし、多くの人がその「かっこよさ」に魅力を感じていました。悪魔はその「かっこよさ」を餌に人間を呪っていた形になります。

その人間が一体どの「闇の気持ち」で悪魔と共に働くのかということはあります。芥川龍之介は自分が「かっこよさ」や「賢さ」を持った文章を書くことができるという「優越感」の中で文章を書き、悪魔はそういった形で「優越感」を芥川龍之介に抱かせることで、「闇の気持ち」を強く抱かせ、その状態だからこそ様々な文章の「アイデア」を芥川龍之介に「気」で与えることができた形になります(「闇の気」を悪魔が人間に与えるためには、その人間が「闇の気持ち」を抱いている必要があります)。

そして、芥川龍之介は悪魔にとって都合が悪くなったが故に悪魔に殺されています。芥川龍之介が「ぼんやりとした不安」から自殺したことは有名な話ですが、「ぼんやりとした不安」という言葉が悪魔の関与を分かりやすく捉えています。普通、「不安」には対象があるものですが、「闇の気」を強く抱えると、「不安」の対象がなくても「不安」を抱くようになります。ですから、この「ぼんやりとした不安」の一言から芥川龍之介が悪魔からの「闇の気」だらけであったということはよく分かります。

悪魔は「闇の気」を司り、「気持ち」「気分」という言葉に書かれているように、人間は「気」を「持つ」、「気」を「分つ」ことによって「感情」を抱いています。そして、神々は「光の気」を、悪魔は「闇の気」を人間に与えます。ですから、「ぼんやりとした不安」をもたらしていたのは、悪魔であると間違いなく言えますし、そういった「不安」によって自殺をしたということは、悪魔によって殺されたということを意味します。

神々は絶対に人間を殺そうとは思いません。ですから、神々と共に働く芸術家が自殺をすることは稀です。それに対して、悪魔はその悪魔自身にとって都合が悪くなれば、簡単にその人間を殺します。ですから、悪魔と共に働く芸術家が自殺をすることは本当に多いですし、芥川龍之介もその一人になります。

現代は「芥川賞」という賞の名前に象徴されるように、芥川龍之介を賞賛している時代です。そのことから、現代が如何に「闇」の時代かということも感じられます。

芥川龍之介が悪魔に文章を書かされていたということは非常に分かりやすいです。ですから、芥川龍之介の文章に悪魔が仕掛けている様々な罠を明らかにすることで、我々は悪魔が人間にどのような罠を仕掛けるのかということをよく理解できます。

そういった形で芥川龍之介の文章をこれからの時代に活用することが芥川龍之介の魂のためでもあります。芥川龍之介は死後に地獄に行き、自分が如何に間違ったことをしてきたのかということを深く理解しています。しかし、現代でも芥川龍之介の文章が賞賛されていることは芥川龍之介の魂にとって、本当に辛いことです。何故ならば、自分が死んでから90年が経った今でも、自分が犯した過ちが日本人を狂わせていることになるからです。

日本人全体のためにも、芥川龍之介のためにも、芥川龍之介の文章に悪魔が仕掛けた罠を理解していくことが非常に重要であることも理解して頂けると幸いです。