「私もだ、いつもカヤを想おう(アシタカ)」
「皆もう泣かないで、大丈夫よ、私はすぐに帰ってくるわ(ナウシカ)」

アシタカが旅立つ時のカヤに対する接し方を通して、我々は「水の気持ち(問題解決の心)」の短所を知ることができます。また、ナウシカが旅立つ時の子供達への接し方と比較することで、ナウシカがアシタカよりもどのように優れているのかを確認できます。これらのことを理解することは大変大事なことです。

「水の気持ち(問題解決の心)」は「冷静」な精神性だからこそ、「冷静」でいることが短所となるような場面では、「水の気持ち」を抱くことが適切でないことがあります。

相当な想いでアシタカを見送っているカヤに対して、アシタカがあまりにもあっさりと旅立ってしまっていることは、そういった「水の気持ち」の短所がよく表現されています。

アシタカの意識は「水の気持ち(問題解決の心)」によって、先のことに向かれています。だからこそ、玉の小刀を渡したカヤの想いを「思いやる」こともなく、「ありがとう」とも言いません。

それに対して、ナウシカの意識は「風の気持ち(思いやりの心)」によって、目の前の子供達に向けられています。チコの実をたくさん集めてきた子供達に対しての「こんなにたくさん、大変だったろうに。ありがとう、大事に食べるからね」というセリフは「思いやり」の表れです。

「感謝」という心は、「風の気持ち(思いやりの心)」と密接な関係にあります。というのも、相手の苦労や想いなどを「思いやる」ことによって「感謝」は深まるものだからです。そういった「感謝」の本質もこの両者の比較は我々に教えてくれます。

「水の気持ち(問題解決の心)」は「問題解決」を目指す精神性であるが故に「問題」に視野が向きやすい性質があるからこそ、「否定的」な点に目が行きやすく「肯定的」な点に目が行きにくいです。そういう性質だからこそ、「感謝」しにくい精神性です。

それとは対照的に、「風の気持ち(思いやりの心)」は「支えること」を目指す精神性であるが故に「良いこと」に視野が向きやすい性質があるからこそ、「肯定的」な点に目が行きやすく「否定的」な点に目が行きにくいです。そういう性質だからこそ、「感謝」しやすい精神性です。

そういった違いがこの2つの場面にはよく反映されています。また、アシタカは誰かに急かされているわけでもないにも関わらず、あっさりと旅立つのに対して、ナウシカは兵士に急かされているにも関わらず、じっくりと時間をかけて旅立っている点も、この2つの精神性の違いをよく表しています。

その結果として、アシタカを見送るカヤの背中には「切なさ」が滲み出ているのに対して、ナウシカを見送る子供達の表情には「笑顔」が溢れています。

この比較を通して、自分のことを大事に思う他者が贈り物と共に自分を見送ってくれる時の精神性としては、「水の気持ち」よりも「風の気持ち」の方が適切だということも分かりますし、アシタカとナウシカの違いもよく分かります。

アシタカは素晴らしい「水の気持ち」の使い手だからこそ、素晴らしい活躍をします。しかし、「水の気持ち」以外の「愛」は乏しいが故に、足りない部分もあります。

それに対して、ナウシカもアシタカ同様に素晴らしい「水の気持ち」の使い手だからこそ、素晴らしい活躍をします。しかも、「水の気持ち」以外の「愛」も豊かであるが故に、足りない部分がありません。

構造的にあまりにも似ている2つの旅立ちのシーンを比較することで、我々は「水の気持ち」の短所を理解することもできますし、ナウシカが何故、最も理想的な人間であるのかも理解できます。

こういう点が理解できたなら、このアシタカの見送りのシーンが映画に入れられたことの価値も分かりますし、宮崎駿が如何に素晴らしい作り手であるのかも分かります。

宮崎駿は本人が自覚している以上に、ある精神の真実を描くことができる芸術家であるからこそ、宮崎駿作品は我々に心の真実を教えてくれます。